神様の隣人 _ | ナノ

16

 ミスをした。
 任務に七海くんと来ていた。とうの昔に潰れたラブホテルが現場であった。呪力が不自然に一箇所に集まっていたから、私たちはその部屋を目指した。警戒は勿論していて、あなたに何かあったら、私が五条さんに文句を言われるんです、と小言をこぼしながら、私の前を七海くんが庇うように歩いてくれた。
 気配だけで具合が悪くなりそうな、おどろおどろしい呪力の塊だった。
 扉の前に辿り着いて、七海くんと目を合わせ頷きあい、勢いよく扉を開けた。開けて驚いた。きゃあと甲高い女の声と、うわっなんだテメェら、という野太い男の叫び声が部屋に響いたのだ。部屋には裸の男女を取り囲むようにぐるりと呪霊が湧いていた。呪霊に取り囲まれている、という状況だけでも卒倒しそうだというのに、性の匂いがむわりと篭り、私は胃の奥のものが迫り上がってくるのを堪えきれなかった。吐瀉物が、床に散った。それがまた臭って私は倒れそうになった。
 むせかえっていれば、七海くんに突き飛ばされるように、私は廊下へと押し出された。
 自分だってしてるくせに、他人の見てゲロ吐くなよ。と、後になって硝子に笑われたが、それとこれとは話が違った。それに続くようにして、AV一緒に見て慣れる? と言った五条くんの提案も、全くもって検討違いのものであった。
 私は部屋中を埋め尽くす呪霊と、その呪霊に取り囲まれながら、全く気づかず、あんな汚い場所で行為に至ったあの二人の気持ち悪さに嘔吐したのだ。たぶん、あそこが普通のラブホテルで呪霊がいなかったら吐いてなんかいない。そのまま廊下に座り込んでいると、七海くんが戻ってきた。帰りますよ。と苛立った声と顔で言うと、失礼、と私を横抱きにして補助監督の待つ帳の外まで連れて行ってくれた。
 補助監督による追加調査の結果によると、なんでもそこは所謂ヤリ部屋として地元の不良に使われていたらしい。私が見たカップルも、その部屋を使う人たちの一組に過ぎなかったという報告だった。何はともあれ、そのカップル、生きていてよかったですね。補助監督は言ったが私はいまいち素直に頷けなかった。
 帰りの車の中で、七海くんが水の入ったペットボトルをくれた。ごめんね。と色々な意味をこめて私は七海くんに謝ったが、いえ、別に。とそっけなく返されてしまった。
「体調が戻ったなら、何か胃にいれますか? 何も食べてないように見えましたが」
 吐瀉物から胃の中を判断されたことが恥ずかしかったが、私はそれについては何も言わず、ゆっくりと首を横に振った。ローファーから足を抜いて寛がせる。
「大丈夫。ちょっと、寝る」
 眠たかったわけではないけれど、疲れていた。未だムカムカとするお腹をひっそりと撫でる。確かに今朝は、何も食べずに出てきてしまっていた。
 五条くんの部屋に泊まった日の翌日は、朝ごはんを抜きがちだった。
 夜ご飯を食べ過ぎてしまうせいでもあるし、自分のものとは明らかに肌触りの違う良質なお布団から、抜け出したくなくなってしまうせいでもあった。
 今朝に関しては後者である。

 起きたら、首がこっていた。
 どうやら五条くんの腕枕で私は眠っていたようだった。
(首痛い)
(普通に枕で寝ればよかった)
 腕枕はあまりしてもらわない。
 お互いに寝ずらいし、五条くんもあまりしたがらない。
 でもこうやってたまに、五条くんの気まぐれで、腕を投げ出されるときがある。
 そういう時の五条くんは、機嫌が良い。
 いつもより声が少し大きくなるし、よく笑う。五条くんは、おおっぴらに態度に出すから、機嫌がわかりやすいのだ。
 そんなわかりやすい上機嫌は、私を心底安心させた。全身から「甘えていいよ」と、彼にしては珍しい柔らかな空気を放出してくるのだ。そうなると、私はもう抗えなくて、ついつい吸い寄せられてしまうのであった。
 それがたとえ、翌朝、肩を疲れさせることになるとわかっていても、である。

 そんなことを考えながら、滑り落ちるように五条くんの腕から頭を下ろした私は、今度は五条くんの脇の下に潜り込むように頭を寄せた。
「まだ寝るの?」
 頭の上から声が降ってくる。そのままの位置で上目遣いに声の方を見れば、五条くんがククッと喉で笑った。
「おはよ」
 五条くんが言った。どこか目元がトロンとしているのは寝起きのせいだろうか。
 私はうつ伏せになって、ベッドに肘をつき上半身を起こした。
「おはよう」
 朝の挨拶を返して、そのまま五条くんのほっぺたにキスをする。
「口じゃねぇの」
 五条くんが、揶揄うように言った。
「うん」
 私は素直に頷く。
「なんで」
「五条くんから、されたい」
 五条くんはきょとんとした顔をすると、すぐにくりくりとした目を細めて眉間に皺を寄せた。
ばっかじゃねぇの。
 五条くんは、むっつりとそう言いつつも、私の後頭部を引き寄せてキスをくれる。
 乾いた唇が擦り合わされていくうちに、徐々に湿り気を帯び始める。ペタと五条くんの舌が割り込もうと唇の隙間に入り込できたので、私は慌てて、五条くんから唇を離した。
 あ? と五条くんの顔が歪む。なんで。続く言葉は普段より低い声になっていた。
 まさに今、機嫌悪くなりました、と言わんばかりの声色である。
 五条くんは、不機嫌になったときも、おおっぴらに感情を出してくるのだ。
「私、今日任務なの」
 私はこれからの予定を思い浮かべた。今日は朝一で七海くんとの任務であると、昨晩、補助監督の草薙さんから連絡がきていたのだ。
 だから、あんまりダラダラとしている場合ではない。何より遅刻の理由が五条くんと過ごしていたから、なんてことは絶対に避けたかった。
「べつにキスくらい」
「嫌だよ、五条くんとちゅうするの、疲れるもん」
 一ノ瀬から、ねだったくせに。五条くんが恨み節で言う。ていうか、疲れるってなんだよ。
 困ったな。機嫌を損ねてしまった恋人にそう思う反面、拗ねた顔がなんだか可愛くて、私の頬はつい緩んでしまう。
「何、笑ってんだよ」
 五条くんが、気づいた。
「ううん。好きだなって思って」
 告白すると、ぷいとそっぽを向かれてしまう。
「……もういいから、早く行けよ」
 どうやら五条くんはもう一度、布団に籠ることを決めたらしく、タオルケットの中に潜りこんでしまった。
(帰ってくるまでに、機嫌戻ってるといいな)
 凝り固まった首をぽきりと鳴らしながら、私はそんなことを思っていた。

 能天気にそんな事を思って出てきた始末がこれである。
 高専に戻り、七海くんと別れて教室に向かうと、廊下に夜蛾先生と五条くんがいた。二人は何か話しているようだった。任務の話だと思って、声はかけなかった。教室後方の扉を出来るだけ静かに開けると、硝子が振り向いた。ただいま、と硝子に声をかけると、おかえり、と返される。
「灯、話がある」
 教室に入ろうとしたとたんに、夜蛾先生に呼ばれた。私ですか、と、不思議に思って夜蛾先生を見ると、強張った顔で、神妙に頷かれた。そばに立つ五条くんは俯いていて、私は嫌な予感がした。何かあったんですか。私が慎重に聞くと、夜蛾先生もまた慎重に口を開いた。
「傑が離反した」
 りはん? 言葉の意味が咄嗟に浮かばなくて、私が首を傾げると、夜蛾先生は、
「任務先からの逃亡が確認された。規定により呪詛師として罰せられる」
 と、説明した。今思えば、事件の概要を何も言わなかったのは夜蛾先生なりの配慮だったのかもしれない。五条くんや硝子は、そのままの事実を聞かされた、というのも後から聞いた話の一つだ。
 けれど、その時の私には、夜蛾先生の心配りなど全くわかっていなかった。それはきっと五条くんもだ。なぜ、と私が先生に聞く前に、五条くんは、
「一ノ瀬おまえ、傑に何言った」
 と細く小さな声で呟いた。

「おまえ、傑に何言ったんだよ」
 突然、五条くんが私の両肩を掴んできた。ぐらぐらと身体が揺すられる。ついさっき胃の中のものを戻したばかりの身体には、強すぎる衝撃で、私はくらりと眩暈を覚えた。
「何やってんだ、悟」
 厳しい声で、夜蛾先生が言い放った。五条くんの腕を熊みたいな大きな手が掴むと、五条くんの手にも力がこもって、制服越しに五条くんの指が私の肩に食い込んできた。
「痛っ」
「おまえがなんか言わなきゃ、傑が非術師殺すわけねぇだろ」
 殺すって、何。驚いて私は五条くんの顔を真っ直ぐ見上げた。ぐしゃり、という音が聞こえそうな程に五条くんは顔を歪めていて、今にも泣き出してしまいそうだった。助けて、傑。そんなことを言っている五条くんを私は一度も見たことが無かったけれど、私の頭の中には五条くんの声でそう、はっきりと聞こえてしまっていた。
「非術師嫌いは、おまえだろ」
 五条くんは、私にそう言ったけれど、私の答えなんて求めていないようだった。それでも、五条くんは縋るように私の肩をきつく掴んで、私に言葉をかけ続けた。
「傑に何、吹き込んだんだよ」
「悟! いい加減にしろ」
 夜蛾先生が五条くんを遮った。勢いよく五条くんの手が私から引き剥がされて、離された私の方がバランスが取れずに廊下に尻餅をつくこととなった。教室から出てきた硝子が私に駆け寄ってくれたおかげて、私は無様にゴロンと寝そべるようなことにはならずにすんだが、硝子がいなかったら、情け無くも床に転がっていたことだろう。
 五条くんは今度は先生に向かって叫んだ。叫んだというのは違うかもしれない。声は出していなかったからだ。それでも、五条くんの全身は悲鳴をあげるかのように、確かに何かを叫んでいた。
「自分が何言ってるか、わかってるのか」
 夜蛾先生は五条くんに動じることなく、厳しい声のまま言った。五条くんは再びうつむいている。
「教唆となったら、灯も執行対象になるんだぞ」
 勢いよく五条くんが顎を上げて、私をみた。五条くんの唇に力がはいり、顎に皺が寄っている。
「どこで誰が聞いているかわからない。発言には気をつけろ」
 夜蛾先生が続ける。
「自分の立場を忘れるな。悟、おまえの一言はでかいぞ」

 座りこむ私を、優しい力で引き起こすなり五条くんは、
「大丈夫? 痛いとこない? 腕は?」
 と、確認してきた。それに私が、一つづつ頷いた後に、
「五条くんは大丈夫?」
 と彼の腕に目を向けると、五条くんは、
「本当ごめん。頭冷やしてくっから、硝子と一緒にいて」
 と、まるで小さな子供にするかのように私の頭を撫でて、その場を去っていってしまった。大きな身体を、小さく縮こめるような歩き方だった。それでも、丸まった背中は、私よりずっと大きな背中で、それが私をなんとも言えない気持ちにさせた。五条くんの背中を包みこむこともできないこの腕は、いったいなんのために守られているのだろう。
 硝子に支えられながら入った教室の窓からは、ポカポカ、なんて響きが似合う柔らかい日差しが降り注いでいた。眩しい光に私は思わず目を細める。嫌な日だ。晴れた天気すら忌々しい。
 硝子は私から手を離すと、窓際の自席に腰を下ろした。脚を組み、机に肘をついている。私は硝子の隣に立って、ぼんやりと晴れた空を見上げた。空は、青々と澄みわたり、白い雲をところどころに漂わせている。空には、五条くんの姿も傑の姿も、探したけど当たり前に見つからなかった。
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