神様の隣人 _ | ナノ

15

  空を眺めていた。
 ブーダンの絵にでも出てきそうな、夏の空だった。
 引き続き、呪術界は学生から補助監督まで忙しい日々を送っている。
 中でも私の同級生達は、稀少な才能を持ちたる故、とりわけ忙しくしているようだった。
 五条くんと傑が、それぞれ単独で全国各地に飛びまわされているかと思いきや、全国各地からは、硝子のもとに重症患者が運ばれてくる。
 そんな毎日が繰り返されれば、必然的に私は教室で一人になることが増えた。
 最後に、この教室に四人揃ったのはいつだったか。記憶はあるのに、日付が鮮明としない。
 それくらい、前の話だった。
 あまりに皆揃わないものだから、私はこのままずっと一人なのではないか、と余計な心配までしてしまうくらいであった。
「くだんねぇこと考えてる暇あるなら、お前も働け」
 五条くんに知られたら、そう叱られるかもしれない。けれども、私に彼等のような任務がこなせるわけもなく。
 私は一人、空を見上げながら、時間を持て余しているのである。

 退屈しのぎに、外に出た。
 高専の敷地内をぶらぶらと歩いて時間を潰そうとしたのだ。しかし、勝手知ったる道を当てもなく歩き続けるというのは、どうにも余計に退屈を助長させるものらしい。
 ならばと、私は高専の敷地を出た。
 三年目にして、初のサボタージュである。
 教室を出た時点で何を今更と言う話ではあるが、敷地外にでるのとそうでないのでは、私の中では大きな差があった。
 行くあてが無かったので、ちょうど来たバスに乗りこんだ。バスは夏に五条くんと傑と行った神社へと向かって走り出した。楽しい思い出に触発され神社に降りたってみれば、そこは祭りの日とはうってかわって人気がなく、静かだった。
 そうなると、私もただ静かに歩くしかなくて、黙々と参道を歩いて階段を上った。賽銭をいれ鐘を鳴らしまではしたが、灰原くんが頭に過って祈るのをやめた。
 叶わなかった願いを、もう一度繰り返すのは不毛に思えたのだ。
 そうすれば、もうすることが無くなった。同じ道をそそくさと戻り、またバスに乗って、コンビニには寄らずに高専へと帰った。
 依然、退屈である。
 いつから私はこんなに、一人が下手になっていたのだろうか。

 教室に戻ると、窓枠の下から白い煙が一歩立ち昇っていた。あ、と思って窓に駆け寄り、火の元を見れば、傑がガニ股に蹲みこんでタバコを吸っていた。
「あれ、傑?」
 硝子だと思っていたから、私は少しだけ驚いた。
「え」
 傑がタバコを咥えたまま振り向いた。
「灯、いたのか」
 言いながら傑は口からタバコを離して、地面に火を擦り付けた。吸い始めたばかりだったのか、半分に折れたタバコはまだ長かった。
「べつに、吸ってていいのに」
「そういう訳にもいかない」
 傑は真面目な顔をして、
「君に匂いがうつる」
 と言った。
 硝子は気にせず吸うけどな、と私は折れたタバコをぼんやりと眺めながら思う。
 傑がタバコを吸うことは知っていたが、実際に吸っているところを見ることは滅多にない。というか、初めて見たかもしれない。
「もしかして、いつも気を使ってくれてた?」
「いや、そう言うわけじゃない。私は、そもそも硝子ほど愛煙家というわけではないしね」
「そうなの?」
「ああ。べつにタバコじゃなくてもいい」
 じゃあ、今って結構レア? 私は窓の棧から身を乗り出した。そうだね、と傑は目を細めて笑う。

 傑に会うのは、あの抱きしめられた日以来、3日振りのことだった。傑の上を、分厚い雲がゆっくりと漂っている。雲の隙間から漏れる、昼の強い日差しが、焼き付けるように傑の影を濃く地面にうつしていた。
 膝に手をついて、傑が立ち上がる。
「灯は何してたの?」
 言いながら傑は、隣の窓から窮屈そうに身を括らせて教室に入ってきた。
「ちょっと、ぶらぶらしてきた」
「ぶらぶら」
「歩いたり、バス乗ったり」
 楽しそうだね。さらりと傑が言った。それが、そうでもなくてね。私も軽くさらりと言う。
「無理に普段と違うことなんかしないで、バイオリンの練習でもしてればよかった」
 バイオリンケースは机の上に置きっぱなしだ。
 中学までは、何時間弾いても時間が足りるということは無かった気がする。コンクールや演奏会など、明確な目標みたいなものが定期的にあったからかもしれない。
「君はなぜ、バイオリンの練習を今もそんな熱心に続けているんだ」
 術式に上手い下手は関係ないだろう。傑が椅子に座った。プロになりたいとか思う?
 両立は無理な仕事だよね。私の答えに傑は頷かなかった。何も言わずに私を見てくる。手を庇いながら祓う余裕は無いな、私。答えながら、私は傑から目を逸らし、一度壊死した右腕を眺めた。

 術師になってからの方が、バイオリンを楽しく弾けている。そう言うと、傑は首を傾けた。
「前は違った?」
 そうではない。呪霊が見たくない、という理由で弾き続けたバイオリンではあったが、技術が伸びるにつれて、賞が欲しいとか、特待生の立場を守りたいとか、そういう、単純にバイオリンを楽しむとは別の理由を中学生の私は少なからず持つようになっていたのだ。
「今も、人から上手いねって褒められたら嬉しいけどね」
「灯は上手だよ」
 しばらく、傑は沈黙した。窓から風が入り込んできた。傑の顔に垂れる一房の前髪が、僅かに風に揺らいだ。
 傑が薄く口を開く。
「理子ちゃんも言っていた」
 理子ちゃん。私が繰り返しながら首を捻ると、
「星漿体」
 と、傑は言い直した。ああ。と私は俯く。思い出した少女の顔に、やっぱりバイオリンが好きなのか聞いておけばよかったと、少し残念に思っていた。
「天内さん、理子ちゃんって言うんだ」
「……そうか。悟は苗字で呼んでいたね」
 傑は、少し笑って言うと、ふっと力をぬいて、だらりと椅子の背にもたれかかった。そんな風に脱力した姿を、傑は私の前ではあまり見せない。五条くんが側にいないなら尚更のことだ。
「あれ、なんていう曲?」
「え」
「沖縄で、弾いてた曲」
 メロディは知っていたが、その曲名を知らない、と傑は言った。
「ああ。えっと、ええ何弾いたっけ」
 私は腕を組みながら、記憶を巡らせた。その場の思いつきで弾いたものだから、すっと出てこなかった。傑が知っていたと言うのだから、恐らく有名どころを弾いたのだとは思うのだけど。
 うんうんと唸っていると、傑が鼻歌を歌った。
 声の甘い傑が歌うと、鼻歌も甘い音になるらしい。
 何の曲かは、すぐにわかった。同時に、沖縄の夜の記憶が戻ってくる。
 タイスの瞑想曲。そうだそうだと、私はすっきりとした頭で曲名を答えた。
「タイスの瞑想曲」
 傑が繰り返す。
「そう。オペラの曲」
 タイスという古代エジプトを舞台にしたオペラは、キリスト教の修道僧であるアナタエルが高級娼婦であるタイスを信仰の道に引き入れ改心させることで、肉欲から救い出そうとする物語だ。修道僧の言葉を、愛と美の女神ヴィーナスを信奉するタイスは「愛こそが全てであり、真実」と、当初聞く耳を持たなかったが、いつかくる美貌の衰えへの不安から心を動かし始め、やがて、彼女は快楽の世界から神の道へ歩み出すために祈るようになる。
 私が傑に弾いて聴かせた「タイスの瞑想曲」は、タイスが俗世の生活から、信仰の道にいくことを決意する間の幕と幕を繋ぐ間奏曲であった。
「改宗を決意するまでの曲か」
「んーまあ、うん」
「……灯ならどうする?」
 沈黙の後に傑が聞いた。
 どうするって、何が。
私が聞き返すと、傑は、
「今の幸せが、このままではいつか終わってしまうかもしれない。そんな不安があったなら、灯は今ある信仰を手放すか」
 と、神妙な顔つきで問いた。
 信仰。私は口の中で呟く。頭に浮かぶのは、やはり五条くんの姿だった。
「手放せない」
「どうして」
「私の幸せは、神様がくれるものだから」
 私が答えると、
「灯の幸せは、悟だろう」
 傑はそう、断言した。それから、
「だとすると矛盾するな。悟は君の神様ではもうないはずだ」
 と、重ねる。
「灯は神でなく、男として悟を愛することを選んだのだろう」
 確認するように言った傑に、私は導かれるように一つ頷いた。
 五条くんが好き。その気持ちが根底にあるからこそ、私は五条くんを信じることが出来るのだ。
 決して、信仰が先にたつことはない。それはもう、間違えない。
 好きだから、五条くんと付き合っている。好きだから、バイオリンを弾いている。
 それが私の選んだ幸せなのだ。

「傑、弾いてみる?」
 教室の時計は午後三時を指していた。もうすぐ終業のチャイムが鳴る時間だ。今日はこのまま、傑と私の二人だけで放課後を迎えることになるのだろう。
 調弦を済ませたバイオリンを私が差し出すと、傑はぽかんとした顔を浮かべた。それから、小さく首を横に振る。
「触ったことすらない」
 傑が硬い声で言った。
「ここに顎、のせて」
 私は腰掛ける傑の後ろにまわり、背中側からバイオリンを差し出し直して、顎あてを傑の顔の脇に並べ合わせた。
 傑の顎が僅かに持ち上げられる。そうそう。と声をかけながら、傑を誘導していく。傑がぴたりと顎でバイオリンを挟んだ。
「ちょっと、そのままね」
 私は傑の後ろから手を伸ばし、バイオリンの弦を押さえ、弓を構えた。
 普段より長く伸ばした腕に、そういえば傑も大きいのだな、と頭の中で五条くんと比べる。
 五条くんの方が背は高いが、傑の方が厚みがあるように感じた。
「弾くよ」
 傑の背中が僅かに緊張したことに、私は気づかないふりをしてバイオリンを弾き始めた。普段伝わる振動がないからか、それとも無理に伸ばした手だからか、バイオリンから鳴る音はいつもと少し違って聴こえた。
 いかに普段聴いている音が、奏者の特権であるかを知る。
 それが良い音なのかどうかは、また別の話だけれど。
「灯は」
 傑がなにか呟いた。バイオリンの音にその声は消されてしまい、私は弾く手をとめた。
「ごめん、聞こえなかった。なに?」
「いや、何も言っていない」
 確かに何か口にした筈ないのに、傑はそんな風に言って、バイオリンから僅かに顔を離した。

「一ノ瀬いるの?」
 唐突に呼びかけられた。振り向くと、ちょうど教室の後ろの扉から五条くんが顔を覗かせたところだった。相変わらず、五条くんは気配を感じさせずに現れる。
「お、傑もいるの。久しぶり」
 五条くんがニコリと笑った。
 何やってんの。教室に足を踏み入れながら、五条くんが聞いてくる。
「傑とバイオリン弾いてたの」
 傑から離れ、五条くんの方に向き直りながら私は言った。
 傑と? と五条くんは首を傾げた。それから、ふっと鼻で笑う。
「柄じゃねぇ」
 馬鹿にするように、五条くんが口端を持ち上げた。
 またそんな言い方して。
 私は内心でため息をつく。喧嘩になるだろうか、と私は傑の表情を窺った。
「そうかい? 悪くなかったよ。悟も弾いてみればいい」
 私の気負いとは裏腹に、傑は五条くんの態度に機嫌を損ねる様子もなく、穏やかな口調で言った。
「嫌なこった、俺はバイオリンなんて興味ねぇんだよ」
 すっぱりと五条くんは断ち切る。この話はお終いとばかりに、早く寮に戻ろうぜと提案すると、五条くんはくるりと向きを変えて、入ったばかりの扉に向かっていく。
 ちょっと待ってよ。呼び止めながら、私はケースにバイオリンをしまい、蓋をしたバイオリンケースを背負った。
 教室に伸びる影は、神社から戻ったときよりも僅かに伸びている気がする。
 傑が席を立った。
「悟と二人で戻ってて」
 と言いながら、窓へとまた近づいていく。
「えー、何かあるなら待ってるよ」
 と、私が後ろ姿に声をかければ、
「久しぶりだろ、悟とゆっくり会えるなんて」
 と首だけで振り返りながら、傑は言った。
 それはそうだけど。私はちらと廊下を横目にみる。日の高い時間から五条くんと会えるのは、最近はなかなか無い。
「行っておいで。私は一服してから行くよ」
 傑はひらりと後ろ手でに手を振ると、窓の棧に足をかけて外に出ていってしまった。
 あ、と声を上げたときには、ピシャリと開けた窓が閉められてしまう。

「あれ、傑は?」
 追いかけた先にいた五条くんは、振り返るなり、私の後ろを探るように目を向けた。
「一服してくるって」
「硝子かよ」
 五条くんは呆れたように言い、私の手をとった。絡められた指先を、そっと握りかえす。
 久しぶりの五条くんの体温に、頬が緩んだ。
「えへへ」
 嬉しくて、つい、笑ってしまう。
「なに?」
「五条くんだ、と思って」
 緩む頬のままに言うと、は? と五条くんは怪訝な顔をした。わけわかんねぇ。呆れた口調のまま、眉間に皺を寄せた。ぶんぶんと繋いだ手を振って歩けば、何かいいことあったの? と五条くんが聞いてきた。五条くんは、つまらなそうな顔をしている。私はそれに、またニコニコとしてしまう。
「五条くんに会えたからね。嬉しい」
 そのまま寮へと続く廊下を、私と五条くんは並んで歩いた。
「嬉しい?」
「うん、嬉しい」
「ふうん」
 そっけなく五条くんは言った。高い位置にある顔もそっけない表情を浮かべている。そのまま手を握り直して、今度は五条くんが繋いだ手をぶんぶんと振った。楽しくて私は笑う。五条くんも笑った。
窓から吹く風が、涼しい。
 私が傑と高専で過ごした最後の日のことである。
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