神様の隣人 _ | ナノ

14

 お茶の水駅から少し歩いたところに、老舗の楽器屋がある。
 弦楽器専門の店だ。管楽器やピアノなど様々な楽器を取り扱う大手楽器店の分店で、メーカー問わず幅広い品を取り扱っている。
「ごめんね、付き合わせて」
 同級生三人に言うと、硝子が首を横に振った。
「いいよ、はやく行っておいで」
 硝子は、促すように顎で店の奥をさした。ありがとう、と、礼を言って私は小走りに店の奥へと足を進めた。

 楽器屋は、祖父が店を畳んで以来の、私の行きつけの店だった。かれこれ、小学生のときからの付き合いで、高専に入ってからも世話になっている。
「あれ、灯ちゃんデート?」
 もはや馴染みである、楽器屋のおじさんが言った。そういうのいいから。と、私が顔を顰めると、
「もう彼氏なんて出来る歳かね」
 と、やれやれ、とおじさんは首を振るった。
「それで、今日はどうされましたか?」
 おじさんが接客モードに切り替えて言った。
「弓が見たくて」
「弓? 張り替えたばかりじゃないっけ」
「そうなんですけど、それとは別にちょっと手頃なやつが欲しくって」
「それは、何用?」
 祓除用です。などと言えるわけもなく、ちょっと外で使いたくて、と私はにっこりと笑って告げた。おじさんは深く聞くことはなく、それならと商品棚を眺めている。

 これなんかいいと思うよ。手頃だし、灯ちゃんの好みだと思う。それか、フランスものだけど、こっちもいいかな。この二つは好みが別れると思うから、まず試してみて。気にいった方に近いものから、また候補を幾つか出すよ。
 おじさんはつらつらと説明したあとに、あーでも、と口を継ぐんだ。どうかしたのかと、不思議に眺めていれば、おじさんは申し訳なさそうに、顔の前で掌を立てた。
「今日、上で弦楽器のフェアやってて、試奏室埋まってるんだよね」
 そういえば、いつもより客の入りがいい。ちょっと待たせるかも。というおじさんの声を受けて、私は店内をくるりと見渡した。どうしよう。少し悩む。退屈そうな制服の三人組が目に入る。
「ここでちょっと弾いてもいいですか?」

 構わないよ、すまないね。眉を下げるおじさんに首を振って、新しい弓を構えた。
 最初に勧められた弓で軽く弾いてみる。弓をおろすと、ぱちぱちと疎らに拍手が起きた。音の方をみると、見知らぬおばあさんが手を叩いていた。店内で音を鳴らしたからか、何人か野次馬が出来ていたようだ。私はおばあさんにむかって、曖昧に笑いながら会釈をした。
「灯ってさ、やっぱり上手いの?」
 硝子が首を傾げた。
「いや、上手いなとは思ってたけど」
「一応、特待生やってたからな」
 答えたのは五条くんだ。
「特待生って、なるの難しいの?」
「俺らの行ってたとこだと、全国レベルで結果出してないと無理」
「それさ、呪術師やってる場合じゃなくね? 五条入る前に止めろよ」
「術式持ってて、まさか三年経っても三級やってると思わねえじゃん」
 もうちょっと術師としても伸びると思ったんだよ。と五条くんは続けた。硝子がそれに鼻で笑う。
「灯人生ドブに捨てすぎでしょ」
「そこの二人聞こえてるからね」
 私が尖った声をだしても、二人は怖がるそぶりも見せずに涼しい顔をしていた。
 傑は私を庇うことも、二人を諌めることもせず、黙ってショーケースの方に目を寄せていた。視線を辿っても何を見ているのかわからない、ぼんやりとした眼差しだった。
 新しい弓を手に楽器屋を出たら、思わず手を翳してしまう程に日差しが強く、ギラギラと陽が照っていた。

 事件が起きたのは、翌月のことだった。
 昨年頻繁した災害の影響で呪霊が例年よりも多く湧き、学生も含めて皆、忙しくしていた。
 灰原くんが、死んだ。
 当初の報告より強い呪霊が出たと言う。逃げ延びた七海くんに背負われて、すでに冷え固まった姿で灰原くんは高専に帰ってきた。
 灰原くんを安置所に運んだのは、傑だ。横たえられ、カバーをかけられた灰原くんの足元には凹凸が見られなかった。
 任務は五条くんが一人で引き継いだ。
「ただいま」
 五条くんは、怪我の一つもせずに出て行った姿のまま帰ってくると、私にお土産の入ったビニール袋を渡した。
 甘いお菓子は、五条くんの好みだろう。帰路の最中に摘んだのか、既に封が開いていて三つ中身が無くなっていた。ビニール袋にはお菓子を包んでいただろうセロファンのゴミが残っていた。
 その夜、私は五条くんの部屋に泊まった。
 投げ出された五条くんの腕の下で、私はもぞもぞと胎児のような姿勢をとる。
「眠れないの?」
 五条くんに聞かれて首を横に振った。けれど本当は、五条くんの言う通りで、目が冴えてしまっていた。
 灰原くんの通夜と葬儀は、明後日より順次執り行われるらしい。葬儀に参列するのは、祖父のとき以来だ。
 ふと、宇奈月の顔を思い出した。人ではなく、呪霊に転じた後、学園の音楽室で私のバイオリンから出てきたときの顔だった。怖くて汚い、呪霊の顔。
 灰原くんも見たのだろうか。
 息をついて、五条くんの身体に擦り寄る。心臓がドクドクと鳴っていて、温かい。

 灯は、呪術師を辞めようと思わないか。
 傑が私に聞いたのは、灰原くんの葬儀の翌日のことだった。
「呪術師、やっていけそうか」
 夏の空を背負うように、傑は教室の窓に背を預けながら、ぽつりと言った。
 灰原くんの話だと思った。
 灰原くんに一番慕われていたのは、傑だ。最後となった任務に行く前日も、傑に「お土産なにがいいですか」と、溌剌とした声で訊ねては、笑っていたという。
 そんな灰原くんの明るく生気に溢れた笑顔を、傑が好ましく思っていることは皆が知ることだった。
「うん、大丈夫」
「そうか」
 傑は? とは聞き返せなかった。傑が先に、
「ならいい」
 と会話を切ったからだ。それ以上、傑は何も話さなかった。しんとする教室は居心地が悪く、でも同時に、それ以上何も聞かれなかったことに内心ほっとしている自分もいた。
「ごはんは、一緒に食べようね」
 私は言った。
 かけられる言葉を持たない私は、ただ、側にいることしか選択を持ち合わせていなかったのだ。
 きっと気休めにもならないだろう。それでも、故人を偲ぶとき、私は一人であってはいけないと思っている。
 それは、長い時間をかけて祖父母の死を受けいれていった父を見ていたからかもしれないし、祖父の葬儀後、一人でいたところに宇奈月と遭遇したトラウマからかもしれない。
 傑は顔を勢いよくあげるなり、私を真っ直ぐに見た。小さく傑の口が動いたのが見えたが、何と言ったのかは聞こえなかった。
「行こう、傑」
 隣に並んだ背中は、いつかこうして歩いたときよりも、小さく痩せたように思えた。

 実際に、傑は痩せていた。
 私より先に気づいたのは五条くんだ。昼食にそうめんを湯がいていた私をみて、五条くんがそういえば、と話だしたのだ。
「そうめんって、腹堪んなくね。傑もそうめんばっか食ってるぽいんだけど、なんか痩せてたし」
 言われて、私は傑の姿を思い返してみた。それで、首を捻る。
「痩せた?」
「あ? 痩せたろ、おまえ気づかねぇの?」
 五条くん程、傑といないもん。と言いかけたものの、五条くんと傑は最近個人での任務ばかりなことを思い出して、口をつぐんだ。むしろ私の方がそれぞれと会う機会は多いかもしれない。
(確かに、最近疲れてそうではあるかも)
 言われてみるとそんな気になってくる。
 今年は昨年の災害の影響か、呪霊の発現が多く報告されていた。術師はみんな大忙しである。きっと忙しさにかまけて、ろくな食事もせずに、夏バテにでもなったのだろう。

 食事に誘った手前、何か振る舞おうと思ったものの、私もまた多忙を理由に食事を怠けている側であり、私の冷蔵庫には大したものは入っていなかった。こんなことなら、寮母さんに声をかけておけば良かった。
 あまりお腹は空いていない、という傑の言葉をそのまま受け止めて良いものか悩んだが、無いものは無いので、お言葉に甘えて軽食にすることにした。
 バケットを切ってトースターで焼く。
 それから、冷蔵庫にあったサーモンスライスのパックと、五条くんが部屋に置いていった、お取り寄せのレモンマーマレードのジャムを取り出した。
「サーモン?」
 傑が呟いた。
「うん、嫌い?」
「いや平気」
「たぶん合うと思うんだよね。あとなんか、葉っぱないかな。あ、レタスあるじゃん」
 野菜室から見つけたた少量のレタスを千切って、水で洗う。そうこうしていると、チンと軽い音をたてて、トースターがバケットの焼きあがりを知らせた。
 扉を開ければ、ほんのりとバターの香りが漂ってくる。
 安いパンでも、焼いておけば大体美味い。とは、実家を離れる娘に母がおくった有り難い教えである。
 ジャムを薄くぬり、レタスとサーモンをバケットで挟む。
「完成」
 はい。と傑に差し出す。傑は、私をじっと眺めながら、バケットサンドを受け取った。そのまま一口で、半分程一度に頬張った。傑の口の大きさに私はひっそりと驚く。やがて左頬の膨らみが無くなると、傑の喉仏はゴクリと縦に動いた。もう一度口が開けば、残り半分がまた、豪快に放られる。
「美味しい?」
 聞けば、傑は小さく首を縦に振った。
 ならよかった。ふふっと笑ってから、私も同じように作ったバケットサンドを一口齧った。
 レモンの風味が爽やかである。
 ありもので作ったにしては、なかなか上出来なのではないだろうか。
(五条くんにも今度つくろ)
 そう思いながら、もぐもぐと咀嚼していった。いちごジャムとぜんざい以来、五条くんはジャムの新たな可能性を検討し続けている。というと、大仰な話に聞こえるが、何かもっと美味しくなる組み合わせはないかなあ、と探しながら食事をとるのが、私と五条くんの唯一の共通の趣味なのだ。
 あっという間に空になった傑の皿に、
「もっと作る?」
 と、聞けば、傑は何も言わずに身体を傾かせた。
 手が伸ばされた、と認識したときには、すでに傑の手は私の肩を捉えていて、引き寄せるように傑は私を抱き寄せた。
 近づいた首筋からは五条くんと違う匂いがした。一瞬で距離を詰めた私と傑の間には、それでも僅かな隙間があった。
私の右手が傑を拒むように、突っ張っていたのだ。
 自分でも、いつ、その手を差し込んだのかわからない。反射的なものだった。
 傑、と私は名前を呼んだ。困った、情け無い声で。
 すまない。と傑が答えた。くぐもった、傑らしくない声であった。すまない。もう一度傑が繰り返す。ありがとう、間違えるところだった。
 素早く、でも穏やかに傑の身体は私から離れていった。伸ばした右手よりも二人の距離が開けば、傑はまるで、何も無かったかのように立ち上がって、
「邪魔したね。ご馳走さま、美味しかった」
 と、告げて部屋を出て行ってしまった。傑を遠ざけたのは私の方なのに、引き留め損なったような気持ちになった。
 あれはいったい、何だったんだろう。
 去っていく傑の周りには、見えない分厚い帳のような何かが張られているみたいだった。他者を決して通さない、強固で破れない、そんな帳。

 携帯電話が鳴った。五条くんからの着信だった。もしもし、という電話越しの五条くんの声は少しいつもと違うように聞こえた。
「風邪?」
「え?」
「いや、声がなんか違うから」
 機械越しの声はザラザラとしている。
「ああ、エアコン直で浴びて寝てたからかも。大丈夫」
「そっか」
「よくわかるね」
 五条くんの声に、肩を竦めた。いつもより低い声が耳に届いて擽ったくなる。
「わかるよ」
「そんな変?」
「んーん、そういうわけでも無いけど」
 ふうん。と五条くんは言うなり、あ、そうだ。と話題を変えた。
「一ノ瀬もう、飯食った?」
 五条くんが続ける。
「これから新幹線でさ、あと二時間くらいで着くんだけど、待てんならどっか行かね?」
 ああ、えっと。食べちゃった。五条くんの誘いに、私は、まごまごと答える。
「えー、ま、そっか」
「うん。ごめん」
「いいよ。何食ったの?」
「レモンマーマレードとサーモンのバケットサンド」
 テーブルの上にはまだ、パンクズだけを乗せた皿が二枚置かれたままだ。
 傑だけが居なくなった部屋で、私は座り込んでいた。
「五条くん」
「あ?」
「あのね」
 傑に抱きしめられた。
 渦巻く靄のような気持ちを、打ち明けてよいのか戸惑った。
 何も無かったからだ。私は傑を突っぱねて、傑もそれ以上を求めなかった。謝ってもくれた。「間違える」という言葉を使って。
 ならばこれ以上、この件を引っ張るのは往生際が悪いのではないだろうか。私はそんなことを思うのである。
「美味しかったから、帰ってきたら作ってあげる」
 クツクツと笑う五条くんの掠れた声を聞きながら、私は窓に手をかけて、外の空気を部屋の中へとりこんだ。
 どこかで、ツクツクボウシが鳴いている。
 もうすぐ、三年生の夏が終わろうとしていた。
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