神様の隣人 _ | ナノ

12

 気づけば、全速力でその部屋に私は駆け込んでいた。
 あのあと、五条くんにも、傑と硝子にも会えないまま、私は一人で夜を迎えていた。寮の共有スペースで食事をとったが、結局誰もやってこなかったのだ。部屋に戻ったのは夜の八時過ぎで、それからシャワーを浴びて髪を乾かしたりしていたら九時近くになっていた。
 ベッドに寝転がりながら、携帯電話を充電器にさしこむと、背面についた小さなディスプレイに光が灯った。現在の時刻だけが表示された画面は、何一つ連絡が届いていないことを示している。携帯電話のない時代を生きていける気がしないと私は思っているけれど、時々、こんなものが無ければ不要な孤独感を味わずに済むのに、と思うこともある。
 べつに、一人の時間が苦手だということはない。
 むしろ、同級生三人と比べると、私は一人の時間が普段から多い方であると思う。バイオリンの練習に毎日数時間は時間を使うし、お風呂も長いほうだし、睡眠を削れる程の体力もないので、ベッドにいる時間も長かった。ネットサーフィンも漫画や小説を読む時間も好きだ。なによりこうして、お風呂上がりに、ただ、ぼうっとキャミソールと下着一枚の姿で寝そべる開放感は一人のときにしか、味わえないものである。
 一人になりたい! という強い思いがあるわけではないけれど、一人もいいな。と思う瞬間を私はそこそこ持ち合わせていた。
 携帯電話の充電が80%を超えるまでは、部屋にいた。キャミソール姿で、お爺ちゃんの工房から持ち出した楽譜を何冊かパラパラと眺めたりしながら過ごした。三冊目に手にした楽譜が「雨の歌」で、私はページを捲る手をとめ、表紙をただ撫でていた。
 雪合戦の日以来、お爺ちゃんの工房には行っていない。五条くんのピアノを聴いたのは、さらに前のことだ。あのまま帰らなければよかった。というのは非現実的だろう。ただ、私も帰りたくないと伝えていれば、もう一度くらい、一緒に工房に言ってピアノを聴けたのではないかと、私は今になって考えていた。
 楽譜を胸に抱き、顔を埋める。私の部屋とは違う匂いがした。
(帰りたい)
 既にこの部屋が帰る場所となって一年が経つというのに、楽譜から香る匂いに、私ははっきりとそう願っていた。
 それで、外に出た。キャミソール姿に、ショートパンツと薄いカーディガンだけを重ねて、私の帰る場所はここだと、確信が欲しくて部屋を出た。
 誰もいない廊下を歩いていた足は、いつの間にか走りだしていて、私の弾む息と足音だけが耳に届く。
 高専の夜はあまりに静かだった。蠅頭の羽音も、虫の声も、人の生活音すら聞こえない。ついこないだまで、私の生活は音楽に溢れていたというのに。いざ探しに出てみれば、静寂を切り裂く場所が、どこにもない。
 そして私は、全速力の勢いのまま、その部屋に駆け込んでいたのであった。

「びっ、くりした」
 目を丸くして、五条くんが言った。口の端に白い泡をつけ、手には歯ブラシが握られている。五条くん。私が呼べば、五条くんは顔をしかめた。
「とりあえず入れば」
 ぺっ、と簡易キッチンのシンクに口の中の泡を吐き捨てると五条くんはコップを手にした。水を汲んで、口に含み顔をあげる。ガラガラと続くだろう喉の音を予想しながら、私は寄せられた肩甲骨の隙間に頭を埋めるようにして、五条くんの背中に抱きついた。
「げっ、ほっ、オェッ」
 五条くんが盛大にむせかえった。私は驚いて身体を離し、大丈夫、と聞きながら背中をさすった。
「死、ぬ」
 ゴホゴホと肩を揺らしながら、五条くんは絶え絶えに言う。ようやく呼吸が落ち着いてきたところで、
「何しに来たんだよおまえマジで」
 と、鼻声で言いながら、五条くんは涙目に私を睨むのだった。
「俺、もっかい寝るとこなんだけど」
 もう一回、ということは、さっさまで眠っていたのだろうか。ちょっとだけ、ここいちゃだめ? 五条くんのTシャツの裾を摘みながら訊ねると、五条くんは眉を寄せた。
「べつにいいけど」
 本当に、と私は五条くんを見上げた。うん、五条くんが頷く。

 五条くんの冷蔵庫にはレモン水とコーラが入っていた。どっちがいい。と聞かれてレモン水を頼む。じきにコポコポと水音が聞こえた。
「はい」
 五条くんにグラスを差し出される。
「ありがとう」
「何かあったの」
 五条くんが私を見つめた。一ノ瀬が来るなんて、無いじゃん。そう言いながら首を傾ける。さらりと前髪が重力にそって流れた。
 ううん、そうじゃないんだけど。私は首を横に振って答えた。何かあったのは私じゃなくて、五条くんの方だ。でも五条くんも、傑と硝子も私にそれを教えようとはしてくれない。何より私の気持ちが陰る理由もまた、五条くん達が隠すそれではきっとないのだ。
「楽譜みてたら、五条くんのピアノ聴きたくなったの」
「はあ?」
「だめかな」
 私が聞くと、五条くんは怪訝な顔をみせた。
「ダメっていうか、もう夜だし。まずピアノ無いし」
 五条くんは、唇を尖らせる。
「なあ、マジでなんもないの? 変だぜ、おまえ」
 心細くておかしくなりそうなの。と口をついて言ってしまいそうになった。でも、口にする前になんだか泣いてしまいそうで、私は唇を噛んだ。五条くんが、私の唇を親指でなぞる。痛そうだからやめな、と覗きこんでくる五条くんの首にすがるように私は両腕を絡めた。
「一ノ瀬、何があった?」
 五条くんが私の背中に軽く叩いた。私は五条くんの首筋に甘えるように、首を横に振る。なにもないの。本当に、なにもないの。
「俺に言えないこと」
 五条くんは拗ねたように言った。五条くんの中では、何かあったことと決めつけられてしまったようである。私はもう一度首を横に振ってみせた。
「じゃあ、なんなんだよ」
 五条くんが呆れたように言った。ツンとした声が寂しくて、私は縋る腕の力を強める。
「会いたくなっちゃった、だけ」
 私はぎゅうぎゅうと五条くんに抱きついた。なんだよそれ。言うと五条くんは、あーもー、と、唸りながらガシガシと白髪を乱すように頭を掻いた。
 ぎゅうって、して。そう言いながら、私は五条くんの首筋に鼻を埋めた。五条くんの首筋からは、私の部屋とも楽譜とも違う匂いがした。五条くんの腕がゆっくりと回されたのを確認して、私がもたれるように身を預ければ、腰を抱く腕の力が強くなる。一ノ瀬、と掠れた声が耳元に響いた。
 静寂の中に届いた微かな声は、私の心を埋めるには十分すぎるものだった。

 星漿体に関する任務から三か月が過ぎた。私達は既に数回、片手程ではあるが身体を重ねるようになっていた。五条くんは私に背を向けて横になっている。
「五条くん、寝た?」
 私が聞くと、
「寝た」
 と五条くんが答えた。
 起きてるじゃん。返ってきた答えを不服に思いながら私は五条くんの背中にぐりぐりと額を押し付けた。着痩せするタイプなのか、五条くんの背中は服を着ていない時の方が大きく感じる。しっとりとした素肌の感触を確かめるように背中に指をそわせれば、五条くんがこちらに向き合うように寝返りをうった。
「したいの?」
 ううん。私は五条くんの胸に額を擦りつけるように、首を横に振った。
「くっつきたいだけ」
「一ノ瀬いつもそれ言ってる」
 どこか面倒くさそうに言いながらも、五条くんは、私の腰を引き寄せるようにして抱きしめてくれる。甘やかされているのが嬉しくて、私が首をもたげて五条くんの顎先に掠めるだけのキスをすれば、五条くんはもぞもぞとタオルケットの中に潜りこんできた。目線が真っ直ぐの位置に五条くんが降りてくる。それから、軽い触れるだけのキスをされた。
「一ノ瀬って結構甘えるよね」
 五条くんが言った。
「……直した方がいい?」
 私が聞くと、五条くんは少し笑った。
「べつに、そのままでいいよ」
「なんか良く無い言い方だったじゃん」
「そうじゃ無くって」
「無くって?」
「そうなればいいと思ってたけど、実際にそうなるとは、思ってなかったから」
 五条くんは眉を下げた。
「ずっと見てるだけだったからさ、俺」
 そう言って、指を絡めるように私の手を握ると、五条くんは瞼を閉ざし今度こそ本当に眠りについた。
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