神様の隣人 _ | ナノ

5

 私たちのいう「万が一」は起こることなく任務は終わった。
「お疲れ様でした」
 草薙さんが車を停めたところで、今回の任務は散開となった。ゆっくり休んでくださいね。という草薙さんに会釈して、傑と私は寮へと並び歩く。
「勉強って何するの」
 聞いたのは私だ。
 行きの車でのことが頭に残っていた。
 自分がこの世界のことについて、知識が不足しているということは五条くんと過ごす中で自覚しており、懸念でもあった。
「いろいろ。灯が今疑問に思っていることとか、私が知らなくて困ったこととか」
「傑が?」
「私も非術師の家の出なんだ」
 穏やかに傑が打ち明けた。甘やかな声が、私に寄り添うようにゆっくりと言葉をつむぐ。
「だから、悟や他の術師が話す当たり前が、灯にとってわからないことばかりだというのは、多少理解できるよ」
 そうなんだ。私は、はじめて知る共通点に安心する。肩の力を抜く私の隣で、
「そもそも悟の場合は、術師からしても非常識だけどね」
 と傑は言った。悟の言うことを全部間に受けていたら灯胃に穴開くんじゃない? と笑う傑に、怖いこと言わないで。と私も小さく笑う。

 この世界に馴染んだとき、傑のようになれるのだろうか。私は思う。きっと私はどれだけこの世界に染まろうとも五条くんと空を泳ぐようなことは出来ない。まさに天と地の距離で、首をぐんともたげながら、高いところにある小さな顔を仰ぎ見たり、気まぐれに降ろされた手に、身を捧げてみたりする。そういうものにしか私はなれないのだ、きっと。
「傑はすごいね」
 五条くんと同じ高さにある顔を見上げると、予感どおり首が疲れた。さっぱりとした顔つきの傑の背景には、厚く高い雲が浮かんでいる。
「私が出来たことなんて、コンビニのあんまんの味を教えたくらいだよ」
「あんまん?」
「うん……あと、なんだろ。コロッケ、パフェ、ハンバーガー」
「お腹すいたの?」
 木々に囲まれた高専では、そこら中から蝉の合唱が鳴り響いている。余計に暑さが増した気がして、私は額に滲む汗を拭った。

 平安時代と言われて驚いた。
「最盛期と言われるのは、その時代だね」
 傑との勉強会は、翌日から早速始まった。放課後の教室で、私は五条くんの席に座り傑の話を聴いている。硝子も誘ってみたが、私はパスと断られた。放課後、硝子はいつも忙しそうにしている。それに対して、硝子は私にも勉強があるんだよ。と述べるなり、ヒラリと手を振ってどこかに行ってしまうのだった。
「菅原道真は知っている? 平安初期の人で、日本三大怨霊のひとり」
「名前だけは。怨霊というか、受験のときに」
「あやかった? それ悟の先祖だよ」
 先祖。私は低い声で呟く。突然のビッグネームに少しひいていた。傑は私に気にせず話続ける。
 菅原姓の直系である五条家は、誕生よりこれまで、呪術を生業に何百年と家門を守り抜いているそうだ。
「そういう家が、他にもある」
 その代表格に上がるのが、加茂家と禪院家という二つの旧家である。これに五条家と合わせたものが、一般に御三家と呼ばれていると傑は説明する。
「術師の家には相伝といわれる術式があるんだけれど」
 血を操るもの、影を媒介とした式神を行使するもの、呪言を扱うもの。一族により術式は異るが、そのどれもが血筋を由来に代々後世に伝承されているという。
「五条家に伝わるのが、無下限術式。悟がもつ術式だよ」
 無下限。私は呟く。目がいいってのは、それ?  と訊ねれば、傑は首を横に振った。
「それは六眼」
 ややこしくなってきた。私が額を狭めれば、傑は小さく笑った。
「悟の術式は特殊でね、使いこなすにはその目が必要なんだ」
「術式とセットってこと?」
「そう。でもこれがなかなか珍しくてね」
 傑が、薄い唇を片方だけ器用に持ち上げる。
「無下限術式と六眼を共に持ち合わせて産まれきたのは、悟で何百年ぶりだそうだよ」
 それはまた、随分と珍しくことで。
 ほう、と私はかすかにため息をついた。私に教え聞かせる傑自身も、その確率をはっきりとわかってはいないようにみえた。

 限りなくゼロにちかい、奇跡的な確率のもとに生まれた五条悟という人は、まさに誕生したことそのものが特異であり、奇跡であり、歴史である。そう言った存在らしい。
 世界を変えたところで、彼の特異さは変わらないのだな、と私はしみじみと思った。
「僕たちの国の神様」
 いつか聞かされたその例えは、大袈裟なものではないようである。
「まあ、強くて珍しい金持ちくらいに思っていればいいよ」
 私の心情に反して、傑は五条くんのことをそんな風に例えた。
 そのまとめ方は、ありがたみが無いというか、些か厳かさに欠けるのではないか。私はモゴモゴと濁らせながら意見してみる。
 何が。と、傑は首を傾けた。
「悟にありがたみも何もないだろう」
 ばっさりと言い切られる。
「悟がありがたい存在なら、灯だってそうだろう」
 え、驚いて声をあげた。私? と聞けば傑は目をすっと細めた。
「悟も灯も、この世に一人しかいないことに変わりないよ」
 後になって思えば、それは「ありがたみ」と言った私に対する傑の揚げ足取りだったのかもしれない。でも、このとき私は傑の言葉を真正面に受け止めていた。
「それはそうかもしれないけど、でもやっぱり全然違うよ。私は……私が、守ってもらわないと任務も碌にこなせないって傑が言ったんじゃん。それなのに、あんな話聞いた後で、五条くんと同じって言われても」
「私の発言が灯を傷つけたのなら謝るけれど、私は灯を見下したつもりはないよ」
 傑は、慎重に言葉をつないだ。
「術師が仲間同士で助け合うことは当たり前だろう。それが力のある者であればなおさらだ」
「そうかな」
 対して、私は衝動的に口を開いていた。意図するよりも、早口で、冷たい音が溢れ、教室の空気が固まるのを感じる。五条くんと傑が喧嘩の前に繰り出す一触即発な空気とよく似た、でもそれよりずっと、よそよそしい空気。
 謝るなら今だった。
 でも、納得のいかないこの気持ちを、謝罪とともに収めるだけの器量を私は持ち合わせていはかった。
「そんなの疲れるよ」
 私は呟く。
「悟に何を言われているかは知らないが、呪術師の仕事は人助けだ。私たちは弱者を守るために力を使う。それは覚えておいて欲しい」

 今日はここまでにしようか。傑はそう言うと席を立った。頷いたものの、一緒に寮に戻る気にはなれなくて、私は椅子から腰を上げられないでいた。傑は鼻から長く息をはくと、夕飯は三人で食べようね。と言って、離れた。教室の扉をガラガラと音を立てる。
「もう一つ、君に伝えておきたいことがある」
 甘やかな声だった。
 視線を向ければ、傑は開け放した扉に背を向けて、私の方に向き直っていた。
「私は術師として、灯に憧れすら抱いているよ」
 真面目な口調で傑が言う。
「例え灯が私より強くなったとしても、私はこの憧れを守るために、君を守りたいと思う」
 傑が私を? 全く心当たりのない傑の発言に私は肩につきそうな程、首を横に傾けた。何それ。私は呟いた。傑は芝居じみた調子で肩をすくめてみせる。
「理由は言わないでおくよ。私の親友は君に関して器量が狭いからね」
 そう言って、傑は教室を去っていく。
 見送る傑の背中は、しゃんとしていた。
 大きくて真っ直ぐで、誠実そうであった。夏油傑という人を表現するなら、まさにきっと、あのような背中なのだろう。そして、猫背に丸くなる私の背中も、きっと私をよく現しているのだろう。それはあまりに惨めで、私は椅子から立ち上がった。
「傑」
「ん?」
 教室の扉から顔を覗かせて呼びかけると、廊下を行く傑が立ち止まり、顔だけで振り向いてくれた。
「ごめんね、ありがとう」
 ついさっき、不機嫌が邪魔をして言えなかった言葉を告げれば、傑はへにゃりと眉を下げた。八の字になる眉毛の下で、目が糸のように細くなっている。
「灯の素直さが、私や悟にもあればいいんだけどね」
 そう苦笑してから、私のほうこそ。と傑は言った。
「夕飯、一緒に買いに行かない?」
 そのままの表情で聞く傑に頷いて、私は小走りに傑のもとへと向かった。近づく背中はやっぱり大きくて、五条くんよりガッシリとして見えた。頼もしい背中。こういう人だから、五条くんも安心するのかもしれない。
「傑はすごいね」
 私は呟いた。傑は、やっぱり困った顔で、笑って言った。
「灯だってすごいよ」
「そうかなあ」
 それでも、もしも傑と私、どちらかになれるのだとしたら私は迷わず傑を選ぶんだろうな。
 蝉の鳴き声が聞こえる廊下で、私はそう、しみじみと思うのだった。
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