ばったり会ったと思っているのは私だけだったようで、傑は私を見つけると、
「あ、よかった。いた」
と、微笑んだ。
どうかした、と聞けば、任務だよ、と教えられる。
「十分後に出るから、準備して」
傑は手短にそう言うと、先に行ってるよ、と昇降口の方へに歩いていった。
「こう暑いと、外に出るのも嫌になりますね」
という補助監督の草薙さんの発言に、傑も私も頷いた。五条くんが海外に旅立ってから、二週間が過ぎた。梅雨が明け、本格的な暑さが到来している。上着を脱いで、ワイシャツ姿になることも最近は多い。
今日の私の任務の引率は傑らしい。
傑と任務に出るのは、意外にも初めてのことだった。
「というか、傑も二級以上だったんだね」
私がぼやくように言えば、草薙さんが笑った。
「一ノ瀬さん、夏油さんは一級の推薦を受けている方ですよ」
「そうなの?」
「まあね」
傑は、さもなんてことないような口ぶりで言う。退屈そうに、携帯電話を何やら弄っている。酔わないのだろうか、と私は傑を横目に眺めた。
「一級術師とか、初めてみた」
ぽつりと私が言うと、傑は細い目をさらに細め、私の方がを向いた。何言ってんだコイツ、とでもいうような表情である。
「悟だってそうだろ」
「え、そうなの?」
「知らなかったことに、驚きだよ」
傑は呆れたように笑う。
入学当初に一級の推薦を受けたという傑の現在の正確な階級は、準一級に値するらしい。昇級のためには、一級相当の任務をいくつか熟す必要があるのだそうだ。草薙さん曰く、入学当初で二級であれば天才と言われるような世界であり、五条くんと傑は規格外と思って良いとのことらしい。
「いやあ、呪術界も安泰ですね」
草薙さんはそんな風に言った。
「五条家も鼻高々でしょう」
草薙さんは続けた。五条家、という五条くんだけを指す言葉が、少し引っかかった。
「そういえば、名家なんだっけ」
初めて五条くんに連れられて高専に来た日のことを、私は思い返す。お坊ちゃんばかりのあの学園だったから、あまり深く気にしていなかったけれど、呪術界の名家とはどういうことなんだろう。
「名家も名家、御三家様ですよ」
御三家。私は首を傾げる。
ということは、五条家の他にまだ二つあるのだろうか。
草薙さんの言葉のひとつひとつが、どれもピンとこずに首を傾げていれば、傑は私をのぞくように見てきた。その顔はいつもよりどこか険しく、きゅっと眉が顰められている。
「もしかして灯、悟に何も教わってないのかい?」
「え? や、わ、私の術式のことなら、教わったけど」
なんだか厳しい顔をする傑に、詰まりながら私は答る。傑は鼻から息を長く吐くと、
「悟が帰ってくるまで、私と少し勉強しようか」
と眉間を揉みながら言った。
「まあいい、今は任務をこなそう」
傑はそう言うと、颯爽と車を降りていった。
今日の任務地はシャッター街となった商店街である。跡地にマンションが建つからどうの、といつもと似たような説明を草薙さんは繰り返した。
「私こういうの、多くないですか?」
「広い、多い、低級、ときたら一ノ瀬さんが一番ですから」
草薙さんが、苦笑する。
「やだなあ、その叩き売りの文句みたいなやつ」
ぶつぶつと言いながら、私はバイオリンを準備する。
(あんまり外で弾きたくないんだけどなあ)
というのは、楽器兼呪具となってしまった今では、なかなか口にし辛い不満だ。
「では、あとはよろしくお願いします」
そう言い残すと草薙さんは帳をおろし、姿を消した。
あたり一面が暗闇に覆われる。
傑を見れば、冷えた眼差しで商店街の奥を見据えていた。それから、あの糸のように目を細めた笑みを私に向けて浮かべると
「さあ、はじめようか」
傑はおごそかに宣言したのだった。
まるで真空パックにでも入れられたようだと、私は思う。
帳の中は、空気の流れすら閉じ込めてしまったかのように淀んだ空気が渦巻いている。
「ではまず、状況を確認しよう。呪力の感知はできる?」
傑が話はじめる。授業でも始めるような話し方だった。教師みたいな話し方をする、と以前五条くんにも抱いたことがあるが、傑と五条くんとでは印象がだいぶ違った。五条くんが怖い生活指導の先生みたいな口調だとすると、傑は、もっと柔らかい口調であった。例えるなら、小学校の先生、もしくは、もっと小さな子供を相手にするような、柔らかさ。
そして、そんな傑の態度は私の心をモヤモヤとさせるのである。
(そんな、あからさまに何もわからない子みたいに扱わなくったっていいじゃん)
といった具合に。
「商店街の奥、というか、真ん中? あのあたりにたくさん」
私は商店街の奥の方を指差して答える。
「正解。それで、灯はどう動く?」
傑は相変わらずの柔らかな調子で続ける。
「どう?」
「そう。私をどう動かすかも含めて」
(どう、って言われても)
私は何と答えればいいかわからなくて、声を詰まらせてしまう。五条くんや他の先輩術師との任務は、言われたことを言われた通りにやることが、何より求められてきた。
それなのに、傑は私に意見を求めるのだ。
それどころか、傑に指示を与えようとさえさせてくる。
私はバイオリンの弦をウクレレでも弾くみたいに、ポロンと鳴らしてみる。
ホールのようにはいかないが、遮る建物はない分、響きは悪くないようだった。そうなると、だ。
真ん中に行って弾く?
それとも、ここから弾いて少しずつ呪霊を取り込む?
歩きながら弾こうか?
いくつかの案が浮かぶ。
たぶん、どれもそこまで間違いじゃないだろう。
「真ん中まで行って一気に取り込む」
一息にそういえば、傑が眉を上げた。
「それで? 私は?」
「一緒に来て。守って」
「理由は?」
「え?」
「守ってもらわないと、いけない理由」
私は弓を持つ手で、自分の髪を無意味に撫でつけた。馬鹿にされていると思っていたこの問答に緊張し始めていた。コンクールなんかよりもずっと、自分の能力を試されているような気がして。
「もし…万が一、呪霊が溢れたときに私は戦えないから」
「うん、そうだね。それから」
(それから?)(まだあるの?)
追加の回答を求められ、私は頭をぐるぐると回す。えーっと、その、あの。うだうだと悩む私を、傑は急かすことなく、じっと待っていた。
五条くんだったら、矢継ぎ早に回答を述べて、わかった? なら、早くやれ。と言いそうなものなのに。
「わ、かんない」
頭が茹だりそうだ。なんとなく傑を見るのが怖くて、私はうつむきながら降参を告げた。
「もし呪霊が聴力を封じていたら、どうする?」
あ、と私は顔をあげる。
「取り込めない」
「そうだね。灯の今の戦い方は『耳の聞こえる低級呪霊』であることが前提だ。仮に今回の標的が呪霊でなく呪詛師だとしても同じだ。灯には戦う術がない。それを責めるつもりはないが、ただの引率と受け止めずに、私がいる意味は何故なのか。それをしっかり考えた方がいい」
意味。と私は心の中で繰り返した。
「意味は大事だよ。そこがハッキリとしていないと、そのうちブレがでる」
まるで私の気持ちを見透かしたみたいに、傑は意味という言葉を強調した。
灯、と、傑が優しく私を呼ぶ。
「意味なき保留に、終わりはないよ」
柔らかく甘い声で私を呼ぶ傑の優しさが、私に向けられたものではないことは、傑の顔を見ればわかった。
「悟が可哀想だ」
そう傑はしめくくった。
「すまない、話がそれたね」
私が小さく首を横に振れば、行こうか、と宥めるように傑は言って歩きはじめた。
もしも傑に、私の心の中身を打ち明けたなら、彼は混沌とした私の心を理路整然と暴いてくれるのだろうか。
この感情の源はこれであるから、君の感情はこれだよ。とるべき対応はこうだ。
部屋の片付けでもするかのように、テキパキと私の感情を仕分ける傑が頭に浮かんだ。
「恋慕」と「崇拝」
私には手に負えない、大仰な命題である。
傑は私の歩幅に合わせるように、ゆっくりと窮屈そうに歩いた。商店街の真ん中までつくと、傑が足を止めた。はじめようか。今度は私から、その台詞を口にした。