神様の隣人 _ | ナノ

2

 雲にまじるようにして、五条くんが空に寝そべっていた。教室の窓からそれを見上げていれば、ゴロンと五条くんが寝返りをうつ。仰向けになっていた身体が反転してうつ伏せになった。まるで世界を見下ろすみたいに。

 五条くんが当たり前のように空を歩き出したのは、教室で昼ごはんを食べたあとのことだ。
 今日はよく晴れていて、初夏の日差しが、新緑の隙間から差し込んで教室をポカポカと温めてていた。
 私の隣で、だらりと机に身を預けた五条くんは、大きな欠伸を一つ漏らしながら、窓の外に広がる穏やかな空を「どっか行きたくなる」空模様だと例えた。私はそれに、確かに、と頷く。
「外で日向ぼっこしたい」
 私が言えば
「なー」
 と五条くんは緩慢な声で同意した。それから、おもむろに席を立ち窓に近づくと、五条くんは「よいしょ」と長い脚を桟にかけて、窓からそのまま空へと歩いていった。
(は?)
 ぎょっとして、思考が止まった。
(何が起きてるの)
 恐々と窓に近づくと、やっぱり空を歩く五条くんの後ろ姿がそこにあった。ずんずんと高く登っていっている。
(やっぱりあの人、本当に神様なんじゃないかな)
 いつもとは違う気持ちで、私はそんなことを思う。
「何やってんの」
 後ろから硝子に声をかけられた。
 硝子の声はすぐにわかる。それは三択しかないクラスメイトのうち、唯一の女性とうい点を差し引いても、言えることだった。
 声が魅力的なのだ。高すぎず、低すぎない声は、落ち着いていて少し艶っぽい。
 振り向けば、傑も一緒だった。食後の一服に行っていたのだろう。二人からは煙草の匂いが漂ってくる。
「いや、あれ」
 私が再び外へと目を向ければ、二人も窓に近づいて、同じように空を見上げた。
 いつのまにか五条くんの足は止まっていて、空の上でゴロゴロとしている。その姿は町で見かける野良猫みたいだった。
「何あれ。すごい寛いでんじゃん」
 のんびりと硝子が言った。
「気持ちよさそうだね」
 傑も。
 どうして驚かないの、この人たち。
 私は五条くんから目を逸らし、二人の様子をうかがった。目の前に広がる光景がさも当たり前かのように、二人は呑気に空を眺めている。
「サボりてえ」
 なんて言いながら。

 しばらく、三人で五条くんを眺めていた。最後まで眺めていたのは私で、気づいたときには傑と硝子は自席について、今日の夕飯の話をし始めていた。
「寿司食べたい」
 思いついたように、硝子が言う。
「いいね。灯、生もの食べれる?」
「え、うん。平気」
「よし、決まり」
 硝子は、店員を呼ぶみたい窓の外に手を伸ばし
「五条!」と空に向かって声をかけた。
 聞こえていないのか、五条くんはまだ、お日様のそばでゴロゴロとしている。
「だめか。夏油、呼んできて」
「電話すれば」
「電池ない」
「あるだろ、さっきまで使ってたんだから」
 二人のやり取りは硝子が口を閉ざして終わった。
 仕方ないな。傑がゆっくりと席を立つ。ちょっと呼んでくるね。
 傑が私の隣に立つと、突如、白い布のような呪霊が現れた。五条くんがそうしたように、傑は「よいしょ」と、長い脚で窓の桟を跨いで呪霊の上にのり、そのまま五条くんのもとへとふわふわと飛んでいく。
(いや、だから何ごと?)
 呆然と私は思う。相変わらず硝子は平然としていて、それに余計混乱する。
 空の上では、五条くんと傑が何か話しているようだった。戯れるようにしながら、二人がゆっくりと戻ってくる。距離が近づくにつれて、五条くんの声が微かに聞こえてきた。
「傑」
 笑いながら、五条くんが傑を呼んでいる。
 楽しそうな声につられて、少し微笑む。五条くんが大きく笑っているところを見るのは久しぶりな気がした。最後にみたのは、梢が五条くんの顔が好きだと叫んだときだっただろうか。
(それでも、あそこまでは笑ってなかったかな)
 思い返した笑顔と、空に浮かぶ笑い顔は一致しない。というか、
(あんな風に笑ってるとこみるの、初めてかもしれない)
「どうかした?」
 硝子が聞いた。私は首を横に振る。
「なんでもない。仲良いなって、みてただけ」
 そう言うと、硝子は窓の外に目をやった。ああ、あれね。またしても見慣れたもののように硝子は言う。そこに自分は無関係というような空気が張られたのは、気のせいではない筈だ。硝子もだよ。私が言うと、硝子は不思議そうにした。
「私は、普通じゃない?」
 普通。私は心の中で硝子の言葉を繰り返す。
(普通ってなんだっけ)
 ぐるぐると私の中に学園での三年間が蘇った。誰もが五条くんに憧れ、眺め、恐れていた、そんな三年間。
 もしも、あの学園に硝子がいたらどうだったんだろう。
 硝子は五条くんと友達になっていたのだろうか。
 もしくは、恋人にでもなっていたのだろうか。少なくとも、硝子なら誰も何も言わなかったような気がする。言えない、のほうが正しいかもしれないけど。
「なんでもないって顔してないけど、無自覚?」
 椅子に腰掛けたまま、硝子が私の手を取り顔を覗きこんできた。私より細いだろう指の先が、冷んやりとしている。五条くんと全く違う指先が、握った私の甲を撫でるのを私はぼんやりと眺めた。遠目ではわからなかったが、指先が荒れているのか、触れたそれはかさついている。
「本当になんでもないの」
 ぽつりと私は呟く。繋がれた手を握り返せば、硝子の手の力がほんの少し強くなる。
「でも、ちょっと。なんか……寂しい」
 思い切って、口にしてみる。慣れしたしんだものが無くなってしまった寂しさがあった。あの学園の窮屈な空気を、私は全然好きじゃ無かったはずなのに。五条くんだって、今の方がずっと楽しそうなのに。
「そっか」
 握った手をひかれたと思えば、正面から硝子が抱きついてきた。座ったままの硝子のおでこが、私のお腹あたりにぶつかる。
 冷たいと思っていた硝子の体温は、ほんのりと暖かくて、なんだか泣きそうなった。
 硝子。甘えるように名を呼びながら華奢な身体に覆い被されば、はいはい、と硝子が笑った。硝子の手が私の背中をあやすように摩ってくれる。
「聞き流してもらっていいんだけどさ」
 硝子が、私の肩に顎を置くようにして呟いた。
「なあに?」
「あんまり五条を、良いものとして見ない方がいい」
「良いもの?」
「うん。夏油もだけど」
「傑?」
「そう。あいつら、クズだから」
 クズ。私は硝子の言葉を繰り返す。硝子はくつくつと笑って、そのうちわかる、と耳元で囁いた。その声が妙に色っぽくて、私は顔が熱くなった。
「何やってんの、おまえら」
 気づけば、二人が窓まで戻ってきていた。教室に乗り込んだ五条くんに、硝子から引き剥がすように肩を引かれる。うわ。小さく悲鳴をあげて、私は背中から五条くんにぶつかった。
「ちょっと」
 ちょっと、カルチャーショックと、ホームシックがいっぺんにきたのを聞いてもらってただけ。ぼそぼそと私は答える。
 は? と五条くんが聞き返した。それに私が何か返すよりはやく、
「悟が空なんて歩くから」
 と、傑が庇うように話した。
「空飛んできたやつに言われたくねえよ」
 五条くんが反発する。
「どっちもどっちだろ」
「ていうか、カルチャーショックっておまえらじゃねえの? 俺らヤンキーとは無縁で育ってんだよ」
「ヤンキーは、硝子だけだろう」
「誰が誰に言ってんの」
 くちぐちに、三人が言い合っている。
 あの学園ではまず耳にしないような言葉が、私の頭上をいったりきたりするのを、聞いていた。会話が進むにつれて、ちょっとずつ五条くんと傑の間の空気が硬くなる。
「キッモ」
 五条くんが、吐き捨てるように言った。
「悟」
 傑の声が低くなる。
 不穏な空気に、助けを求めるように硝子を目れば、硝子も私を見ていた。硝子が小さく頷く。
 せーの。
 視線だけで合図して、硝子が拐うように私の手をひいた。ぐんと引かれた勢いのまま、私は五条くんから離れて走り出す。
 あっ! と叫ぶ五条くんの声に、きゃーっと高い声を出せば、「やっば」と硝子が笑った。
 バタバタと靴音を立てて、昼下がりの廊下を走る。
 硝子は思ったより走るのが速かった。だけど、それよりもっと五条くんと傑は速くって、あっという間に追いつかれてしまう。
「遅え」
 五条くんが笑う。そう変わらないだろう。はあ? 手加減してんだよ。うるせえな、ついてくんなよ。
 くちぐちに、三人が言い合っている。私だけが息がきれて、何も言えない。廊下から入る風はどこか生温く、草の匂いが運んできている。雨の季節が近づいていた。
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