「一ノ瀬、任務だ」
朝の挨拶もそこそこに、夜蛾先生が張りのある声で言った。
「え、私ですか」
戸惑いを混ぜた私の声に、夜蛾先生が頷く。
なんでも、上層部が直々に依頼を受けた大切な任務があるとのこと。
「その上で、おまえが適任であると判断した」
そう夜蛾先生は神妙に宣告するのであった。
「人手不足なだけだろ」
五条くんが、断ち切るように言った。
「まあでも、ちょうどいいんじゃん。そんなか空なんだし」
五条くんは私の持つバイオリンを見ると、
「何体か入れといた方が、いざってとき役立つだろ」
と、続ける。
それはそうかもしれないけど。私はぶつぶつと呟く。
せっかく空になったと思ったのに。
私の呪術は、実に単純明快なもので、出来ることといえば「取り込む」「放つ」の二つしかない。
正確に言うと、他にもあるらしいのだけれど、現状、私に出来るのはこの二つしかない。
「取り込んだ呪霊を隠すのが上手い」
というのは、私の術式に対する五条くんの唯一の褒め言葉だった。
私が取り込んだあと、呪霊の呪力が器(今回の場合は、バイオリンである)から全く感知できないというのだ。
あの時、バイオリンの中にいた二体の一級呪霊を、五条くんが三級一体であると誤認したのは、本来取り込める呪力量の許容範疇をこえたものが、外に漏れ出て、その部分だけを五条くんが感知したからではないか、というのが五条くんの考察である。
へえ。と、感想を私が述べれば、あくまで見えた範囲ではあるけど、と前置きした五条くんは
「おまえが思ってる以上に、その中、ぐっちゃぐちゃだからな」
と、苦いものでも食べたかのような顔をした。
「でもまあ、確かに、こういうときに使う分には、おまえ便利だよな」
人気のない病院を前に、五条くんが気を取り直すように言う。
便利、という言葉を使われたことに、私はむっとした。
「ていうか、何でついてきたの」
つっけんどんに聞く。
「おまえのお守りに来てやってんだよ。雑魚」
雑魚。私は五条くんの言葉を心の中で繰り返す。
高専に入ってすぐに貰った学生証には三の数字が記載されていた。これは等級を表すものだそうで、つまり私が三級術師であることを示していた。この数字が小さいほど階級は上がり、二級以上の術師に単独任務が任されるシステムを高専ではとっているそうだ。
それゆえ、私にはまだ単独任務が許されておらず、今回は五条くんの任務に私が同行させてもらっている、というのが本来の姿である、というのは、れいによって五条くんから説かれたこと。
「見学ってこと?」
「ばーか。俺がこんな雑用みたいな仕事やるわけ無えだろ」
五条くんは、呆れたように言う。
「何かあったときに俺に責任がくるってだけ。俺は見てるだけで、実際にやんのはおまえ」
わかった? 強い口調で言うと、五条くんは私の手を引いて、ずんずんと病院に入っていく。
院内は昼だと言うのに薄暗かった。
規則正しく並べられた茶色の合皮のベンチは、ところどころ破けて中のスポンジが飛び出している。その奥にみえる、受付であっただろう長いカウンターはシャッターが降りていた。
「あー、結構いるな」
五条くんが、あたりを見渡しながら言う。
閑散とした人気のない院内には、いくつもの人ではないものの気配が蠢いていた。
「帰りたい」
「同感。さっさと祓えよ」
祓えよ、の、よに合わせて、五条くんに足でお尻を蹴とばされる。
「ちょっと!」
ぐんと前に出る身体を、よろめかせながら私は怒鳴った。声が反響して院内に響く。古い造りの病院は、天井が低く、声は横に響くばかりで上へと伸びてはいかないようだった。
よろめいた先で、体制を整えなおしながら私は天井を仰ぐ。
「一階づつ、周っていくしかないか」
「げ、まじかよ」
「だって、たぶんここで弾いても上まで音、届かないよ」
五条くんも、天井を見上げた。
「壊すか」
ぽつりと五条くんが呟く。
え? 聞き返せば、
「そこ危ねえよ」
と手招かれる。
はやく。急かされて、一歩近づく。五条くんの左手が私の右腕を掴んだ。それから、天井にむけて、五条くんが指をさす。
病院が崩れた。
五条くんの指した先に穴が空き、外まで貫通していく。私たちに向かって瓦礫が隕石の如く、落ちてこようとする。
反射的に、私は身を縮こまらせた。
本能みたいなものだと思う。それで助かるかは別の話で。
身を隠すように、五条くんにしがみついた。
五条くんの手が私から、ぱっと離れた。見上げれば、五条くんが目を見開いて私を眺めていた。驚いたのだ。私がしがみついたことに。
重なった視線はすぐに離された。後を追うように五条くんの視線の先を辿れば、瓦礫がどういうわけか、私たちを避けるように落ちていく。
私はそれを、しがみついたまま、ぽかんと間抜けに眺めていた。
瓦礫の雨が落ちついた頃、五条くんのとんでもない一撃に刺激され、呪霊が集まってきていた。
「何やってんの」
とは、私の心からの本音である。
「どうせ壊すんだから、問題ねえだろ」
五条くんは言った。
それはそうだけど。
私は、半壊された病院を見渡した。だからといってこれはやりすぎなのではないだろうか。
なんでもこの病院は来月取り壊されることが決まっているとのことだった。
教えてくれたのは草薙さんという補助監督で、取り壊した跡地に、来年また新たに病院を作り直す計画があるらしい。用は大規模な建て替え工事なのだが、古い病院ということもあり、建て替えついでに呪霊も一掃しておきたい。という行政からの依頼が今回の任務の背景であった。
行政。私はまた心の中で呟く。草薙さんが溜息をついた。その顔には随分と疲れが浮かんでいる。
「行政となると断れないですからねえ」
この繁忙期に、と草薙さんが項垂れれば、五条くんが得意げな顔を私にみせた。
私はそれにまた、むっとする。
「これで一気にいけんだろ」
随分と風通しのよくなった病院を見上げて、五条くんが言った。
それから「いちぬけた」といわんばかりに、私の隣から身を引いて瓦礫の上に座りこんでしまった。
うじゃうじゃと湧く呪霊を気にせず寛ぎはじめた五条くんを横目に、私は渋々背中からバイオリンケースを下ろした。
「有漏重重」
思い出した呪いの言葉を唱えて、バイオリンを鳴らせば、呪霊の気配が次第に消えていく。
できるだけ、その姿を見たくなくて、私は目を伏せて自分の鳴らす音にだけ集中した。途中、視線を感じて目を開ければ、五条くんがその先にいた。五条くんは何もせず、ただぼんやりと私を眺めていた。
初任務は、あっさりと終わった。
草薙さんの運転する車に乗れば、五条さん。と弱々しい声で草薙さんが呟いた。
いや、いいんです。いいんですけど。とハンドルを握りながらぶつぶつと言っている。
心中お察しします。と私はこっそりと丸くなる背中に手を合わせた。
草薙さんが、気持ちを切り替えるように、んっと一つ咳き込む。
「私、初めて見させていただきましたが、一ノ瀬さんの術式は帳要らずですね」
草薙さんが、どこか嬉しそうに言った。
帳? と私は首を傾げる。
「それより、俺、腹へったんだけど」
五条くんが遮るように言った。携帯電話を見れば、時刻は昼を過ぎている。気がつくと不思議とお腹がすいてくるもので、
「私も」
と、同意すれば、草薙さんは五条くんと私を高専近くのコンビニの前で降ろしてくれると言った。
チルドのオムライスと、コーヒーをかごに入れ、レジに並ぶ。すぐに食べるつもりだったので、温めてもらった。先に会計を済ませていた五条くんと一緒に、ありがとうございました、と間延びした声で言う店員に見送られコンビニを出た。
寮は静かだった。みんなまだ校舎にいるのか、五条くんと私の他には誰もいないようだ。
そのままそれぞれの部屋に戻ってもよかったが、なんとなく一緒に食べる雰囲気で、五条くんと私は共用スペースにあるテーブルを二人で囲んだ。テーブルの下で、五条くんの足が私にぶつかる。
(なんかまた、背伸びた?)
コンビニ袋を漁る五条くんを私は眺める。
「なに?」
五条くんが、こちらを向いた。
「いや、べつに」
「ふうん」
五条くんは興味なさげにそう言うと、唐突に
「指、立てて。二本」
と言ってきた。
「え?」
「いいから、こうやって」
五条くんは、人差し指と中指を揃え立てて、私に見せる。同じように真似てみれば今度は
「俺が言うこと、繰り返して」
と言ってきた。
訳もわからぬまま、言われた言葉を復唱する。
「闇より出でて闇より黒くその穢れを禊ぎ祓え」
聞き覚えがあるような無いような言葉を繰り返せば、真っ暗なドームの中に閉じ込められた。
「何、これ」
キョロキョロと目を走らせながら、五条くんに聞く。
「帳」
五条くんが言った。
「帳?」
聞き返す私に五条くんは答えず、私の後頭部に手をかけた。ぐっと五条くんの方へ強く頭を引き寄せられ、互いに机に身を乗り出すような姿勢になると、素早いキスをされた。
目を瞑る暇もないキスに、私はしばし呆然となる。
そのままぽかんとしていれば、五条くんはもう一度、今度はゆっくりと顔を近づけてきた。鼻先まで近づいたところで、私も瞼を閉ざすと、直後、柔らかく五条くんの唇が重なった。
数回、軽く押し当てるように触れた唇は、ほんの僅か離されて、下唇を食むように柔く吸いついてくる。
促されるままに、口を開きかければ
「灯?」
と唐突に声をかけられ驚いた。肩が跳ね上がったはずみで、触れていた唇が乱暴に離れる。勢いよく声のした方をむけば、そこには五条くんと私を包む黒いドームの壁だけが存在していた。
(あれ)
不思議に思って、五条くんに目を向ければ、むっつりとした顔で五条くんが私を睨みつけていた。
(いやいや)(今のは仕方ないでしょ)
小さく首を横に小刻みに振れば、五条くんは苛立ちをぶつけるように大きな溜息をついた。五条くんが息を吐き切ると同時に、私たちを覆う黒いドーム状の何かが溶けるように消えていく。
「おや、悟もいたのか」
黒い幕の先には、傑が立っていた。
丁寧にまとめられた長い黒髪に、切長の三白眼、福耳なのか、たっぷりとした耳たぶには、大ぶりの黒いピアスをつけている。五条くんと同じくらい背の高い彼は、五条くんや私と同じデザインの学ランに、下はボンタンを合わせていた。バラバラな組み合わせに見えて、そのどれもが、不思議と調和して馴染んでいた。
(なんだか、雰囲気のある人だな)
というのが、私の傑に対する初見の印象である。
傑の視線が、五条くんと私を交互に見つめる。
「うん、まあ」
「聞けよ傑、こいつ、帳も知らねーの」
曖昧に頷いた私の声は、五条くんの叫びに、かき消された。
傑が眉を上げて、ああ、と合点がいったような声をだす。
「初めてにしては、随分上手いじゃないか」
「帳に上手いも下手も無いだろ」
五条くんがツンと言うと、傑は首を横に振って私に微笑んだ。
「そんなことないさ、灯はきっといい術師になれるよ」
「う、うん」
なんてことない話し方なのに、私はなんだかどぎまぎとしてしまう。
傑は私のことを、呼びつけにするのだ。
嫌だな、というわけではない。
怖いとか、そういうのも違う。
ちょっとだけ気恥ずかしくて、でも、近しい雰囲気が嬉しくて。
同世代の男の子に名前を呼ばれるなんて、ずいぶんと久しぶりだった。小学校高学年あたりから減り始めたその機会は、学園の中等部に進学してからは、ぱったりと無くなっていた。基本的に男子生徒は私のことを「一ノ瀬さん」と呼んでいて、呼びつけされるにしても、せいぜい五条くんのように「一ノ瀬」と苗字で呼ぶ人が数人いたくらいで、「灯」と私を呼ぶ男の人なんて、傑の他には父親か夜蛾先生くらいしかいなかった。
「ありがとう、傑くん」
半分うつむいて礼を言った。夏油という呼び名が出てこなかったのは、たぶん五条くんの影響だろう。
「傑でいいよ。悟も、そう呼んでる」
傑が言った。
「傑くんは、少し気恥ずかしい」
続けて、傑はふくむように笑いながら言った。
「傑?」
「うん」
微笑んだまま傑が頷く。糸のように細められた傑の目を見て、私はなんだか、もう一度、帳の中に隠れたい気持ちになった。