神様の隣人 _ | ナノ

1

忘れもしない、中学生活、最後の席替えの日。
 持ちいる運の全てを使い切り、勝ち取ったのが、一番人気の窓際最後方の席だった。
 卒業までの残り僅かな時間を、最高の席で過ごせると淡い期待を胸に移動した一日の終わりのホームルーム前の隙間時間。席についてみれば、私の期待はあっさりと裏切られた。
(凍えるわ)
 二月最初の登校日。人のいない校庭には、鈍色の空からしんしんと降る雪がうっすらと積もり始めている。校庭に植えられた針葉樹が葉を揺らせば、凍てついた外の空気が窓の隙間から入り込み、私の体を容赦なく冷やしていった。きっとこの教室にサーモグラフィーを当てたら、私もろとも、窓際一帯は真っ青に染まるだろう。
 人気の席とは思えぬ、想定外の悪環境に項垂れながら、私は少しでも暖をとろうと、ブレザーの下に着込んだクリーム色のカーディガンの袖をめいいっぱいに伸ばす。
(お母さんに、新しいニット買ってもらおう)
 去年ユニクロで買ったカーディガンは、袖口が伸びて解れている。伸びた糸をつまんでみれば、しゅるしゅると糸が解けていった。
 みすぼらしさを増したカーディガンに、脱力する。この学園で、はたしてユニクロのカーディガンを着ている人間はどれくらいいるのだろうと考えて。さらには、当たり前のようにブランドものを身につけるクラスメイト達に、劣等感を抱いている自分を、思い知らされて。
(別に、うちだって貧乏じゃないはずなんだけど)
 解れた糸を切ろうと、机の横に下げた巾着袋から鋏を取り出していれば、ガタガタと机を引きずりながら五条くんが私の右隣で声を上げた。
「うわ、ここ寒っ」
(うわ、五条悟)
 そう思いながら、私は私の気配を限りなく消すことに努める。
「ねえ、そこちゃんと窓しまってる?」
 それでも気にせず話しかけてくる五条くんに、私は無言で頷く。このとき、お願いだから、これ以上話しかけないで、と祈るのも忘れずに。
「暖房全然あたんねぇじゃん、ここ」
 ふざけんなよ、と悪態をつきながら、五条くんは席についた。はあ、と五条くんが溜め息をつけば、教室内からいくつもの視線が彼を一度経由した後に私へと注がれたのがわかって、私はぎゅっと身を縮めた。

 クラスメイトの五条くんは、良くも悪くも、この学園きっての有名人で一目置かれた存在だった。文武両道、眉目秀麗、傲岸不遜。彼を現す言葉はいくつかあるが、そのどれをとっても、五条くんは人に気安さを与える人ではなかった。そして、それが、女の子達から非常にうけていた。
 同じ女の端くれとして、その気持ちがわからないわけではない。
 女の子というものは、ちょっと悪そうな男の子とか、ちょっとダメそうな男の子とか、とにかく、ちょっと癖のある男の子に夢中になってしまうものなのだ。それに加えて顔が良かったりなんてしたら百点満点である。そして、五条悟という人はその視点でいうと、120点満点を叩き出していた。
 ようは、この学園の女の子みんなが彼に夢中なのだ。横並びに淡淡とした想いを抱いて、遠くから、彼をみんなで眺めている。
 だからこそ、誰かひとりが、彼に近づくといやに目立った。五条くんだけを見つめる眼に、ほかの女の子の背中は邪魔なのだ。
 横に真っ直ぐに並んだ列を乱すことは許されていない。この学園で生きる女の子達の暗黙の了解。もしくは、誓約。
 それを破ろうものなら、学園中の女の子からのやっかみが待っている。
 正直、出来るだけ関わりたくない男の子だ。

 先生が教室にやってきて、ホームルームが始まった。明日の連絡事項を淡々と話すのを、私は窓の外を眺めながら聞きながす。
 ゴンっと、突然椅子の脚を蹴られた。驚きに肩が小さくはねる。蹴られたところに視線をやれば、想像通り、出来れば関わりたくない男の子、五条くんの大きな足があった。
 どうやり過ごそうかと頭を回せば、もう一度、蹴られる。ガツン。恐々と、視線を足元から隣に座る五条くんの顔へと移せば、むっつりとした顔で彼が私を眺めていた。
「それ、中身何?」
 私にしか届かないだろう小声で、五条くんが囁く。くい、と動かされた顎の先にあるのは、年季の入った黒の革張りの楽器ケースだった。
「バイオリン」
 私もまた、小声で返す。
 五条くんは、一度きつく口を結んでから
「誰の?」
 と、質問を重ねた。
「私の、だけど」
「ちげーよ、もとは誰のかってこと」
「……お爺ちゃんの」
「その前」
「わ、かんない」
 わからない。と言えば、ふうん、と返される。それから何の興味も無さそうに、五条くんは
「それ、頂戴」
 と言ったのだった。

 何を言われているのか、よくわからなかった。
 は? と、つい怪訝な声が出てしまえば、五条くんが不機嫌そうに口を尖らせた。
(な、なんで、私がそんな顔されなきゃいけないの)
 あたふたと戸惑いながらも、私は、無言で首を横に振って否定の意をはっきりと示した。じゃあ、今日はこれで終わり。先生が言えば、日直の生徒が、起立を促す。私と五条くんは号令に従い席を立ち、気持ちの無い礼をした。

 放課後となった教室には、気の抜けた空気が漂っている。クラスメイト達はどこか気怠げだ。
 私は、五条くんが何かを言う前に、学生鞄とバイオリンケースを肩にかけた。挨拶なんてせずに、この場を去ろうと、五条くんの後ろを通り抜ける。
 しかし、それは当の五条くんによって阻害された。ぐいっ、と、バイオリンケースを後方に引っ張られる。その力の強さに、私は「きゃっ」と高い悲鳴を上げながら、フラフラとよろめいた。
「話まだ終わってないんだけど」
 五条くんが言う。私を見下ろしてくる顔は影がかかっていて、綺麗な顔にすごみを持たせている。
「は、話って、バイオリンのことなら、無理だよ」
 答えた私の声は情け無く萎びれていた。美人が怒ると怖い。聞いたことだけあった言葉をひしひしと感じていた。それに加えて、チクチクとした周りの視線が刺さる。お願いだからもう勘弁してほしい。
「何が無理なの? あ、金?」
 五条くんは、はいはい、とわかったような顔をした。えっ。私は戸惑いに顔を硬らせる。五条くんは軽々しく言葉を続ける。
「幾らでもいいよ。百万? 千?」
(なんなの、この人)
「困ります!」
 私は振り切るように身体を翻して、五条くんを睨みつける。
「何が?」
「何って、これ手放したら、私演奏できなくなっちゃうんだけど」
「うん、だから、金払うから、それで別のやつ買えばいいじゃん」
「な、そ、そういう問題じゃなくて」
「何?」
「大事なものなの。突然、そんなわけわかんないこと言われても、迷惑」
 迷惑、と、いいのければ、教室の温度がさらに下がった気がした。一呼吸すれば、コソコソと私について話す声が聞こえてくる。ああ、やってしまった。最悪だ。私は唇を噛みしめて、何も視界にいれないように顔を俯かせる。そうすれば、
「あっそ、ならいいよ」
 と、今までの会話なんて無かったみたいに、サラリと五条くんは言う。
 じゃあね、バイバイ。
 重みのない、吹けば飛んでいきそうな軽い挨拶。それから、トン、とバイオリンケースを小突かれる。
「そのかわり、おまえ死ぬよ」
 五条くんは、小さく、でもはっきりと、そう私に告げて去っていった。

 私と五条くんの通う中学校は、属にいう、お坊ちゃま、お嬢様学校といわれる部類の学校である。五条くんはその例にも漏れず、どこかの名家のお坊ちゃまらしい。対して、私といえば、ごくごく普通のサラリーマン家庭に生まれ育った、ごく普通の女の子であった。
 しかし、そんな私にも一つだけ、得意なものがあった。
 それが、バイオリンである。
 楽器屋を営んでいた祖父の残した古いバイオリンは、私の物心つく前からの遊び道具で、新しく買い与えられた子ども用のバイオリン以上に私は、その古いバイオリンの響かせる音の美しさの虜になっていた。勿論、大好きな祖父の形見ということで大切にしていたのもあるが、何か嫌なことや、怖いことが起きたとき、そのバイオリンを弾くと、不思議とざわついた心が落ち着いた。
 祖父の古いバイオリンは、私にとって安心を与えてくれる御守りのような存在でもあったのだ。
 そんな私が、小学校六年生のときに、そのバイオリンを片手に掴みとったのが、この学園の、音楽推薦の特待生制度だった。
 バイオリンで成果を上げ続ければ、エスカレーター式に大学までの道が開ける。逆にバイオリンを手放せば、私は、中学生活残り一月と迫ったこの時期に、露頭に迷うこととなるだろう。

 講堂のステージの上で、バイオリンに顎をあてる。
 放課後の音楽室は、吹奏楽部の領域だ。代わりに、私にあてがわれたのが、コンクリール会場さながらの音響設備の整ったこの講堂だった。
 目を伏せて、深く呼吸をする。弓を持ち上げ、弦を弾く。G線上のアリア。鳴らした音が鎖骨を伝導して身体の中に入りこむのを感じる。そのまま頭を通り抜け、音は上へと響いていく。バイオリンというのは、どうにも、音楽的に響く音は弓と弦の接触面ではなく、その上、つまり、空中で最も美しく響くらしい。
 それでも、私は私の中に直接響くバイオリンの音が好きだった。どこかノイズを帯びた荒さに心を奪われていた。この荒さは、良いバイオリンであればあるほど、美しいと私は思っている。この古いバイオリンのように。
 だからーーー
 ぎゅいん。
 音が歪んだ。私は弓を下ろす。集中できていないことは自覚していた。
(死ぬよとか、なんで言うかな)
「死ね」なら、まだ良かった。いや、全くよくないし、傷つくし、そんなこと軽々しく言う人を私は許せないけれど、それは嫌な悪口として受け止められた。でも「死ぬよ」は違う。あれは悪口ではなく宣告だ。

 携帯電話を開き、センター問い合わせのボタンを押す。受信メールは0件です。わかっていた結果に溜め息をつく。
 ちょっと聞いてよ。
 先程の五条くんとのやりとりについて、誰かにそう言いたくて、でもそのために誰かに連絡をするのは憚れて、私は誰かからの連絡を待っている。出来れば、この学園の女の子で、かつ、五条くんに好意を抱いていない人がいい。そう思ったけれど、そんな子がいるのか? と考えて頭が重くなった。
 いない訳じゃないはずなのだ。
 いくら学園の王子様のような彼であっても、みんながみんな、五条くんを好きなわけじゃない。
「私は正直、そこまでかな。かっこいいとは思うけど」
 そう彼について話す女の子だって、実際、珍しくは無かった。理由は単純に好みの話だったり、彼の性格の問題だったりした。けれど、彼女達の「正直」が「本音」では無いのではないかと、私は疑ってしまうのだ。
 携帯電話を制服のポケットに閉まって、またバイオリンを持ち直した。それでもやっぱり調子は上がらない。自分の音なのに、満足がいかないのだ。それが全て五条くんのせいならばよかったが、今日だけの話じゃなかった。
 こんな調子がここ一月ほど続いている。
「ほんとに死ぬのかな、私」
 口に出してゾッとした。
 声に乗せてしまったことで、途端に五条くんの言葉が現実に近づいてしまったような気になった。
 私はバイオリンを胸に抱えて辺りを見渡す。
 死ぬときはきっと、病でなく誰かに殺される。そんな確信をここ十年ほど抱いている。
 抱えこんだバイオリンに一度視線をおくり、構えなおす。それから私は、雑念をはらうように、強く目を瞑り弓をひいた。五条くんはいったい、何を知っているのだろう。
 瞼の裏の五条くんの姿は、王子様というよりはもっと神仏の類に近いものを連想させた。そういえば、この曲の原曲を作った男は、すべての音楽を神に捧げるために作ったと言われていたな。ふとそんなことを思い出しながら、私は弦に触れる指を動かして、音を鳴らす。
 私の全てを捧げるように。
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