女の子は、倒れこんだ先輩に寄り添うように膝をついた。
「簡単に言ってくれるよ」
男の人が、女の子と先輩を庇うように、五条くんが吹き飛ばした呪霊の前に立つ。
「おまえらなら、ヨユーだろ」
五条くんは、どこか楽しそうだった。続けて、私の背をさすったまま
「そっち終わったらコレもお願い」
と、軽い口調で言う。
「は?」
と、男女の非難めいた声が重なった。
「何それ、全部じゃん」
女の子が言う。たぶん、彼女がショーコだ。
「悟、まさか帳だけ張りにきたわけじゃないだろう」
と言ったのが、きっとスグル。
初めて見る五条くんの友達二人と、五条くんを、私はキョロキョロと見比べる。
そんな私の視線に気づいたのか、五条くんは私を覗きこむように顔を近づけると
「もうちょい待ってて」
と、垂れ下がる私の腕にそっと触れた。しかし、私がその温もりを感じることはなかった。それどころか、細く捻られた腕の痛みすら、感じていない。
「あ」
そのとき、ようやく私は自分の腕がわずかにも動かないことを理解した。途端にぶわりと涙が溢れる。私。わたし、もう。
「腕が」
「うん」
「どうしよう、バイオリン」
「大丈夫。おまえの腕はショーコが治してくれるし、あの呪霊はスグルがなんとかする」
「でもっ」
否定の声を私は叫んだ。
(本当に怖いのは、あの呪霊じゃない)
私は、胸に抱えたバイオリンを見下ろす。
(まだ、この中に残ってる)
「うまく隠したよな、ほんと」
五条くんが言った。
「俺、目には自信あったんだけど」
はっ、と、五条くんは嘲るように鼻で笑う。自嘲ではないと思った。それは確かに、私とこのバイオリンに向けられたものだ。
「その様子じゃ、もうわかってんだろ」
私の背から手を離して、五条くんは立ち上がる。私と向き合うように立った五条くんは、その背中に、私から友人二人を庇っているかのようにも見えた。
「ごめん、一ノ瀬」
五条くんが、指先を私にむける。
不思議と恐怖は無かった。
このとき、私はもう色んなことがわかっていたのだ。
バイオリンに眠る呪霊のことも、私の術式のことも。
五条くんは大きく、重い、圧を纏っていた。世界が分断されたかのように音楽室は暗く染まり、五条くんの白銀の髪だけが、淡く発光している。その姿はまるで。
「私たちの国の神様」
あの日に聞いた言葉が蘇る。あの日。私が呪いの全てを忘れた日から、この呪いは私とともにあったのだ。
祖父の告別式は、どんよりと分厚い雲に覆わられた空の下で執り行われた。
自宅付近の葬儀場で式を行ったあとに、マイクロバスに乗って火葬場へと移動した。職員に案内された部屋には、寿司が置かれた長テーブルが六つ並んでいたと思う。
大人たちは、上座が、下座がなどと口々に言いながら席に着いていく中、私は呼ばれるがままに母の隣へと腰掛けた。
「オレンジジュースでいい」
母に聞かれて頷いた。
グラスにジュースが注がれていく。父が席を立った。ビールの入ったグラスを手に、親戚一同の前に立つ。この度は。そう切り出すと、父は祖父の思い出と、親戚への謝辞を述べた。
「献杯」という言葉を使ったのは、今のところそれが最初で最後だ。
お寿司が乾きはじめてもなお、出棺までにはまだ時間がかかるようだった。
「他にも三組くらいいたわね」
おばさんが言っている。
それから、私を見ると
「灯ちゃんは、おばあちゃんそっくりね」
と、目尻を下げて笑った。
「ほんと、そっくり」
「おばあちゃんは、お嬢さまでねえ」
「でも、鼻はお母さんじゃなあい?」
私の顔を眺めると、おばさん達は口々に言っている。それに対して
(で、どうすればいいわけ)
と、私は思うわけであった。だって、そんなこと言われたって、別に嬉しくも悲しくもないわけで。
だから、
「トイレ行ってくる」
そう言って部屋を抜け出したのは仕方がないことだった。本当にトイレに行こうとしたが、少し前をまた、別の親戚が歩いていて、なんだか気まずくて外に出た。
昼間だというのに、分厚い雲に覆われていて外は少し暗かった。
「八重さん」
後ろから声をかけられて、びくりとした。
八重、というのは、祖母の名前であった。
曖昧に、私は振り向いた。私の名前ではないそれが、他の誰かを呼ぶものかもしれなかったので。
「ああ、お孫さんかな。よく似ている」
そう言って微笑みながら立っていた人こそが、件の老人であった。
老人は、名乗ることすらせずに、唐突に話を持ちかけてきた。
「バイオリンに私を取り込んでくれないか」
「バイオリン?」
「ああ。君のお爺さんのものがあるだろう。私はそれを昔、弾いてたんだ」
老人はそう告げると、「決行は明日の正午で、それから」と、一方的にどんどんと話を進めていく。
私は慌てて、老人の話を遮った。
「出来ないです、私」
小さく叫ぶと、老人は不思議そうに私をみてきた。その視線が居た堪れなくて私は言葉を足した。
「生きてる人は取り込めないんです」
そう言う問題ではないと、今なら思う。
ただこの時は奇妙な老人を止めることに慌てていて、幼い私には、それは出来ないという事実を告げることが精一杯だった。
ふむ。と老人は顎を撫でた。
それから、
「問題ない。明日の正午までには死んでおくから」
と、あっさりと言ってのける。
「え」
私は物騒な老人の物言いに、怖気ついた。
「嫌だ。怖い」
私は大きく首を振る。
(なんなのこの人)
そう思いながら、私は後ずさった。両親のもとに逃げたかったのだ。まともじゃない。そう感じとって、身体が恐怖に硬くなった。
「呪霊が怖いなら、悪い話じゃないだろう」
老人は私の恐怖の対象が自分だとは考えていないようだった。それがまた、私を怖がらせたのだけれど、そのことには全く気づいていないようだった。
「やだ。したくない」
私は声を強めた。
「困ったな。せっかく縛りを決めてきたのに」
老人は、やれやれ、と首を振った。
縛り。
私は耳慣れない言葉を繰り返した。
契約みたいなものさ。老人は言う。
契約? 私は聞き返す。
老人は同じように頷くと、契約の内容を説明し始めた。
一つ、私が老人を祖父のバイオリンに取り込むこと。
二つ、その代償に、老人は、私の取り込む呪霊の数を増やすこと。
「契約の期限は、君が私を取り込んでから、呪霊が溢れるまでだ」
「期限が切れたら、どうなるの」
「君は記憶を取り戻し、呪霊が中から溢れだす。その後どうなるかはわからない。ただ私は、君が呪霊に殺された後、空になった身体に受肉したいと考えている」
名案だろう、と笑う老人に私は息を飲んだ。
「嫌です」
私がまた大きく首を振れば、老人もまた、やれやれと首を振った。
「埒があかないね。なら選ばせてあげよう。今すぐ死ぬか、私と契約した後で死ぬかの二択だ」
「やだ、死にたくない」
「我が儘を言わないでくれよ」
ああ困ったな。と、老人は悪びれる様子もなく頬を掻いた。イカれている。子供ながらに感じた嫌悪は、呪霊と対等したときか、それ以上だった。
何もかも、理解の範疇を超えてくる老人を呆然と眺めていれば、老人はポンと何か閃いたとばかりに掌に拳を打った。
「なら一つゲームをしよう。簡単だよ、かくれんぼだ」
老人はニコニコと言う。
「君、中学は八重さんの母校を目指しているんだろう?」
(なんで知ってるんだろう)
そう思いなが、私は一つ頷く。
老人は、丁度いい、と笑って言葉を続ける。
「期限までに悟が私を見つけたら君の勝ち。悟から隠れ続けたら、私の勝ちだ。わかりやすくていいだろう」
「サトル?」
「私たちの国の神様」
知らなくても大丈夫、雲一つない晴天の日に太陽を探すようなものさ。探さなくとも悟のことは、すぐ見つけられる。
「悟に君から言いつけるのはナシだ。そうだね、呪霊が溢れるまで、君の呪いに関する記憶を無くすことも縛りに付け加えよう」
老人は一方的にそう話すと、「じゃ」と言って、足早に去った。
残されて、私はただ、呆然としていた。
あの老人は何者だったのだろう。祖父母との関係は。どうして私の不思議な力を知っているの。神様に出会えなかったら。
私には何もわからなかった。
翌日の正午、私を一体の呪霊が襲った。
今までに感じたことのない圧が押しよせて、私は恐怖に嘔吐した。
「だれか、お願い」
自分の血が薄くなるのを感じた。比喩ではなく、実際に目の前が真っ白で、足元がおぼつかなかった。
へたり込み、祖父のバイオリンを私は胸にきつく抱えた。
怖い。
嫌だ。
死にたくない。
ただそれだけを思って、私は呪いの言葉を口にする。
「有漏重重」
その言葉が最後だった。
呪霊は私の目の前から消え去り、私は、わからないことすら、わからなくなってしまった。
「おまたせ」
五条くんは向けた指先をそのままに言った。
「ずっと待ってた」
私もまた、五条くんに差し出すように動く左手でバイオリンを持ち上げる。
「蒼」
「放生」
それから、私たちが呪いの言葉を唱えたのは、ほぼ同時だったと思う。