「嬉しくないの?」
「それは……嬉しいけど」
「ならいいじゃん。俺、おまえ好きだし」
「またそういうこと言う」
「お礼くれてもいいよ」
ニヤニヤと顔を近づけてくる五条くんから「馬鹿じゃないの」と顔を背ける。
ヘラヘラと軽々しく言う五条くんは、本当は私への好意なんか無くて、揶揄って遊んでいるだけなんじゃないか。と私は最近思っているのだけれど。
「好きでも無い人に気を持たせるようなこと、五条くんはしないと思うよ」
梢は言う。
「そういうのって、他人からの好意で自分の存在価値を実感したいだけでしょう? 生きてるだけでモテるような人が、そんな面倒なことするかな。本当に揶揄ってるんだとしても、それは、五条くんにとって灯ちゃんが『自分に気を持っても良い人』だから、灯ちゃんに気をまわすんだと思う」
というのが、梢の見解だった。
「気を持っても良い人?」
私は梢の言葉を聞き返す。
「うん。他人から与えられるものって、形が無ければないほど、重たくて大きくなりがちだから。最後はどれかを置いていくしかないと思うの」
梢は伏目がちにそう言った。
「だから」
梢は、つづける。
「五条くんは、灯ちゃんを選んでると思うし、灯ちゃんも五条くんを選んでるんだと私は思うよ」
梢はそう言うと、ふふっ、と、小さく笑った。唇の両はしにきゅっと力がはいっている。それは微笑みというよりは、泣くのを堪えているような、そんな表情に見えた。
「それが恋かどうかは、きっと二人が思うより大切でも特別なことでもないのよ」
迎えた当日、一つ上の先輩達の前でのプロとの演奏というシチュエーションは思ったよりも緊張しなかった。それよりも、
(すっごい、楽しかったあ)
という感想でいっぱいであった。私はもしかしたら、誰かと演奏する方が好きなのかもしれない。
高揚感に包まれながら、私は音楽室でバイオリンを磨きつつ、五条くんに無事に終えたことを伝えようと携帯電話のボタンの上に指を滑らせていた。
『終わりました。楽しかった』
うるさいくらいに、頭に溢れる言葉も言語化してみれば簡素な二言に纏ってしまった。
いささか簡潔すぎるだろうか。
まあいっか。
えい、と送信ボタンを押せば、すぐに五条くんから電話がかかってきた。
「もしもし、五条くん」
「ん、終わった?」
そう訊ねる五条くんの背後にざわめきが聞こえる。車の音がする。外なのかな。私は思う。耳をすませていれば、
「悟」
と、男の人の声がした。
「あ、スグルちょっと待って」
五条くんが言う。
スグル。五条くんの友達のうちの一人の名前が聞こえて、私はやっぱりビクリとする。
初めて聴いたスグルの声は、想像よりも柔らかかった。
「取りに来てんだけど、校門持ってきて」
「ええっ、五条くん学校きてるの?」
五条くんの言葉に、思わず私は抗議の声を漏らす。
「あ゛? それがなんだよ」
五条くんが、苛立つのがわかった。
「や、だって目立つじゃん」
噂の上塗りにでもなったらたまったもんじゃない。というのが私の本音である。
「うるせえな、嫌ならさっさと持ってこいよ」
五条くんは苛立ちをそのままに言う。
これ以上の問答はきっと無意味だ。むしろ、悪循環になりかねない。そう判断して、私は
「すぐ片付けるから、待ってて」
と、渋々頷くのであった。
「来てるの?」
唐突に背後から声がかけられた。
「ひっ」
驚きに、息をのんだ。
勢いよく後ろを振り向けば、女子生徒が一人、音楽室の扉を塞ぐように立っていた。
「五条くん、いるの」
女子生徒が言った。
「えっ、あの、その」
モゴモゴと言葉を誤魔化しながら、私は携帯電話から耳をゆっくりと離す。まだ五条くんが何か話しているようだったけれど、私はそのままパチンと携帯電話を閉ざした。
私は恐々と女子生徒を見た。この人、知ってる。五条くんのこと好きだった、あの先輩だ。たぶん。
講堂でみた姿が蘇る。以前の先輩の容姿については、実のところあまり印象に残っていない。背中の呪霊のことばかり覚えていた。絡みつくように先輩の背にしがみついていた、あれ。
とっさに私はバイオリンを抱きしめた。
「五条くんじゃない、とは、言わないのね」
先輩は薄ら笑いに言った。共鳴するように、甲高い笑い声が先輩の背から漏れ出る。
先輩の背中には未だ呪霊が絡みついていた。
むしろ、あの頃よりも目でわかるほどに大きくなっている。しがみついていた手は、先輩を抱くように身体に絡みついていて、細めた目が先輩のことを嬲るように眺めている。何かが始まる前の恋人同士のような距離感に、私はつい顔を顰めた。
「ねえ、五条くんに私も会えないかな」
先輩は言った。一歩、足を私に近づける。それに、私もまた半歩ほど足を後ろに下げた。
「私ね、まだ好きなの」
先輩は続けた。私はまた口ごもる。先輩は奇妙に微笑んだまま、また足を進めた。
(こ、来ないで)
私はバイオリンを抱き直した。ぎゅっと力をこめた指先が弦に食い込む。持ち方なんて考えている余裕は無かった。ただ、先輩が、その後ろの呪霊が怖い。その一心である。
「まさか、本当に付き合ってるわけじゃないよね」
先輩の問いかけに、首を縦に細かく振る。
付き合ってない。恋人じゃない。友達とも違う。五条くんは、そう言うんじゃない。
心の中で叫びながら、私はまた一歩後ずさる。
「じゃあ、私が五条くんのこと好きでもいいよね」
先輩が言った。
勝手にしてくださいよ。
そう言いたくて、むけた視線の先で卑しく細まる目と、視線があった。
(気持ち悪い)
私は身体を硬くした。嫌だ。汚い。気持ち悪い。呪霊に対する嫌悪が、お腹の奥から迫り上がるように溢れてくる。理性ははっきりと残っていたはずなのに、嘔吐感にも似たそれを、私は堪えることが出来なかった。
「無理なんだけど」
これは言い訳だけど、私はこの時、先輩を蔑むつもりは本当に無くて、呪霊にむけて話しかけていた。先輩が呪霊を見えているとかいないとか、そんなことを気にするだけの余裕はなかったのだ。
私の視線も言葉も、確かに呪霊だけに向けていて、先輩のことは、正直、意識の外だった。
「気色悪いな」
弦に食い込む指が滑った。
ポロンと場にそぐわない音が鳴ったのと、
「殺してやる」
と叫んだ先輩が倒れこんだのは同時だった。
パン、と、何かが弾けたような気がしたときには全てが終わった後だった。
強烈な痛みが襲ったのもまた、一瞬だった。
気がついたときには、私は座りこんでいて、私の右手はだらりと垂れ下がっていた。自分のものじゃないみたいに、全く力が入らない。
呼吸が浅く、息が苦しい。
この感覚には覚えがあった。あのときと同じだ。初めて呪術高専に行く前、五条くんと講堂で話したときに感じた、恐怖。
(おまえ死ぬよ)
私は五条くんの声を思い出していた。やはりあれは警告などではなく、宣告だったのだろうか。
目の前には、倒れこんだ先輩を踏みつけながら、私にむかってキシキシと不気味に笑いかけてくる呪霊が一体立っている。今まで見てきた呪霊とは明らかに何かが違う、命を奪うためだけに存在しているかのような禍々しさを持ったそれは、まるでこの日を待ち望んでいたかのように、歓喜しているようにすら見えた。
私ではこの呪霊には勝てない。
幼い頃から感じていた死の予感は、今日のことを指していたのだと、はっきりと私は理解していた。
瞬きの間に、私の目前と迫った呪霊は、焦らすようにゆっくりと腐敗した指で私の喉をなぞった。キキっと甲高い笑いを呪霊は漏らす。この呪霊は私が怯える様を楽しんでいる。ゆっくりと気道を塞ぐように指が押し込められていく。
その手を引き離したいのに、それをするための手が動かない。震える足だけが、本能のままに床を蹴り、目の前に迫る死に抵抗する。そうすれば、呪霊は、じわじわと首を締める手はそのままに、別の手が床を蹴る私の足を捕らえた。
「キキッ」
呪霊が笑う。
嫌悪と恐怖が許容を超え、意識を手放しかけたそのときだった。
「誰のもんに手出してんだよ」
呪霊と私の上から貫くような声が降った。
直後、首元にまとわりつく力が消え、勢いよく酸素が私の中に入り込んでくる。
咽せた。
激しく咳こみ背を丸めれば、大きな手が背中を労るように摩ってくる。
「思ったより、元気そうじゃん」
もうちょい死にかけてるかと思った。五条くんはそう付け加えて軽く笑うと、指を二本並べ立て、何か唱えた。
「闇より出でて闇より黒くその穢れを禊ぎ祓え」
夕焼けが赤く染めていた音楽室が、途端に夜が訪れたかのように暗闇に包まれていく。
「スグル、ショーコ、あと頼んだ」
五条くんは音楽室の入り口にむかって叫ぶ。五条くんに倣うように、視線を彼と同じ方向に向ければ、暗闇に溶けるような黒い服を着た男女が一組、立っていた。