神様の隣人 _ | ナノ

11

 自然とお腹を庇うように背筋が丸くなった。五条くんの発言により、あっという間に五条くんと私に関する噂は尾鰭背鰭をつけて学園中を駆け巡った。おかげで私は一日中、周りからの好奇の目と、五条くんからの苛立ちをサンドバッグの如くぶつけられるはめになり、終礼前のホームルームを迎える今、もう倒れこみそうな程の疲弊感に襲われているのだ。

 昨日、五条くんの言う「付き合おう」に、私は何も返せていなかった。
 あのキスの後、結局私達はどこに行くことも、何を話すこともなく、市民ホールの前で別れを済ませたのだ。
「じゃ、学校で」
 静かにそう言った五条くんに、頷いて、私は足早にホールを去った。
 有耶無耶にしたかったわけでは無い。ただ、あまりに突然のことで、何と返せばいいのか、自分でもよくわからなかった。
 あんまり関わり合いにならないほうがいい、男の子である。という認識に変わりはない。けれども、五条くんと過ごした僅かな放課後が、思いの外、充足していたのも事実だ。
(キス、された)
 初めての経験に、思考がパニックになっていたのも一因であろう。
 でも、と、私はまたしても思うわけである。
 また、あの、小骨が引っかかるような。
 耳の中に水が入り込んだときのような。
 そんなすっきりとしない、ぼやけた、何かが私の中には確かにあるのだ。

 深く息を吐きながら、体を前に傾ければ、コツンと机に頭があたった。冷えた天板が、額の熱を奪っていく。祖父はいつ祖母を好きになったのだろうか。
 皺くちゃの手で、鍵盤をなぞるようにピアノに触れる祖母の姿が頭に浮かんだ。祖母はどんな音を出したのだろうか。キン、とした高音を思い浮かべながら、私は首を窓とは反対側に向けた。
 五条くんが、同じような体制で、私を見ている。

「お爺ちゃんの店に、寄っていい?」
 放課後、少し悩んで、私は言った。五条くんの背中にあるバイオリンも今日が見納めだろう。
「べつにいいけど」
 五条くんは、少し首を傾げる。
「店、まだ残してんだ」
「お父さんがね、なんか手放せないらしくって」
 そういうもんか。そう言いながら五条くんは歩きはじめる。すっかり、駅へと向かう背中も見慣れてしまった。明日からはまた、五条くんは車での送迎に戻るのだろうか。
 学園の最寄駅から、電車を乗り継ぎ、三十分程のところに祖父の店はある。昨日譲り受けたばかりの鍵を差し込み、扉を開ければ、店内は薄暗く埃っぽかった。すでに空になったショーケースの立ち並ぶ一階を抜けて、私は二階の試奏室へと向かう。
 後を歩く五条くんが、階段をのぼりきると、まだ片付けきれていない工房を眺めながら「すっげぇ」と小さく声を漏らした。
「これって、店やってた時のまんま?」
「まあ。流石に楽器は片付けてるけど。なかなか手が回らなくて、工具はまだ手付かずなんだよね」
 へー、と五条くんが言った。目線をキョロキョロと動かしている。試奏室に入ってからも、五条くんは物珍しそうに部屋を観察していた。一階から運び込まれたのだろう、段ボールをひとつ、五条くんが覗いている。中には大量の楽譜が入っていた。
「最後に、ちょっとだけ弾いていい?」
 私が言えば、五条くんは、背中からバイオリンケースをそっと下ろした。
「別れ難い?」
 言いながら、五条くんは私にバイオリンケースを差し出す。
 うん、そうだね。というのは、私の素直な感想であった。
「何か違うの、ほかと?」
 五条くんは聞く。
 うん、とまた私は頷く。全く違った。でもそれを口で説明するのは、なんとも難しい。こういうのってどう説明したら良いのだろう。お爺ちゃんとの思い出とか、遺品とか、そういう話を差し置いても、このバイオリンは私にとって特別だった。言うならば、しっくりとくるのだ。
「恋とね、一緒なんだって」
 私は言う。
「理屈じゃなくて、感覚みたいなもん、てことなんだろうけど」
 五条くんは真っ直ぐに私を見据えて話を聞いていた。そんな真剣な態度で聞かれるなんて思わなかったから、少し照れ臭くなる。だけど、私は話した。このバイオリンに対する思いを、最後にきちんと消化しておきたかったのだ。
「どこが好きなのかも、いつから好きなのかも、よくわからないんだけど」
(たぶん、私もグズなのだ。お爺ちゃんや、お父さんみたいに)
「言われてみると、全部好きなんだよね」
「わかんねえ」
 静かに聞いていた五条くんは、ようやく口を開くと、そう断ち切るように言った。形の良い額を狭めている。
「そういうものこそ、忘れないもんじゃねえの」
 そうかな。どうなんだろう。
 口には出さずに私は自問する。
 きっと、五条くんは頭のいい人だから、私みたいにはならないのだろう。グズ、なんて言葉は五条くんには似合わない。
「この前弾いたバッハの曲。俺が昔教わったのとは別の曲なんだよね」
 不意に五条くんは言った。
 え、と、私は頭の中をめぐる思考を手放して、五条くんへと目を向ける。
「聴いたことはあったけど、タイトルすら知らなかった」
 まあ、クラシックなんて興味ねぇし、と五条くんは頭をガシガシと掻く。それから、だらりと手を下ろすと、少し黙って、おもむろにまた口を開いた。
「中一のときの九月二日。始業式後の表彰式、髪は一本に縛ってて、制服のジャケットは脱いでた」
 五条くんが言う。懐かしむような素振りはなく、今、目の前にあるものを言葉で説明しているかの様な淡々とした口ぶりであった。
「先生に一曲弾けっていわれて、めちゃくちゃ嫌そうな顔してた。ムスッて、口尖らせて。それで、そのまま弾いたのが、あの曲。バッハの。主よ、人の喜びよ」
 五条くんと目があった。
 真っ青な、目。こんなにも、まじまじと見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「その日も呪霊が湧いてて、おまえは、そのうち三体、取りこんでて」
 一呼吸して、五条くんは続ける。
「お前の取りこんだ呪霊の顔とか、体育館の匂いとか、その日の天気とか、校長のネクタイの色とか、そういうくだらないこと含めて、何一つ、忘れられる気がしないんだけど」
 五条くんは言い、手を伸ばした。弓を握る手の上から、そっと被せるように、私の手が包まれる。
「このまま、おまえのこと好きでいたら、俺も忘れられるもんなの」
 すぐに手は離され、五条くんは試奏室を出た。扉は開けたままで、工房をじっと眺めている。私もまた、五条くんの背中を見つめる。じっと。
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