Jujutsu kaisen | ナノ

擬態

子供のころからの習慣がナマエとの間に一つある。
眠る前にキスをするのだ。

「おやすみ」
額の触れ合う距離で俺が言えば、ナマエは湿り気を残す唇で
「おやすみなさいませ」
と答えた。それに一つ頷いて、俺はナマエに背を向けて自室に向かい歩き始める。
ナマエの気配が薄くなるにつれて、じょじょに首の後ろのあたりに重いものがのしかかっていくような気になった。
はあ。
堪えきれないため息がつい溢れる。
おやすみのキスなんて習慣は、今や憂鬱なものでしかなかった。

ナマエはうちで働く女中の子どもだ。
詳しくは知らないが、遠く離れた親戚にあたるらしい。ナマエみたいに関係性のよくわからない親戚と呼ばれる他人がうちには多く仕えている。だいたいは親の世代の人間で、次に多いのが爺さん達だ。同じ年頃の子どもはほとんどいない。そんな環境だったから、小さい頃は親の身分も関係なく、ガキはガキで集まってよく庭で一緒に走り回って遊んだものだった。なかでもナマエは特別俺と近しくて、二人きりでもよく遊んでいた。歳が同じで、術式もある奴だったから、遠慮のいらない存在だったのだ。
とはいえ、遠慮がいらないといってもそれはあくまで「家のガキの中では」に限られた話であった。ナマエは傑のように、対等に力をふるえる存在なんかじゃない。
それをはっきりと理解したのは6歳のときだった。
その日もいつもと同じように、俺はナマエと庭をかけまわって遊んでいたのだ。
それが鬼ごっこだったのか、なんの遊びだったのかは定かではない。
ナマエが俺の前を走っていて、それを俺は追いかけていた。追いつくことは簡単で、俺は目の前を走るナマエに向けて手を伸ばした。二の腕のあたりを掴んだのだ。掴んですぐに、捕らえたナマエの腕を離した。
「キャッ」
と掴んだ瞬間、キンと高く鋭い悲鳴をナマエがあげたので驚いたのである。
なんだよ突然、と俺が呆気にとられていれば、ナマエはうずくまりながら「痛い、痛い」と大声で泣き始めた。
だからいったい何が。と不思議に思っていれば、ナマエの悲鳴を聞きつけた大人たちが集まってきた。その中にはナマエの母親もいて、ナマエは駆けつけた母親の腕に抱かれると、ますます泣く声を大きくした。
「どうしたのです」
事情を聞く母親に、ナマエは嗚咽を漏らしながら涙の理由を答えた。
「悟くんに、ぎゅって捕まれて痛い」
は? と俺は声をあげた。心当たりが全くといってなかった。掴んだことは認めていた。だ、泣き喚かれるほどの力など全くこめたつもりがなかった。
「ここ」
ナマエが着物の袖口を捲り上げた。現れた痣に俺は息を飲んだ。ナマエの白い二の腕には、子どもの手の痕がはっきりと赤く残っていた。

ようやく自分がナマエを傷つけたのだと理解すれば、じわじわと焦りのような感情が湧き上がった。
やばい。
どうして。
どうすれば。
そんな思考が、頭を埋めつくす中で、ナマエの泣き声が余計に俺を焦らせた。それが悪かった。
ごめん。
その一言に辿り着くのが遅れたことをナマエのせいにするつもりは無い。
ナマエに嫌われたんじゃないか、とか、ナマエはすごい怒っているんじゃないか、とか、これがきっかけでナマエともう遊べなくなるんじゃないか。といった俺の自己保身的な焦りが、「ごめん」の言葉を遅らせたのだ。
あのとき、何より先に、自分でなくナマエを気づかうべきだったのに。後悔というのは、決まって間に合わなかった故に起こるものである。
俺が口を開くよりも先に、背後から年のいった男の怒声があたりに響いた。
「下賤の娘が、悟さまの所為にするのか」
あのときの、ナマエの母親の顔を俺は忘れることが出来ない。
人の上に立つことは、愛されることでも、許されることでもない。下の人間からすれば上の首など有りさえすれば何にすげ変わろうと大した違いはないのだ。世界の特別になろうと、誰かの特別になれるわけではない。ナマエの母親は俺が死んでも何も思わないだろう。叫んだ男が死ねば、鼻で笑うくらいはするかもしれない。それでもきっと、ナマエが扉に足の小指をぶつけたといえば、そちらに意識をとられるくらいの些細な出来事にしかならないだろう。

その日は眠れなかった。縁側に続く障子扉から、白い月明かりが布団の側まで差し込んでいた。月の大きな夜だった。
瞼を閉ざしても、身体の内側に、落ち着かないものがあった。
「ごめん」
という、ただ一言を結局伝えられなかった後悔が理由かもしれない。
だめだ、と起き上がり、俺は部屋を抜け出した。
それで、ふらふらと敷地内を放浪としていれば、ナマエの母親に見つかった。
気づけば、無意識に使用人の屋敷の方へと歩いていたようだった。
「今日は、娘が申し訳ありませんでした」
俺が夜更けに出歩いていることを言い訳する前に、ナマエの母親は深く頭を下げた。
「いや……べつに」
うまく言葉が出なくて、モゴモゴとした答えになった。ナマエの母親は小さく頷いた。少々お待ちいただけますかと訊ねて、部屋の奥に入っていった。
少ししてから寝巻き姿のナマエが母親に代わり、奥から出てきた。
「悟くん」
ナマエは草履に足をつっかけて、小走りに駆け寄るなり、
「今日はごめんなさい」
と勢いよく頭を下げると、
「大袈裟だったね、わたし。お友達にもそれくらいで泣いたなんてって、からかわれちゃった」
と謝った。それから上目遣いに俺の顔ををうかがって、
「まだ怪我が治ってないから、明日はお部屋遊びでもいいですか」
と訊ねる。
「遊べるの」
「走り回るようなものでなければ。いや?」
「ううん」
首を横に振るのが、精一杯だった。涙で震えそうになる唇を俺は懸命に結んでいた。
はっきりと、ナマエを好きだと自覚したのはこのときだ。
なんてことも無いように遊びに誘うナマエに、救われていた。そして同時に、ナマエにとって今日という日が、俺と過ごす時間が、たわいもないものであることを、わかってしまった。
世界にとってどれだけ特別な存在であろうとも、ナマエにとってはただの遊び相手のガキでしかないことも。人の上に立つことは、愛されることでも許されることでもないのだ。
啜り泣きそうになる声を殺そうと奥歯を噛み締めるほど、力のこもった目が潤いを増した。瞬きの拍子に、堪えきれない涙が一筋溢れる。
「…….どうしたの、悟くん。泣かないで」
ナマエは戸惑っていた。どうして俺が泣いているのか、わかっていないのだ。
「大丈夫だよ」
泣きじゃくるナマエをナマエの母親があやしたように、ナマエは俺を抱きしめた。大丈夫、大丈夫。そう繰り返しながら、ナマエが背を撫でるたびに俺の目からは涙が溢れる。
頬を滑る雫を、柔らかなものが堰き止めた。
キスをされたのだと気付いたときには、既にナマエの唇は頬から離れていた。一瞬のことだった。
「泣き止んだ?」
ナマエが聞いた。ぽかんと、俺はナマエを見つめる。揶揄う様子もなく心配そうにこちらを見つめる目と視線がぶつかる。
「テレビで観たの。泣いてる女の人に男の人がこうしてるの」
「テレビ?」
「そう。本当は、お口とお口だったけど、お母さんが口はダメだって」
「なんで?」
わかんない、とナマエが首を傾げた。何も言わずに俺たちはじっと互いを見合った。
ゆっくりと、顔が近づく。
唇と唇が触れ合う。
離れる。
それはやはり一瞬のことだった。
「変な感じ」
俺は言った。
「うん、でも、涙とまったね」
ナマエが微笑む。
もう一度、どちらともなく、顔を寄せ合う。
ナマエとまた、明日も一緒に過ごせますように。繰り返したキスにはそんな祈りを込めていた。
おやすみ、と言い合ってキスは終わりを迎えた。どうしてその日限りで終わりにならなかったのかは、俺もよくわからない。ただ性的な欲などは全くない、ナマエの優しさから始まった習慣であることは確かだ。いつのまにか邪な思いをこの行為に抱くようになったせいで、俺が勝手に憂鬱になっているだけで。

「相変わらず、仲がいいね」
唐突に後ろから声をかけられ振り返れば、傑がいた。上下スエット姿で、風呂上がりなのだろうか肩にタオルをかけている。まだ完全に乾いていないのだろう髪はいつもより重く、まとまりを保っていた。
「覗きかよ。悪趣味な奴だ」
俺が顔を顰めると、傑は薄く笑った。そのままサンダルをペタペタとならして歩み寄ってくる。
「言いがかりはよしてくれ。ただの通りすがりだ」
俺を追い越すように、傑は歩幅をぐんと広げた。追い越し際、横目に俺を見ながら
「子どもの真似事は、そんなに楽しいものなのか」
と傑が聞く。
「は?」
「違うかい? 私には大人の真似事をしている子どものような、そんな微笑ましいものには見えなかったけど」
「黙れ」
「悟が駄目ならナマエに言おうか。君とのおやすみのキスは、悟の目を冴えさせていると」
傑の言葉に俺は苦虫を噛んだような顔になる。邪な想いが身体を熱くさせ、眠気を遠のかせる。そういう夜に心当たりが無いとは言えなかった。
決まって、そういう夜は、傑をゲームに誘っていた。
一人でいると、劣情をナマエにぶつけてしまいたくなるからだ。
ばか正直に傑にそのことを打ち明けたことは無かったが、頼る先を俺はどうやら間違えたらしい。
「別に私は、悟に良いように使われていることを、怒ってるわけじゃない」
「じゃあなに」
「べつに。馬鹿だなと思って」
「……じゃあ聞くけど、当主の息子が使用人の娘に自分の女になれなんて言ったら、どうなると思う?」
傑に聞きながら、俺は自分自信にも問いかけていた。浮かんだ答えは、これまでに何度も自問しては導き出したものと同じだ。やっぱりそうなんだよ。心の中で俺は頷く。
「好きじゃなくても、なるしかねえじゃん」
部屋に続く廊下を、俺たちは歩いていく。暗い廊下に月明かりが差し込んでいた。
「優しいのか、臆病なのか」
月は、白い光を放っていた。初めてキスをした日もこんな月だったっけ。
そうだったような気もするし、そうじゃないような気もした。あの夜を絶対に忘れないと思っていたはずなのに、記憶は時間とともに着実に朧げになっている。
ついでにこの気持ちも、薄れさせてくれればいいのに。憂鬱な心持ちのままに俺は思う。しかしそう思えば思うほどに、ナマエへの好きが積み重なっているような気にもなった。
「もしもナマエと悟が同じ立場だったら、悟はどうしていたと思う?」
「は?」
傑に聞かれ、俺は眉を寄せた。
「なんで」
質問の理由がわからなくて、傑に真意を確かめる。
「立場にやたらとこだわっているから」
そうだろうか、と俺は首を傾げる。
いや、違う。
とらわれてるわけではなく、考えていないのだ。
俺とナマエでは持って生まれたものが違う。力も、性別も、身分も。それは今更変えようの無いものなのだ。変わらないから悩んでいて、変わらないから放置したのだ。
「それでも、変わるものがあるかもしれない」
傑は言い、微笑む。
「謝ってみたら」
「えっ」
「ずっと後悔してるんだろう、なら伝えるべきだ。ナマエにとって大したことではないと思うならなおさら、遠慮などいらないだろう」
ナマエにとって大したことではない、そう言われて、う、と俺は顎を引いた。臆病か、傑がクツクツと喉を震わせる。笑いは短いものだった。
この関係が変わってしまうのが、本当は怖いのだ。
進まない関係を憂鬱に思うよりも、この習慣が無くなってしまう方が怖い。
ナマエが遠のいてしまうのが、怖かった。いや遠のいていることを、実感するのが怖いのだ。
「わざわざ振られにいくようなことして、何になるんだよ」
しおしおと俺は項垂れる。
「当主の息子を、使用人の娘は断れないんだろ」
飄々と傑は言いのけた。

眠れない夜は、どうしてこう嫌味なほどに、ゆっくりと流れていくのだろう。テレビやゲーム、マンガなんかで時間を潰しても時計の針は全く進んでくれやしない。
だめだ、と呟き俺は部屋を後にした。自販機で水を買い、一口飲んでから、窓の桟に寄りかかり月を眺める。
ナマエ、何してんのかな。そんなことを考えていれば
「悟くん?」
と呼びかけられた。
「わっ」
びくりと、肩が跳ねる。
振り返ると、寝巻き姿のナマエが、パタパタと小走りに駆け寄ってきた。
「なんだか眠れなくて。悟くんも?」
驚きから、うん、とも、ちがうとも答えられずに、俺はナマエの顔をただ眺めた。
じっと見つめていれば、ナマエは首をもたげ目を伏せた。そのままナマエが背伸びをする。習慣のように、近づいた距離が切なかった。
きっと、次に唇を重ねたら、積み上げた想いがバランスを崩してしまう。そんな予感がはっきりと胸にあった。だから。
「あのときは、ごめん」
ナマエが目を大きく開いた。
十年越しに、俺はナマエに謝った。怪我させてごめん。ナマエは悪くないって、言えなくてごめん。
「どうか、気になさらないでください」
ナマエは言う。
会いに来てくださったことが、私はとても嬉しかったのです。本当に。その日の夜は眠れなかったほどに、私は嬉しかったのです。
「眠れない?」
「ソワソワと気持ちが浮つくのです」
モジモジとナマエは言うと、さっとすばやく俯いてしまった。仕方なく、ナマエのつむじを見下ろす。ナマエの髪から石鹸の香りがたちのぼっていた。引き寄せられるままに、頭のてっぺんに鼻を寄せる。
「今も?」
「はい」
ナマエが、頷く。
短く発せられた声は、震えていた。泣き声を殺していると思ったのは俺自身の経験からだ。ナマエの身体を抱き寄せる。ぴくんと、ナマエの身体が硬直した。互いに背は伸びたはずなのに、あの頃よりもナマエが小さくなったような気がした。だからというわけでは無いけれど、俺は小さな子どもをあやすようにあのときのナマエを真似て、その背をゆっくりと撫でながら、大丈夫、と繰り返す。
しばらくそうしていれば、おずおずとナマエは俯いた顔を持ち上げて、俺を見上げた。月の白い光に照らされたその顔はあの頃の面影を残していて、しかしもう無垢な子どものものでは無かった。
「今だけ、五条の姓を外していい?」
聞いてから、重ね続けた想いを俺はナマエに打ち明けた。ナマエは、突然の告白に、潤いを残した目を丸くしている。
「どうして、五条の姓を」
「当主の息子が言うのは、やっぱりずるい気がした」
当主の、とナマエは繰り返すと、
「変なところで気を遣われるんですね」
と言うなり、ふふ、と笑った。それから、すんと鼻を啜る。
「そのままの。当主様の御子息である悟くんのことが、私は好きなんですけど、それはいけませんか」
「それは、つまり、どういう意味」
慎重に、俺はたしかめる。
「そうやって、出会ったから」
「出会う?」
「最初から好きなんです。ずっと」
ごくり、と俺は唾を飲んだ。本当に?
「女中の娘は、躊躇いがありますか」
まさか。そう答え、俺はナマエにキスをする。ナマエが好きだと思った。ナマエと明日も一緒にいたいと、願った。何かが確かに変わったのに、ガキの頃と思うことは何も変わらなかった。
俺とナマエは飽きることなくキスをして、やがて初めて舌を重ね、そして絡めた。
月が俺とナマエを照らしている。今の俺たちは、いったいどんな姿に見えているのだろう。一瞬だけ考えて、だけど結局、俺は俺でナマエはナマエなんだと思い直して、俺はナマエとのキスに夢中になった。

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