Jujutsu kaisen | ナノ

2017年12月23日 銀座マロニエ通りティファニー前

 2017年12月23日
 銀座マロニエ通り、ティファニー前

 あなたが今履いてる黒のルブタンは、歩き疲れたあなたの小さな足の小指を傷つけている。
 ここから歩いて帰るには、その小指にはしる、ジクジクとした痛みは、無視できない程の障害だった。あなたは小さく溜め息をついてから顔を上げ、右斜め前の方に視線をやった。それに特別な理由は無かったが、今思えば、何か視線を感じたのかもしれない。視線の先に見えるのは、道路向かいにあるキットカットのショコラトリーと、その奥にあるアニエスベー、その前を行き交う人々と、その中で立ち止まる袈裟を着た男だった。
 袈裟の男と目があったとき、あなたは、小指の痛みを一瞬で忘れさったのだが、あなたはそれに気づいていない。

 あなたが黒のルブタンを手にしたのは高校二年生に進学してすぐの頃だった。
 初めてその靴を見た時、その美しさに、あなたは一瞬で虜になった。ショーケースの前に制服姿でへばりついて目を輝かせているあなたのことを、髪をきつく夜会巻きに結いあげた店員は、ママのハイヒールに憧れる小さな女の子を見るような目で眺めていた。
 黒のルブタンは高価な靴だった。とても、普通の高校生が月々のお小遣いからちょっと奮発して買えるような靴ではなかった。だから店員はあなたはきっと、ルブタンへの憧れを胸にスニーカーを履いて家へと帰るのだろうと思った。いつか、その憧れを履きこなす大人の女性になったときにこの店の敷居を跨いで欲しいと叔母のような心持ちで微笑ましくあなたを眺めながら。
 けれど、あなたは店の敷地を跨いだ。
 薄汚れたスニーカーを履いて、黒のルブタンを指差しながら、この靴をください、と、まるで恋人の父親へ挨拶に伺った青年のように、あなたは真剣さと誠実さをもって店員に告げたのだった。
 黒のルブタンの値段を聞いて、あなたは驚いた。しかし、だからといって買うことを躊躇うような素振りは決してみせなかった。あなたはその日、生まれて初めてクレジットカードをきった。それは、間違いなく、あなたがあなたの命をかけて稼いだお金だった。
 あなたのものとなったルブタンを胸に抱えたとき、あなたはこのために命をかけてきたのではないかと思えた。
 その日から黒のルブタンはあなたにとって、命の形そのものになった。


『東京都立呪術高等専門学校』
 あなたは当時その学校の生徒で、二年生で、さらに二級呪術師というカテゴリーに属していた。呪術師として一人での任務も増え、もらえる給料の額も少しずつ増えていた。黒のルブタンはその給料を貯めたお金で買ったものだった。
 あなたは、買ったばかりの黒のルブタンを誰かに見せたくて仕方がなかった。
 こんなにも美しいものがあることを、そして、それを自分が稼いだお金で買った誇らしさを誰かに伝えたかったのだ。その目的が達成されるならば、その誰かは誰でもよかった。でもできれば、その誰かは夏油が良いと思った。
 困ったように眉を下げて、似合うよ、と、柔らかな声で言う夏油を思い描きながら、あなたは帰りの電車の中で黒のルブタンが入った袋を抱きしめていた。

 あなたが駆け足で教室に入れば、目当ての夏油はそこにいた。嘘くさいほどに真っ青な空を背に、長い脚を組みながら、文庫本に目を落としていた。教室には、他に五条と家入もいたが、それはあなたにとっては、良いことでも悪いことでも無かった。
 教室であなたは黒のルブタンを履いてみせた。教卓の前で、スニーカーを履く要領で立ったまま、美しい靴に爪先をいれた。右足からいれたのは、あなたの子供の頃からの無意識の習慣だった。意識をせずとも動けるほどに、あなたは靴を履くという行為を数えきれないくらいに繰り返してきていたのだ。
 それなのに、あなたはふらついた。
 細く高いヒールを持つ黒のルブタンには、スニーカーを履くのとはまた違う要領が必要だったのだ。
 手を貸そうか、そう言って、あなたの手をとったのは夏油だった。
 あなたの手をすっぽりと覆い隠せてしまいそうな大きな手は、あなたが体を預けてもびくともせずに支えてくれる。
「ありがとう」
 あなたは夏油の手を掴む指先にほんの少し力を込めた。
「似合ってるよ」
 夏油は帰りの電車で浮かべた通りの笑い方をした。夏油はいつだって、あなたに優しい。あなたは夏油が好きだった。
 蕩けるような微笑みをあなたが夏油へ向けるのを、五条と家入が白けた顔で眺めていたが、あなたはその視線に無頓着だった。夏油と黒のルブタンのことで頭がいっぱいだったのだ。それを悪いことだとは思わなかった。むしろそれ以外のものに、思考をさくのが勿体ないとすら、あなたは思っていた。


 あなたは今朝、数年ぶりに、シューズボックスで眠りにつく黒のルブタンを手に取った。薄手のクロスで丁寧に磨いたり、目の高さに持ち上げてじっくりと見つめたりしながら黒のルブタンを大切に愛おしんだ。
 綺麗に磨きあげたあとに、部屋の中で履いてみることにした。ふらつかないように、慎重に足をいれる。壁に手をついたのは、夏油が、あなたの隣にもういないからだ。

 あなたはその理由をしっかりと理解している。夏油が人を殺したからだ。その事実をあなたが忘れたことはない。ただ、その事実をずっと考えていると、あなたの心は引き裂かれてしまいそうになるのだ。だから、あなたはその事実を思い出すことをやめた。
 黒のルブタンを、あなたは手に入れたあの日から今日まで一度も履いたことがなかった。
 あなたは怖かったのだ。細く高いヒールがあなたのバランスを崩すことが。支えてくれる手が無いことが。転げてしまったときの痛みが。
 もしも、倒れたまま、もう二度と起き上がれなくなってしまったら?そんな恐怖を危惧して、あなたは黒のルブタンをシューズボックスの中に仕舞い込んでしまっていた。しかし、いざ履いてみれば、あなたはバランスを崩さなかったし、颯爽と歩くことすらできた。当然のことだった。あなたの家のシューズボックスには今ではスニーカーよりも多くのハイヒールが並んでいて、あなたはもう、ハイヒールを履く要領を考えずに熟せるほどにヒールの高い靴に慣れてしまっていたのだ。
 あなたは、もう、ルブタンの似合う大人だ。
 
 銀座に来たのは、ルブタンを買ったのがここだったからで、とくに、行きたい場所や用があったわけではない。
 黒のミニドレスの裾をさばいて、あなたはあてもなく歩いた。途中、伊藤屋に寄って、使う予定のないポストカードを眺めて、結局何も買わずに店を出た。それから喉が乾いた気がしてお茶にしようと思った。スターバックスの新作が気になったが、混んでいたからルノアールに入ってコーヒーを飲んだ。
 ぼうっとしていれば、職場の人間から、早く戻ってくるようにと連絡が入った。あなたはそれに、素直に従うことにした。明日が忙しい日になることを、あなたは既に五条からの連絡で知っていたからだ。
 気づけばコーヒーを頼んでから一時間以上経っていた。
 二階にあるルノアールから地上に降りるときに、あなたは自分の足の小指が痛むことに気がついた。困ったな、と思いながらジクジクと痛む足を動かし、あなたは地上に降りる。横断歩道を渡ろうとティファニーの前に立ち、そこであなたはあの、袈裟の男を見つけたのだ。
 どうしようもなく泣きたくなった。しゃがみこんで、声を上げて、どうしてと喚き散らしたくなった。でもそんなこと、できるわけもなく、あなたは唇を噛みしめて、黒のルブタンを見下ろした。
 あなたの前には袈裟を着た、夏油が、立っている。

 この十年近くの間、あなたが夏油を思い出さなかったのは、夏油を忘れた日がなかったからだ。あなたはあなたに優しかった夏油を、一日も欠かすことなく愛おしんでいた。
 けれども今、不思議とあなたは目の前に立つ夏油に懐かしいという感情を抱いていた。そしてそんな感情を抱いた自分自身に落胆している。全て昨日のことのように思っていた筈なのに、と。
「そのスカート寒くないのかい」
 顔を上げれば、夏油が眉を下げて微笑んでいた。頭の中の夏油よりも少し頬が骨張っている気がする。
「でも似合うね、靴も」
 柔らかな声にあなたの喉が震える。思い出す、嘘みたいな青空。シューズボックスに仕舞い込んでいた、あなた自身。あなたは呪術師で、あなたは、毎日誰かの呪いを呪っては、どこかの誰かの命を救った。その対価で買った黒のルブタン。それはあなたの命の形。あなたの誇り。それを見せたかった唯ひとりの人。仕舞えずにいた、あなたの恋。
「手を貸そうか」
 大きな手が差し伸ばされる。きっとその手をとれば、あなたは真っ直ぐに立って歩くことができるだろう。それが例え地獄の底であっても、あなたはその手を握っている間は誰よりも幸福でいられる。そんな確信を持っていた。
 でも。
 最後の言葉が、別れの言葉でないことに安堵しながら、あなたは、こう、言う。
「一人で歩ける」

 簡単な話だ。あなたは、この十年もの間、夏油のことが好きだった。大好きで仕方がなかった。今でも。けれど、同じくらいに呪術師という仕事を誇っていたし、何より彼の思想に理解も共感もすることが出来なかった。
 あなたは夏油に、また明日、と言いかけてやめた。夏油も何も言わなかった。互いに他人行儀な笑顔を貼り付けて、曖昧な会釈をひとつして、別々の方向へと足を向けた。
 あなたはジクジクとする痛みを、しっかりと感じながら、颯爽と黒のルブタンを履いて歩く。バランスを崩すことはもう恐れない。あの大きな手があなたの心を支えてくれているから。夏油はいつだってあなたに優しかった。その事実だけで、あなたは生きていける。

 2017年12月24日
 新宿駅 南口
 ありきたりな空の下、あなたは誰かの呪いを呪った。仕事が終わればスマートフォンに五条からのメッセージが一通届いていた。返事は返さずに画面を消すと、そのままスマートフォンをポケットの中にしまった。
 あなたは颯爽と歩いている。呪いを呪って生きている。
 あなたの呪い。
 あなたの誇り。
 あなたの恋。
 あなたの命。
 あなたは、それら全てを愛している。
 黒のルブタンは今日もあなたの小さな小指を傷つける。傷口は血が滲み、ジクジクと痛む。それでもあなたは、今日も歩く。前を向いて。颯爽と。

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