Jujutsu kaisen | ナノ

今、星を見上げる先導者よ

Twitterでフォロワーさんに頂いたワードパレットより。月の裏側、ポラリス、氷柱の切っ先 。



「北極星を道標に、北東へ進んでください」
 口から白い息を吐きながら、窓であり、この山の管理者の娘であるミョウジナマエが雲一つない冬の夜空を真っ直ぐに指差した。指先を辿るように頭上を見上げれば、葉を無くした木々の隙間から星が煌々と輝いているのが見えた。
 あの空に衛生が打ち上げられてから数十年もの月日が経つというのに、よりにもよってスターナビゲーションとは。とんだ時代錯誤の提案を不満に思いながら、俺は視線を頭上の星からミョウジナマエの顔に移した。不安気な視線と目が合う。五条さん。神妙な声でミョウジナマエが俺を呼んだ。続けて、
「ここから先は神域になりますので、どうかくれぐれも森を荒らすことのないように」
 と、忠告してくる。
 俺がこれから登ろうとしている山は、所謂「神体山」と呼ばれるもので、神の宿る山としてこの辺りの人々から信仰の対象とされている山だ。神が宿るというからには、どこかに社が存在するのがセオリーだが、この山ではそれが山の頂近くにあるらしい。
 そして俺は、その社に保管されているという呪物を回収するために、このバカみたいに寒い日に高専から単身送り出されてきたのである。
 ミョウジナマエの後を追い、山の奥へと進んでいけば、道はどんどんと険しくなり、ものの数分後には獣の道すらない崖とも呼べる斜面が目の前に立ちはだかった。
「お社はこの先にあるのですが」
 気まづそうに、ミョウジナマエが俺を見上げた。社に行きたければ、夜も更けつつある寒空の下、この崖を這って登れ。と言わなければならないのだから、気まづくなるのも無理はないだろう。
 まあ、でも、今回ばかりはその心配は無用だった。ここにいるのは、無下限術式をもつ術師なのだから。
「そういうことね。りょーかい、了解」
 自分がこの任に選ばれた理由を悟った俺は、寒さを凌ぐためにポケットに隠していた右手を取り出し、ミョウジナマエへと差し出した。

「うわぁ、すごい」
 ミョウジナマエが小さく叫んだ。話を聞くと、空を歩くのは初めてとのことだった。
 あんまいねぇもんな。空飛べたり歩いたりするやつ、と俺はこたえる。俺も他にあったの一人くらいだよ。と続ければ、ミョウジナマエは目を見開き、
「高専には五条さんの他にも、こんなことが出来る方がいらっしゃるんですか」
 と、興奮したように聞き返した。
「うん。もういないけど」
 夏油傑という、呪霊操術を用いて空を飛ぶ術師が過去にいた。傑は俺と同じ特級で、いやに女にモテる男で、それから、俺の唯一の親友でもあった。そんな男が、規定違反を犯して高専を出たのは数ヶ月前の話である。

 きょろきょろと下ばかり眺めているミョウジナマエの手を引きながら、俺は星の広がる空を見上げた。傑はずるいと思った。一人で勝手に決めて、勝手にどこかに行きやがって。
 田舎だからか、星が良く見えた。月も。星座に関する知識は一般教養程度にしかないから、瞬く星が何の星かは殆どわからなかったけれど、3つ並んで輝く星をもつ星座があることは知っていた。
「あれ、オリオン座?」
「はい。なので、そっちは南になります」
 ミョウジナマエが答えた。北、南、東、西。十時を切るように、ミョウジナマエは星と星を指で繋げていく。こいつは、方角としてしか星を見ていないのだろうか。
「北極星を見失ったら、どうすんの?」
 疑問に思って俺は聞いた。深い意味のない素朴な疑問だった。
「見失う?」
 ミョウジナマエは聞き返した。
 うん。俺は答えた。
「北極星を?」
 確かめるように、また聞かれた。
 うん。俺もまた答えた。
 馬鹿みたいな質問をしている。俺はバツが悪い気持ちになった。八の字に下げられたミョウジナマエの眉から目を逸らす。
 傑のせいだ。
 イライラと俺は思った。窓の女との会話なんて、傑の得意分野だっただろうに。アイツがいないから、こんな思いをしなくちゃいけない。
「北極星は、常に真北に存在している星でして、あの星を指標にすることはあっても見失うということは……その、ありません」
 一般教養程度の知識しかもたない俺ですら知っている星の話を、ミョウジナマエはおどおどと口にした。
 機微を窺うような話し方が、癪に触った。
「指標を無くしたやつは、遭難して死ねってか」
 早口に言うと、ミョウジナマエは、小さく「えっと」と呟いて、そのまま黙って俯いた。
 俺は今までミョウジナマエにあわせていた歩幅を、大股にかえて、社に向けて歩いた。
 ミョウジナマエを引きずるような形になってしまったけれど、もう早く事を済ませて、こんな場所から去りたくて仕方なかった。

 たどり着いた山頂で、ひとつだけある鳥居をくぐり、社の中を覗けば、札でぐるぐる巻きになった桐の箱を見つけた。
 手に取って、目線の高さに箱を持ち上げ、サングラス越しに箱をじっと観察する。中の呪力はぼんやりとしか見えなかった。ふうんと、鼻を鳴らせば、ミョウジナマエが声をかけてきた。
「だ、大丈夫ですか?」
 うん。そっけなく返事をした。腕の良い術師に封印されてるみたいだから、何の問題もないよ。それくらい教えてあげても良かったけど、言葉がつっかかって出てこなかった。

 帰りも同じようにミョウジナマエの手を引いて、空を歩いた。
 帰り道は、麓の民家の明かりを頼りに進んだ。北極星を見なくてもいいことに、ちょっとだけホッとしている自分がいた。
「五条さん」
 ミョウジナマエが、繋いだ手を握り直した。今日初めて会った女に、しっかりと繋がれて、逆に俺は握る手に力を込められなくなってしまう。
「五条さん、あの、ここは神域で、人の手がはいることを嫌う人たちが多くて。それだから、私は道に迷う事がないように星を使って方角を確かめています」
 俺は、何も答えなかった。その話を、もう一度する気にはならなかった。
「北極星は、必ず、そこにあるので」
「……」
「でも。それは夜の山での話で、都心にむかうときは、私は星でなくネットから開いた地図をつかって歩きます」
 都心? いったいミョウジナマエは何を俺に話そうとしているのか。さりげなく振り返り、その顔を窺うも、月明かりを背にした顔は逆光でよく見えなかった。
「それに。こうして空が歩けるならば道に迷うことも無いのでしょう」
 ミョウジナマエは、行きと同じように、下ばかりを見ていた。空の散歩にも慣れてきたのか、はしゃぐような様子は無く、山の麓の灯りの方をぼんやりと見下ろしている。
「五条さん」
 ゆっくりと、言葉を置くようにミョウジナマエが呼んだ。ミョウジナマエと、目が合った。夜の空と同じ色の瞳。
「出過ぎた話かもしれませんが、もしも今、五条さんが何か不安に思うことがあるのだとしたら、それは指標を見失なったことではなく、目的地が定まらないことなんじゃないでしょうか」
 ミョウジナマエが聞いた。突然、核心に迫るような問いかけに、反射的に身を後ろに引いていた。
 うるさい。
 何も知らないくせに。
 俺のことも、傑のことも。何も知らないくせに。
 かっとなって、気づいたら思ったままのことを口に出していた。ミョウジナマエは、夜と同じ色の目を見開いて、それからすぐに
「すみません、初対面の人間がこんなこと」
 としおしおと謝った。
 わかってんなら、言うなよ。イライラとしたまま俺は言った。
 何にも知らないくせに。
 何にも、知らないくせに。
 同じ言葉を頭の中で、繰り返した。本当に出過ぎた話だと、うんざりとした気持ちだった。
 ため息をついて、次の一歩を踏み出した。こんなときでも、繋いだ手を離せない状況に舌打ちをしたい気持ちを堪えながら乱暴に手を引けば、ミョウジナマエはバランスを崩して、前のめりにつんのめった。
「あーもう、ウゼェ」
「すいません」
 ミョウジナマエが謝った。
 呪力をみなくても、怯えていることがわかる声だった。それにまた苛立ちを覚えれば、
「すいません」
 と、ミョウジナマエがまた謝った。
 その顔が今にも泣き出しそうで、俺はきまりが悪かった。こんなとき、傑だったらなんて声をかけるのだろう。傑はずるい。また思った。この女も、俺なんかじゃなくて、傑だったらよかったと思っているのだろう。そう思って、でも、そういえばこの女は傑のことを知らなかったな、と思い直した。
 そうだ。こいつは、俺のことも傑のことも、ろくに知りもしないのか。
 さっきとは、全く違う気持ちで、同じことを思った。
「知らない、か」
 新鮮な気持ちで呟いてみる。軽くて、ちょっとだけ、すっきりとした感じがする。
 知らないなら、いいか。そんな考えが頭に浮かんだ。
 不思議な話だ。そばに居る人には言えないことも、遠くの人間にはうっかり話してみたくなる。
「指標っていうかさ」
 俺は数ヶ月分の鬱々とした思いを話し始めた。一度白い息をはーっと吐いて、凍てついた空気を肺にとりこんでから、一気に喋った。
 正論ばかりを述べる親友がいた。意見の違いから、出会ってから何度も繰り返し喧嘩をしてきたが、そのたびに仲直りをしてきた。どちらが折れるかは、その時々だったけど、前提として向こうの意見が正しいという認識が俺にも向こうにも、他の周りの人間にもあった。けれど最後の喧嘩はそうではなかった。誰が見ても間違ったことを、そいつはやらかしたのだ。俺はそれを咎めたけれど、そいつは聞く耳をもたなかった。だから、規定に従って、俺はそいつを殺さなきゃいけなかったんだけど、それも出来ずに、そいつは高専を去っていってしまった。
「ずっとそばにいたはずなのに、何も見えてなかったのかな。俺は」
 そんな言葉で俺は話をしめくくった。
 そうでしたか。ミョウジナマエが小さく言った。それに答えずに、俺は階段を下るように麓にむけた足を進めた。今度はミョウジナマエに合わせるように、ゆっくりと歩いた。でもミョウジナマエは続かなかった。どうしたのかと振り返ったら、ミョウジナマエは浮かぶ月を見上げていた。それから、
「五条さんは、月が常に同じ面だけを地球に見せていることは、ご存知ですか?」
 と訊ねる。

 自転と公転の同調、って話? 少し考えてから答えると、ミョウジナマエはにっこりと笑いながら頷いた。
「はい。それ故に、地球からはどうやっても月の裏側は見えないんです」
 止めていた足を、ミョウジナマエは再び動かした。同じ高さにあった目線は下にさがり、小さな足が俺の足の真横に並ぶ。
「本当に五条さんは、何も見えていなかったのでしょうか」
 表も裏も、月は月ですよ。ミョウジナマエが、優しい声で言った。同じところで、同じ時間を過ごしたからこそ、見えなかった面があるのかもしれません。でも、五条さんが知っているご友人の一面も、偽物ではなかったはずです。
「うん」
 俺は小さく頷いた。なんか言った方が良いのかもしれなかったけど、何も言えなかった。ミョウジナマエも、それ以上は何も言わないで、黙って一度頷くと、また麓の方に視線をうつした。綺麗事、なのかな。俺は思う。俺はいったい傑のことをどう思えばあの日のことを納得出来るんだろう。ずるい、とか、嘘つき、とか、嫌いとか、そういうものにしてしまいたいのか。それともただ忘れてしまいたいのか。そしてなにより、俺はこれから先、どうやって生きていきたいと思っているのか。
 その答えを、俺はすでに持っているような気がした。どうすればよかったんだろう、と考えていたときは何にもわからなかったのに。
 ミョウジナマエが、もう一度ちらりと、後ろを振り返った。

 麓に戻ったときには、最終電車の出発時間に迫っていた。それに滑り込んで乗ったしても、今日中に高専にはたどり着けないと言われて、諦めた。
 宿もないような田舎だったので、その日はミョウジナマエの実家に泊めてもらうことにした。もらった風呂の湯は熱かった。さっきまで寒いところにいた身体が、じわりと溶けていくような感じだった。
 その後、布団に入ってからの記憶はない。いつの間に寝入ったのか、気がつくと、空はすっかり明るくなっていた。
 こんなに寝るのは久しぶりだなと思った。普段は、あまり眠らなくても平気な方なんだけど。
 夜の間にこもった空気を入れ替えようと、窓を開けた。入り込む冷たい風に身体がぶるりとする。軒から垂れた細長い氷柱が、窓枠の近くまで伸びていた。日差しに溶けて、切っ先から水滴が垂れている。夜になれば、水滴がまた凍って、長さをまた伸ばすのだろう。溶けたり、凍ったり。氷柱はそうやって少しずつ形を変えて、長く大きく成長していく。
 窓の桟に腰掛けて俺は高専に電話をかけた。なんだ、悟か。どうした。夜蛾先生の声がした。
 任務が終わったから迎えを寄越してほしい、と用件を伝えれば、
「そうか。わかった」
 と、夜蛾先生は了承した。続けて
「補助監督からまた連絡させる」
 と言う。
 そのまま電話が終わる気配がした。
「先生」
 俺は少し勢いをつけて、言った。
「どうした」
 夜蛾先生が答える。
 あのさ。一呼吸おいて話を続ける。言葉に澱みはなかった。
「俺、教師になろうと思う」
 太陽の光に目を細める。天気がいい。傑のことを忘れることはないだろうと、俺は思った。嫌いになることも無い。傑と過ごした時間は本物で、あの日々に得たものに間違いなんかきっとなかった。眼裏に北極星が浮かんだ。もう見失うことはない。その星がある限り、俺はどこにだって歩いていける。

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