寝返り
十数回めの寝返りをうった。
深夜と呼ぶには時計は針を進めすぎていて、もはや早朝と呼べる時間になっていた。結局、一睡も出来ずじまいのまま明けつつある空をみて、やべー授業寝るかも。なんて焦りが湧いてきて、ようやく俺は携帯電話の明かりを落とした。それから数分もしないうちに、そわそわとしてまた携帯電話を開いた。
ずっと調べていることがあった。ずっと。この一晩よりも長く、だからといって何ヶ月という程ではない期間。俺は頭を悩ませている。
先日、彼女であるナマエと、今まさに横になっているベッドの上で初体験を済ませ、気恥ずかしくも幸福な、なんとも言えない達成感に俺は満たされていた。ナマエと関係を深められたこともだし、「童貞」というものから抜け出すことが出来たことにも、頬が無意識ににやける程には、浮かれていた。
それからどうして頭を悩ませることになっているかというと、うとうととシーツに包まりながら船を漕ぐナマエをみて、腹の底に再び湧き上がるものを無理矢理おさえこんだことにある。親友の「初めてなんだから、とにかく女の子には優しくね。嫌がることはしてはいけない。自分の欲ばかりじゃ、今回はよくても次の機会が無くなってしまうからしれないから」というアドバイスとも脅しともとれる言葉を素直に受け止め、今しがた初体験を終えたばかりの身で、二度目の行為を求めるのは得策では無いと結論に至ったのである。以来ずっと、ならいつなら二度目を求めて良いのか、俺はタイミングを悩み続けているのである。
だからって、巻き込むなよ。
傑は顔をしかめながら、言った。
だいたい、悟はそんなことを気にするようなタマじゃないだろ。
そんなことって、傑が言い出したことだろう。と俺は怒鳴りそうになったが、堪えた。たしかに人の機微を気にするようなガラじゃなかった。放課後、俺とナマエは特別用がなくて、ならちょっと遊ぶ? なんて話になっていた。ゲームやろうよ、とナマエが提案していた。いいぜ、と二つ返事に答えたが、なら五条くんの部屋に行くね。と言われたところで、つい「んじゃ、傑も誘っておくわ」と口が動いてしまっていた。
部屋に来る、と言うだけで、正直気持ちも身体も落ち着かないことになっていたのである。
したけりゃ、しろよ。付き合ってるんだから。
わざとらしく肩をすくめながら、傑は言った。
それ目的で部屋連れ込んだと思われたらどうすんだよ。俺が言うと、傑はため息のような息を長くはいた。
だから、付き合ってるんだから、いいだろべつに。
だから、ヤリモクだと思われたらどうすんだって言ってんの。
そうじゃないんだから、そうじゃないって言えば済む話だろ。
そんな簡単な話なわけあるか。なんもわかってねえな、と俺は机に突っ伏し、ひんやりとした温度を額に感じながら、頭を抱えた。そんな悩む? と傑が笑う声が頭上から降ってくる。
「本気なんだ? ナマエのこと」
へえ、と傑が言った。ニヤニヤとしているんだろうなと思って、顔を上げれば、本当に傑はニヤニヤとしていた。
「本気っていうか、ふつーに付き合いてぇだけ」
俺は不貞腐れながら答えた。
「悟が普通に彼女の考えを気にするなんて思わなかった」
「おまえ俺のことなんだと思ってんの」
傑が笑った。何だか恥ずかしいことを口走ったような気がして、俺はいたたまれなかった。なんも変なことは言ってないはずなのに、照れ臭くて仕方なかった。
傑から顔を隠すように、俺はまた机に額を擦り付ける。
ナマエのことを尊重する気持ちがあるなら、それで大丈夫だよ、と傑は言って俺の背中を叩いた。痛えな、と文句を言いながら、のそのそと寮までの道を並び歩く。
「一度オッケーだったんだから、心配ないさ」
少し前を歩く傑が、振り向きがちに言う。そんなもんかね。俺は思う。初めてのときは、許されたというよりは、なんか勢いだったような気がする。少なくとも、あらかじめイメージしていた雰囲気ともタイミングとも全然違っていた。記念日でもなんでもないただの平日に、部屋着でダラダラ喋ってて、目があって、キスして、そのまま流れるように気づいたらしていた。
「それで済んだんだから、それでいいんだろ」
「なあんか、さっきからテキトーじゃね? おまえ」
「まあね、どうでもいいし」
「おい」
「イライラするなよ。付き合ってるだけありがたいと思ってくれ」
傑は言って足を止めた。ぐっと肩を組まれる。
「いいかい悟、もう片想いじゃないんだから、そろそろ自分がナマエのもので、ナマエも悟のものだということを自覚をしたほうがいい」
そして私をいちいち巻き込むな。傑はそう繰り返すと、肩に回した腕を乱暴にほどき、細い目をさらに細めて、俺を睨んだ。
「悟なんかのために、私がナマエから、鬱陶しそうに見られるのは懲り懲りなんだ」
なんか悪いな。そう言って俺は首の後ろを掻いた。傑は一瞬微妙な顔をして、それから思い切り嫌そうに顔を顰めた。急に俺の女感出すのやめてくれない。やれやれと首を振り、傑はまた歩き始める。俺もまた隣を歩く。校舎を出ると、空はオレンジがかっていた。風が強い。傑のへんな前髪が、靡いている。
「傑は、彼女つくんないの」
俺が聞くと、傑は頷いた。
「何人かなりたそうな子はいるけど、私は今のままで困ってないから」
うぜえ。と俺はぼやいた。こっちのセリフだよ。と傑が返す。それから寮につくまで無言で、とくに何も言わずにそれぞれの部屋に戻った。
十八時頃、傑のぶんまで菓子を持ったナマエが制服姿で部屋にやってきた。ローテーブルとベットの間の位置にナマエはぺたりと座って、俺の顔を不思議そうに見上げてくる。俺はその隣に座って、ナマエの持ってきた菓子の中からスナック菓子を一つ摘みながら、傑来ないってと伝えた。え、とナマエが短い声をあげた。それから今度はゆっくりと、あー、そっかあ。そうなんだ、と続けたから、俺はうつむきがちに頷いた。
二人して、しばし黙った。気まずくて小さく咳払いなんかをした。ナマエも。「どうする」と切り出したのは俺だ。
ゲームする? と続ければ、ナマエはどっちでもいいよ、と答えた。でも、せっかくだからしようかな、と言いながらナマエはテレビの前に乱雑に置かれたコントローラーに目をやった。
やりたいのなんかある? 続けて聞く。
いや、そう言うわけじゃないけど。
ならさ、キス、してもいい。
振り向かせるように、ナマエの肩を俺の方に引いた。たいした力を込めなくとも、薄っぺらいナマエの身体は簡単に引き寄せられた。下から、覗くように顔を寄せて、短いキスをした。目を丸くしたナマエが、俺を見つめている。その顔が可愛くて、またキスをする。今度はナマエも目を閉ざしたのがわかった。
するの? ナマエは顎を少しひいて上目遣いに、聞いた。せっかくだし。俺は答える。そっか。いやなら、ムリにとは思わないけど。いやとか、そう言うわけじゃないけど。
夏油くんがいると思ってたから、とナマエは答えを濁した。そういうのしないと思ってて。今日実技もあったから、その。モゴモゴと話すナマエの声がどんどんと小さくなる。
初体験のときの流れを思い返してみたが、どこでいけると思ったのか、わからなかった。思い出せないのではなく、やっぱりよくわからないのだ。ナマエと付き合ったときも、そういえばよくわからなかった。
告白はしたけど、あのときも、なんでいけると思ったんだったけか。
「ナマエのタイミングでいいよ」
と俺は話した。私の? 繰り返すナマエに俺は頷く。
「ナマエが何考えてんのかとか、雰囲気とか、そういうの気にしながら誘ったりすんの俺あんま上手くないと思う」
ガラじゃないし、と付け加えれば、ナマエは確かに、と否定しなかった。
「そのかわり、いつ、ナマエがいいって言っても平気」
と俺は続ける。
「いつでも、おまえのこと」
好き。そう言いかけて、やめた。首から上が茹だるように熱くなっていた。続けようとした言葉の小っ恥ずかしさを誤魔化すように、「あー」だの、「えー」だのそれこそらしくない唸り声をあげると、ナマエは眉を下げて微笑んだ。それから両手を広げて勢いよく抱きついてくる。
あのね、私、その、するの嫌じゃないよ。ナマエは抱きついたまま、内緒話の声で言った。俺はうまく返す言葉がみつからず、黙ったまま、ナマエのことを抱きしめ返す。ただ今日実技だったから、運動用というか、あまり可愛いのつけてないから見られるの恥ずかしい。モジモジとナマエはそんなことを打ち明けた。え、と俺は抱きしめる腕を離し、制服越しの胸元をマジマジと見下ろした。
つけてないって、それは、それのことなのだろうか。
それなら俺はぜんぜん気にしないっていうか、中身さえあれば、なんでもいいんだけど。頭の中で思ったことが、口から滑り落ちていけば、ナマエが俺の腹をぽかりと殴った。そういうことは、ほいほい言うよね。やだなあ。とナマエが立ち上がる。え、帰んの。焦って、つい大きな声が出た。
ナマエが笑う。
「お風呂入って、着替えたらまた来るから、かわいいって言ってね」
冗談めかしてそうナマエは言うと、静かにドアを閉めて去っていった。馬鹿みたいに口を半開きにしたまま、俺はドアを見つめる。マジか。ぽかんとしたまま、呟いた。やっぱり何で許されたのかも、いつそうなったのかもよくわからなかった。それでも、そうなったのだから、それでいいということなんだろう。きっと。
かわいいって言ってね、とはにかんだナマエを思い出す。かわいい、口の中で呟けば、顔の熱がさらに増し、今にも叫び出したい心持ちになった。
とびこむように、ベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋める。ごろごろと右左に寝返りをうつ。そわそわと、落ち着かず、長い夜を待っている。