Jujutsu kaisen | ナノ

楽園は美しく

「一晩だけでいい。子どもたちに、風呂を貸してくれないか」
 中学の同窓生であった傑くんに言われて、私は彼らを家にあげた。
 傑くんは小さな女の子を二人連れていた。どちらも薄汚れた身体にいくつもの傷跡をつけていた。風呂の準備をしながら、
「これどうしたの」
 と聞くと少女たちは、
「さっき転んだ」
 と厳しい口調で答えた。そっか、お風呂、しみるかもね。と私は頷いたが、むろん少女たちの言葉を信じてなどいなかった。ついさっき派手に転んだだけの汚れや傷にしては、少女たちは、臭っていたのだ。
 野生の生き物みたい。
 私は思う。それから、さっきまで観ていたテレビ番組のことを、ぼんやりと思い出した。

 傑くん達がやってくる直前まで、私はひとり、居間でテレビを眺めていた。
 テレビは、報道番組を流していた。ニュースキャスターは、昨日起きた殺人事件の犯人は未だ捕まっておらず、今日は新たに交通事故で誰かがまた死んだ事実を報告してきた。事故の方は飲酒運転が起因だそうだ。そこまでの過失があるというのなら、それはもう事故とは呼べないのではないかと私は考えて、そのうちどうにも哀しくなって、チャンネルを別のものにまわした。
 そこで観たのが、自然に生きる動物のドキュメンタリーだった。どこかの国のサバンナで、群れから逸れた母ライオンがひとり、子どもを生かすために狩に奮闘する一幕である。
 母ライオンが、一頭のシマウマに襲いかかったとき、私は涙を流していた。
 命のやりとりとは、こうあるべきだと私は確信した。野生の動物より美しいものはいない。彼らは不用意に命を奪うことをしない。ひたむきに自分の生を全うしている。

 パチン、パチンと音がするので、居間を覗けば、傑くんが背中を丸めて床に座り込んでいた。何をしているのかと、後ろから覗き込めば、傑くんは足の爪を切っているところだった。借りてるよ、と傑くんは足元に目を向けながら、言ってくる。それはいいけど。あの子たち寝ちゃったよ。傑くんが、お風呂あがるの待ちたかったみたいだったけど。覗き込んだまま、私は報告した。傑くんは右足の人差し指の爪を切った。パチン、と音がひびく。分厚くて、硬そうな音だった。
「そっか、ありがとう」
 傑くんは、平坦な声で礼を述べた。
「あの子たち、傑くんの子ども、ではないよね」
「うん」
「どうするの」
「連れてく」
「連れてくって、傑くんが育てるの」
「うん」
「どうして」
「それが私にできることだから」
 そっか、と私は頷いた。本当はどこかに預けちゃえばいいのに、と思っていたけれど、それを口にしたらまた哀しいニュースの余韻が戻ってきそうで、私はなにも言わなかった。
 パチンパチンと傑くんは爪を切っていく。切り揃えたあとに、爪切りからティッシュに溢された爪はやっぱり、大きくて分厚かった。
「君の爪は、小さくて丸いんだね」
 傑くんがのんびりと言った。これありがとう。と言いながら、傑くんは爪切りを畳み、ローテーブルの上にそっと置く。
「そうかな」
 立ったまま私は自分の爪を見下ろした。先日、塗ったばかりの爪は赤く色づいている。
「言われると、恥ずかしいね」
「なんで」
「小さくて、丸いなんて不細工じゃん」
「小さくて、丸いのはかわいいだろう」
 傑くんが、私の足の指を撫でた。そのまま顔を沈めると、猫がミルクを飲むみたいにして、チロチロと私の指を舐めはじめた。傑くんは、丁寧に、一本一本を味わうように舌を動かした。何かを舐めとるような動きだったそれは、いつのまにか唾液を塗り込むようなものに変わっていて、私の足はべとべとになる。
 唾液でぬらついたそれは、なんだか巨大なミミズみたいだった。思ったままのことを私が口にすると、傑くんは、
「人とミミズでは、どっちが美味しいのかな」
 と懐かしいことを言って、ライオンがシマウマの腹を裂くように大きな口を開けて、パジャマ越しに私の脚の付け根を口に喰んだ。


 中学生の頃、学校からの帰り道にある橋の下で、傑くんが何かネバネバとした様子の人を食べていたのを私は見たことがあった。
 正確にいうと、それは人ではなくて、人間の上半と、ミミズのような、ムカデのような、とにかくべとべととした粘液をともなう何かがくっついた、形容のし難い化け物だった。化け物は傑くんが手を翳すと、すーっと黒い線のように引き伸ばされながら、傑くんの手の方にたなびいていき、最後には綺麗に磨かれた泥団子のように艶々とした黒い球体になっていった。
「えっ」
 声をかけるつもりはなかったけれど、傑くんがそれを口に入れたとき、思わず声をあげると、傑くんは
「あ、見えた?」
 と笑った。
 どうにもこの橋は、心霊スポットであるらしい。本当は噂にあるような事件や霊は何もないのだけど、みんながあれやこれやと好き勝手に話すから、その恐怖が渦巻いて呪霊が湧いたのだと傑くんは教えてくれた。呪霊というものを私は知っていた。何年か前に呪術師と名乗る人からスカウトをされたことがあったのだ。しかし、親代わりである祖父にその人から貰った名刺を渡したら、ものすごい勢いで怒られたので、結局その話は受けずに終いとなった。私には、私と同じ体質であったが故に、呪術高専に進学したものの、僅か一年でこの世を去った伯父がいたのである。
 傑くんは家族に呪術師はいないと言った。傑くんだけが、呪霊を見えて、操ることが出来るという。あれって、操れるもんなんだ。意思疎通など不可能だと思っていたと、私が傑くんの術式に対してそんな感想を述べれば、傑くんは、表情の無い顔で頷いた。
 食べた呪霊だけだけどね。
 ああ、だからさっき。
 まあね。
 あれって人の味なの? それともミミズ?
 さあ、どっちも食べたことがないからな。
 そっか。
 ごめんね。
 私のほうこそ、ごめん。
 なんとも気まずい会話だった。私はしばし黙り込んで、砂利をつま先で転がしたりした。ここで突然、さようならと別れの挨拶を切り出しても良いものなのだろうか。私は悩む。傑くんに、この場を離れる気配は無い。
「どっちが、不味いんだろうね」
 気まずいまま、沈黙を割くためだけに私は疑問を口にした。
「さあ、どっちだろうね」
「ね」
「試してみてよ」
 え、と驚いて口を半開きにした私に、すっと中指を傑くんは差し出すと、
「ほら」
 と言って強引に私の唇を割って、口内に指をねじ込んできた。
「食べて」
 真っ直ぐに見つめる目に、私が一本後退ろうとすると、傑くんは私の肩をとんと押した。ただ触れるような強さである。それなのに、私はかくんと膝を下り、砂利の上に尻餅をついた。傑くんの指はその間も口の中に差し込まれたままである。
「味わって。私の指が君の知る全ての味になるくらいに」
 傑くんは言って、私の舌に押し付けるように、指を動かした。押されると、反射的に胃の中のものが迫り上がってきそうになる。ぼろぼろと生理的な涙を流しながら、嘔気をこらえ、私は傑くんの指を舐め続けた。舌に触れる味が傑くんのものなのか、自分の唾液なのか分からなくなるまで、延々と舐め続けた。
「傑くん」
 呟くと、傑くんは頷いて、口の中から指を抜いた。濡れた指を私に見せつけながら、
「べとべとだね」と言う。
 私の唾液で濡れた指は、確かにべとべととした粘液に包まれていて、傑くんが指を開くと中指と薬指の間に細い糸がひかれた。
 それはまるで朝露に濡れた蜘蛛の巣のようで、私は生理的なものとは違う涙を、ぽろりと流した。恥ずかしい? と聞く傑くんに首を横に振った。綺麗なものを見ると私はいつも、泣きたくなるのだ。
 私はもう一度傑くんの手をとって、今度は自ら指を咥えた。先ほど舐めていたときに見つけたささくれに歯を立てて、ゆっくりと慎重に皮を剥いだ。唇を離せば指先に血が滲んでいた。私はそのまま口に残るささくれを飲みこんだ。
「食べちゃった」
「味は」
 傑くんは真面目な声で聞いた。それに私も真面目に答える。
「血の味」
 血。そのまんまの、味がする。調理をせずに食べるって、こんな感じなのね。きっと。
 それは美味しく無さそうだね。傑くんは言うと、指先を濡らしたまま私の手を握った。そのまま手を引いて傑くんは歩き出す。不味いわけじゃ、無いよ。慰めるように私は傑くんの背中に向けて話しかけた。引きづられるように歩いて、自分の家を通り越して、「夏油」と表札の飾られた家の二階にあるベットに放り投げられたあとで、ようやく傑くんと目があった。全てが終わったあとには、シーツの上にぽつぽつと私は血を垂らしていた。

 あのときは、お腹が痛かったけど、今日は腰とお尻が痛かった。床なんかで行為に及んだせいだろう。身体はどこもべとべととしていて、お腹を見れば傑くんが噛んだ歯の痕が残っていた。この他にも背中と腕、脚を噛まれた記憶があった。もしかしたらそこにも痕が残っているかもしれない。
 対する傑くんの身体には、爪痕ひとつ残っていなかった。抵抗を許さない、一方的な行為であったから、仕方ない。なんだかそれは、捕食という言葉がしっくりとくるように思われた。傑くんは、情欲や情愛といったものから、この行いを、隔てたがっているように思われた。
「これからどうする」
 裸のまま、私は聞いた。
「また、する?」
「いや、やめておく」
 傑くんは小さく首を横に振ってから、黒のスラックスをとり、服を身につけていく。
「君のは、私の口には合わなかった」
「味、したの」
 と聞くと、傑くんは頷き、私の身体を見下ろしてきた。目を細めて、私の頭をくしゃりと撫でる。
 また来てくれる? と重ねた質問に傑くんは、こない。と言い切った。君は美味しすぎるから、と傑は重ねる。
「美味しいのに、ダメなの」
「美味しいと、夢中になる」
 夢中になってくれても構わないのに。
 その言葉は言わないで、私は傑くんにそっと近づき、太い指に歯を立てた。
 日が昇り初めていた。巣を離れ、生活を始めた鳥たちの囀りが、部屋に届く。丁寧に私は傑くんの指を舐めた。この味以外の全てを忘れてしまうくらいに、じっくりと味わった。
「もう行くよ、世話になったね」
 指を引き抜いた傑くんは、私の肩にパジャマのシャツをそっと掛けながら、囁いた。
 どこに行くの。
 楽園をつくりに。
 傑くんが私のパジャマのボタンを閉めながら、答える。
 楽園?
 強者が強者のために、生きることが出来る世界。
 素敵。うっとりと私は口にした。
 遠い、どこかの国の、サバンナを思い浮かべていた。ライオンは、自らとその家族のために生を必死に謳歌していた。強者は強者のために、弱者は弱者のために、彼らは常に懸命で美しい。
 君は。傑くんがどこか青ざめた顔で言った。
 なに。
 いや。少し驚いたんだ。君は優しい人間だと思っていたから。
 もしかしたら傑くんは、引き止めて欲しいのだろうか。ならば、無理などせずに私だけを食べて生きていけばいいのに。と私は思った。しかし、それでも傑くんは、もう行くしか無いのだろう。
 頑張ってね。楽園、できたら招待してね。努めて、明るく優しい声で言った。きっと本当に明るくて優しい人ならば、傑くんをここで引き止めようとするのだろう。しかし言えなかった。我ながら愚かしい。けれどここは遠いサバンナではなく、人の世で、そして私はライオンではなく、べとべととしたどうしようもない女なのであった。

 傑くんは、少女たちを連れて家を出た。
 まだ空は薄暗かった。傑くんの渇いた手を少女たちは、それぞれに握っていた。
 きっと、あの少女たちは、傑くんに恋をする。そんな予感が湧いていた。そしてきっと、傑くんは、あの少女たちのどちらもを抱くことは無いのだろう。傑くんはきっと、べとべととした女を不味いと思いながら、美味いと抱いて生きていくのだ。それが如何に不要な罰だとも気付かずに。
 明け方のニュースは、昨日とさして変化が無かった。殺人事件の犯人は未だみつからず、今日もどこかで人が無常に死んでいく。テレビは一度訪れたことのある、懐かしい家の外観を映している。亡くなった夫婦の一人息子は、現在行方不明であるとテロップが流れた。
 私はやっぱり哀しくなって、傑くんがつくる楽園を想像した。自然と涙が溢れてくる。楽園はとても美しかった。美しくて。高潔で。血と腐敗の匂いで充満している。それでも傑くんは行くしかないのだろう。己の家族を守るために、狩りを続けるしかないのだろう。
 立ち上がり、祖父の仏壇にある引き出しを、私は開けた。引き出しの中には、古い名刺が一枚、伯父の写真とともに仕舞われている。空が白み、明るさを増していった。庭では朝露に濡れた蜘蛛の巣が光っている。

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