Jujutsu kaisen | ナノ

夜更けの寝台


悲恋


 ナマエからデートに誘われた。
 デートといっても、何処かへ出かけるわけじゃなく、所謂「おうちデート」というやつだ。
「だって、そっちの方が、ゆっくり出来るしファンの子にも見つからないでしょ」とナマエは言う。
「べつに気使わなくてもいいのに」俺が言うと、ナマエは小さく首を横に振った。困ったような、でも、意志をもった目だった。たぶん何を言っても引かないんだろうな、と俺は内心でため息をつく。
「ダメだよ、大事な時期なんだから」
 大事な時期ねぇ。俺は思う。それっていったい、いつから、いつまで続く話なんだろう。
 ショーレースのファイナリストに残れば、祓ったれ本舗をとりまく世界はガラリと色を変えた。
 満員御礼の劇場でトリを務めるようになったり、連日連夜バラエティのゲスト出演が決まったり、深夜ラジオでコンビ名のついた番組のレギュラーがもらえたり、スタッフが開設したSNSのフォロワー数がなんかよくわからないけど日本人でベスト何位とかになったりした。
 人気と知名度、それに相応しいだけの仕事量。「祓ったれ本舗」は、今まさに、テレビスターへの道を駆け登りはじめていた。
 それに対して、「俺」は、いまだにテレビスターへのスタート地点にすら立てていないんだと思う。たぶん。仕事が増えるのは嬉しい。ネタが評価されたのも嬉しい。そういう評価は素直に受けとめている。だけど、それが理由でナマエとの行動に制限が出来るということに、俺はいまだ納得がいっていなかった。マスコミやファンに、どうして俺が気を配らないといけないのか、誰に説明されても理由はわかっても理解が出来なかった。昔から、人目を引くのは得意でも、人目を気にすることは不得意なのだ。
「べつに俺らが合わせる必要なくねえ? 隠れたり、怖がるから、あいつらその分つけあがるんだよ」
 俺の意見すると、ナマエは微妙な顔つきになる。そのまま、見つめ合う。俺の方が、居た堪れなくなる。責められているような、そんな気になってくる。
 祓ったれ本舗に人気が出てきてから、ナマエはよく、そんな表情を浮かべた。好ましい変化では無かった。
 ナマエの笑顔が好きだ。だから、いつだって笑っていてほしい。でも、そんなクサイことは言えないから、代わりに、
「へんな顔」と俺はナマエの頬を摘んでみる。

 俺たちは、「俺の部屋」のリビングにあるソファに座っている。
 ナマエの部屋を俺が出たのは、もう半年ほど前のことだ。ナマエの方から、生活リズムが違くて落ち着かないという理由で、同棲の解消を求められた。
 なら、部屋数の多いところに引っ越せばいいと俺は言った。八畳のワンルームよりも、もっと広くて設備の整ったところにナマエを住ませてやることなんて、今の俺には至極簡単なことだったからだ。
 引っ越しの提案をすれば、ナマエは、首を横に振った。
「五条くんが考えてるような部屋の家賃、私、半額だって払っていけないもの」
「べつに、ナマエから金とろうなんて思ってねぇよ」
「私が嫌なんだよ」ナマエは言って、顔をそむけた。それ以上何も言えなくて、その話は有耶無耶になった。それからしばらくして、部屋までついてくるようなファンや記者が湧いて、俺は「ナマエのため」と理由をつけて、部屋を出た。大丈夫、また一緒に暮らせるときがくる。そう自分に言い聞かせながら。

 ナマエはぼんやりと窓の外を眺めていた。追いかけるように、俺も外を眺めれば東京タワーがオレンジ色に煌々と輝いているのが見えた。
 ナマエ、と俺は呼びかけた。
 なあに、とナマエが振り向く。
 続く言葉は浮かばなかった。頭と口を回すのが仕事なくせに、いま胸に抱く愛おしさを、なんと伝えれば正確に届くのか、わからなかった。仕方がないから、そのままナマエをじっと見ていた。ナマエも俺を見つめ返した。
「みて。これ」
 場を切り替えるように、明るい声で、ナマエがスマートフォンを取り出した。画面を覗けば、細いチェーンのネックレスが映っていた。
「欲しいの?」
「うん。今、任されてる仕事が上手くいったらご褒美に買おうと思って。このために頑張ってるの」
 ナマエが身体を俺にもたれかけさせた。触れた肌の温もりと重みに、息を吐く。身体から余計な力が抜けていく。ここが自分が最も安らげる場所なのだとはっきりと自覚した。お仕事、頑張ろうね。と言う穏やかな声に頷いて、俺はナマエの前髪に口付けた。

 おうちデートは、土曜日の、昼過ぎから俺の部屋で行うこととなった。
 ナマエをマンション一階のエントランスまで迎えに行けば、ナマエはふわふわとしたワンピースを着て、日傘とボストンバックを持ち、落ち着かなそうに隅の方に立っていた。
「豪華すぎて、何回来ても、緊張する」
「言うほどじゃねぇだろ」俺は笑って、ナマエのボストンバックを持った。空いたナマエの手を取れば、指先を絡めるようにして、握り返される。
「一緒に観ようと思って、DVD持ってきたの」ナマエが俺を見上げて、微笑んだ。

 気がつくと、テレビには、報道番組が映っていた。
 俺はソファーで横になって寝ていたらしい。目と同じ高さにガラスでできたローテーブルがあり、グラスとグラスの間から、お盆の帰省ラッシュを報じるニュースが流れている。うわ、と俺は起き上がった。
「あ、起きた?」ナマエがのんびりと言った。部屋は薄暗かった。ナマエの背景に見える東京タワーは、既にオレンジ色に光を放っていた。
「寝てた?」俺は頭を掻いた。
「ぐっすり」ナマエは少し笑った。
「だいぶ、お疲れだったんじゃない?」
 テレビをもう一度見た。渋滞した首都高速道路の映像からは、映画の気配は一切感じられない。いつ寝た? 思い返すが、考えれば考えるほど、自分の記憶が随分と前から無いことを思い知らされるばかりだった。
「ごめん」
「いいよ、ゆっくりして欲しくて、家にしたんだから」
 ナマエは小さく首を横にふってから、言った。あーやっちまった。と言いながら、俺はまたソファーに横になった。頭をナマエの膝の上に置けば、細い指が髪を梳いた。心地よくてまた瞼が閉じそうになる。
「ナマエ、やっぱ一緒に住まない?」寝返りをうち、ナマエを真下から見上げて俺は言った。
「え」
「ここなら、ナマエの部屋もつくれるし、セキュリティーだって、前とは違うから変なやつが入ってくることないだろうし、悪くないと思うんだけど」
 俺は言い、手を伸ばしてナマエの頬を撫でた。くすぐったそうにナマエが首を竦める。小動物みたいだ。守ってあげたいと誰かを思うのは、初めてだった。
「ナマエと一緒にいたい」
 ナマエは黙ったまま、俺の手を拒むことなく、頬を擦り寄らせてきた。闇が部屋の中に侵食していく。東京タワーの灯りがいっそう、煌々としてみえる。
「五条くんの手、あったかい」
 寝起きだから、だろ。俺は答えた。ナマエは頬を少し持ち上げ、頬に当てた俺の手の甲を、すりと撫でた。

「それは、悟、やってしまったね」
「あ? なにがだよ」
「せっかくのデートで寝るって。彼女としてはいい気はしないだろ」
 傑に楽屋で雑談がてら、昨日の一件を報告すれば、そう咎められた。
「何も言わないからって、怒っていないとは限らないよ。ちゃんと機嫌をとっておいた方がいい」
 あー。と俺は過去の女を思い返す。でも、過去は過去だ。ナマエはそんなことで、いちいち、怒るような女じゃない。
「そうだとしても、彼女と長く続けていきたいのなら、記念日のデートで熟睡したのを、そんなことで済まさないほうがいい」
 は、と俺は小さく叫んだ。俺の声に、驚いたのか、傑が眉を上げて真っ直ぐに俺を見る。
「は、って、もしかして忘れてたのか」
 むしろ何で、おまえ覚えてんだよ。俺は机に顔を伏せた。あれだけ、私のせいでナマエが泣いたと責められたら忘れたくても忘れられないさ。傑が笑う。
 スマートフォンが一瞬、震える。ナマエの名前が画面に浮かんだ。柔らかな言葉使いが、途端に本音を隠しているよそよそしい文章に見えてくる。
 俺からしたら、記念日は七月なんだよ。俺が呟くと、傑は少し黙って、
「無かったことにするくらいなら、話し合うべきだな」と答えた。
 怒ってるかな、ナマエ。慰めを期待して傑に言えば、傑は深いため息をついた。
「女の機嫌なんて、山の天気より変わりやすいものを、よもうなんて不可能だ」
 それって実体験?
「落雷より晴天が怖いときもあるよ」傑は言うと、難しい顔をして目頭を親指で強く拭った。

 ナマエの家に行くのは久しぶりだった。思えば、ここのところ、俺の都合にばかり合わせて会うのはいつも俺の部屋か、個室の飯屋だった。数ヶ月ぶりに入る八畳のワンルームは随分と狭く感じた。
「どうしたの、突然」ナマエがお茶を出しながら聞くので、
「こないだのお詫び」と俺は素直に答えた。
「お詫び?」
 首を傾げるナマエに、ほらやっぱり、傑の言うような女じゃない。と思いながら、俺は少し安心する。
「記念日なのに、何も出来なかったから」
「覚えててくれたんだ」
 ナマエの声が、あからさまに弾んだ。
「だからってわけじゃないけど、これからも、よろしくってことで」
 俺は買ってきたばかりの、丁寧にリボンのかけられた、ジュエリーケースをナマエに渡す。
 え、と俺を見上げるナマエに、視線でケースを開けるよう促した。中には華奢なチェーンのネックレスが収まっている。
「これ」
「欲しいって、言ってただろ」
「……うん。でも」
「いいから、貰っておいて」
 ネックレスを摘んで、ナマエの前で、チェーンを外す。着けてあげる。と言えば、ナマエは戸惑いつつも後ろを向いた。晒された首筋にネックレスをかける。ナマエの青白い首筋にシルバーのチェーンがよく映えていた。
「似合うじゃん」
 晒された首筋に顔を寄せる。ナマエが首をすくめる。そのまま薄い肩を抱きしめれば、腕の中でナマエが身動いだ。ナマエの顎を掴み、キスをしようと顔を傾ければ、邪魔をするように電話の音が部屋に響いた。

「五条さん、実は」と切り出した伊地知の声は硬く、俺にとって不都合なことが起きたのは明白だった。
「なに?」
「週刊誌に撮られました」
「あ? 俺?」
「恐らく、この間のお休みの日に」
 なんだよ、お俺はため息をついた。ナマエの首筋に顔を埋めなおす。戸惑ったように振り向こうとするナマエに、なんでもない、と口の動きだけで伝える。
「それ彼女」
「そんな堂々と言われましても」伊地知が弱々しく言う。
「他人に文句言われるような恋愛してねぇよ」吐き捨てるように、でも、真面目に言って、俺は伊地知の返事を待たずに電話を切った。
「どうかしたの」ナマエが聞いた。
「撮られたって」端的に俺は答える。
「え」
「言っとくけど、ナマエだから」
 はっきりと、告げた。また、ナマエを無意味に泣かせるようなことはしたくなかった。なのに、ナマエの顔を曇ったままだった。戸惑ったように視線を東京タワーに逸らしてしまう。ナマエ、と俺は呼んだが、ナマエは、ちらりとこちらを見るだけで何も答えなかった。背後から何かが迫るような、嫌なざわめきがあった。
「ねえ。私、やっぱりこれ、受け取れない」ナマエはネックレスに触れながら言った。
「なんで。本当に、ナマエだって」慌てて俺は答える。
「うん。それは、信じてるけど」
「ならいいじゃん、だろ?」
「違うの。ごめん、受け取れない」
 うつむきがちに、ナマエが首を横に振った。未だ、目を合わせようとしないナマエの顔を、覗きこもうすれば、ナマエは素早い瞬きを繰り返した。
「気に入らなかったんなら、べつのやつ、買ってやろうか?」俺はそう言って、宥めるように、ナマエの手を握った。いつも、そうすれば、ナマエは顔を綻ばせてきたから。
「違うの」
 なのに、ナマエは苦しそうに顔を歪めた。
「じゃあ、なんなんだよ」
 思ったよりも大きな声がでた。
 ナマエの肩が、はねる。
 ごめん。謝ると、ナマエは首を横に振った。
「欲しいものなんて無いよ」
 泣きそうに、ナマエは答えた。
 言っている意味が、俺には全くわからなかった。ネックレスが欲しい。だから、仕事を頑張っている。ナマエは確かに俺に言っていた。だから、俺が買ってやれば、ナマエはネックレスを手に入れられて喜ぶと思っていた。
「お金で、五条くんと繋がってるみたい」
 ナマエは言った。こんな高いもの貰えないし、こんなに広い部屋も、私は欲しくなんてない。
「なら安物なら受け取ってくれたわけ。部屋が狭けりゃ一緒に住んだの?」
 声が震えた。怒りなのか、悲しみなのか、自分がどんな感情を抱いているかすら不透明であった。
「身の丈ってあるんだよ」
 そんなの。俺にどうしろって言うんだよ。
「他の人を探して。私なんかより、もっと五条くんの隣が似合う人は、いっぱいいるはずだよ」
「俺にはナマエしかいない」
「そうかな。私の隣は、五条くんには狭すぎるんじゃないのかな」


 ナマエが持ってきたDVDは、まだ俺の部屋のプレーヤーに入ったままだ。ナマエがこないだ、忘れていったのである。
 あのあと、ナマエの部屋を出て、家に戻れば一階のエントランスで
「おかえりなさいませ」とコンシェルジュが頭を下げた。
 おかえりなさい。という挨拶をきいて、俺は目頭がかっと熱くなった。
 勝手に終わらせたナマエの身勝手さに苛立ちを覚えて。それから、もう自分の帰るべき場所があの八畳のワンルームでないことを思い知らされて。
 リモコンを操作して、DVDを再生する。寝室から、ナマエの部屋から持ちだした薄い布団にソファーの上で包まった。セットされていた映画は、映像こそは綺麗なものの、とくに大きな出来事の起きない、たんたんとした他人の日常を追うような、退屈なものだった。北欧の家具に溢れたキッチンで、色鮮やかな服を着た中年の女がお菓子を作り始める。完成したのは苺のタルトだった。艶のある、甘そうな苺がふんだんにタルト生地の上に飾られている。
 ネックレスを、ナマエは俺に返した。勝手に捨ててくれればいいのに、返せるものがないからと取り外していったのだ。また金かよ。と思えば、そんな俺の思考が伝わったのか、ナマエは申し訳なさそうに眉を下げた。
「これが似合うっていう自信を、私は自分でつけたかったの」
 もう十分、似合ってたよ。一人言をネックレスと一緒にガラステーブルに投げ捨てる。
 東京タワーの電気が、消える。夜はますます、闇を濃くしていく。暗がりの中で見るナマエの寝顔が、頭の中で蘇る。
 もう一度、誰かとベッドを共有する日が来るのだろうか。
 布団に包まりながら、俺は思ってみたりする。
 来なければいいと、思った。ずっとナマエのことを引きずり続けていたい、そう思っていた。温もりのないソファーに横になる。目を瞑り、眠る体制を整える。
 明日になれば、全て笑い話に変わるだろう。ようやく俺はテレビスターのスタートラインに立つだろう。どこまでも登り詰めれば、どこにいてもナマエは俺を見つけるだろう。
 そこまで考えてバカらしくなった。
 ナマエに笑っていて欲しい。
 それ以外の願いなんて、大したことじゃないと思えた。
 馬鹿だなと、硝子や傑は呆れるだろうか。それでもやっぱり、見返すとか、憎しむとか、そんなもののために頑張るよりも、そっちの方が絶対に楽しいから。
 頑張ってね。
 ナマエの声が聞こえた気がした。


×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -