Jujutsu kaisen | ナノ

夜明けの寝台

フラペチーノを飲む私の前で、五条くんは、サービスの水をひといきに飲み干した。汗が膜のように身体を覆うような、じめじめとした暑い日だった。気が沈んだのは気圧のせいかもしれない。
 お願い、今回ピンチでさ、一枚だけでいいからチケット買ってくんね?
 空のカップをテーブルに置いて、五条くんが手を合わせた。
 それさ、前回も言ってなかったっけ。私は頬を引き攣らせる。
 五条くんが私のスマートフォンを鳴らすとき、最近はいつも同じ話題であった。ちょっと頼みたいことがあるんだけど。ナマエにしか頼めないんだよ。とりあえず、話だけでもさ。
 そう、なかば一方的に告げられて電話は切られる。
「それで、いつなの」
 とりあえず聞いてみた。
「土曜の夜」
 緑色の太いストローを咥えながら、私はスマートフォンをいじり、カレンダーを確認する。元より、予定などはいっていない。
「んー、まあ。土曜日なら平気だけど」
 それでも、勿体ぶって答えたのは少しの見栄だ。
「マジ? お願い、このとーり」
 パチンと乾いた音を立てて、五条くんは拝むように手を合わせた。普段は見えない彼のつむじが、真っ直ぐに私に向けられる。右巻き。
「仕方ないなあ。硝子誘うから、二枚ちょうだい」
「あー! マジでありがとう! ナマエ大好き」
 もう、調子いいんだから。私は答え、フラペチーノを置いた。それから、お財布を取り出して、五千円札と千円札を組み合わせ、テーブルの上を滑らせる。
「毎度、ご贔屓にどーも」
 楽しみにしてる。うん、期待してて。五条くんはお札を財布にしまうと、代わりにチケットを二枚取り出した。「呪力舎お笑いライブ」「土曜日」「19時」「出演者、祓ったれ本舗」チケットに書かれた文字を、私はぼんやりと目で追っていく。視界の端で、渋谷の劇場、わかりにくいけど平気そう? と言いながら、五条くんが私のフラペチーノを勝手に飲み始めたのが見えた。

 五条くんとは、大学で出会った。
 当時二人とも二十歳の、大学三年生だった。
 私は理工学部の化学科で、ゼミに入ったばかりで、まだ学科の授業も残っていて、ラボでの研究と授業の課題の両立に追われる生活を送っていた。
 五条くんは数学科の生徒だった。ゼミの課題なのか、よく紙に印刷された論文を持っていて、混み合った食堂で偶然隣り合ったときに、五条くんと私の資料が混ざり合ったのがきっかけだった。読んだところで、さっぱりと理解できないアブストが課題の中から出てきて、首を捻らせたのを覚えている。
「化学って、何が楽しいの」
 五条くんは、当時、私によく言ってきた。
「楽しいかどうかで学科選んだの、五条くんは」
「5年後の人生なんて、4年後からだってどうとでもなるけど、今日を楽しめるかは、今日の自分にかかってるからね」
 そう言って五条くんは、ペンを親指の上で回した。しなやかにみえて、節のある指の上をぐるんと勢いよくペンが回る。
 四年生になり、秋になる頃には、五条くんと硝子と三人で会うことが増えていた。
 どういう流れで、そうなったのかは、あまり覚えていない。五条くんと硝子が同じ高校の出身で、たぶんその辺りの流れからだったと思う。
 知識の豊富な二人との時間は、ほかの友達とは違った楽しさがあった。
 特に五条くんとのお喋りは、話題が豊富で、私とは全く違った視点でモノをみていて、新鮮で、刺激的で、面白かった。だから、同じ学科の友達よりも、五条くんとの時間を私が優先するようになったのは、仕方のないことだったように思う。
 五条くんが、お笑い芸人を目指すと知ったのは、論文発表も終わり、卒業まで一か月となった頃だ。誰もが知る大手企業からの内定を、五条くんは既に断った後だった。
「がんばってね」
 そんなことを、私は言った。
「やめておけとか、言わないの」
 五条くんは、珍しくどこか疲れた様子で、聞いた。
「うん」
 びっくりはしたけれど、私は彼の選択をすんなりと受け止めていた。お笑い芸人になりたい、なんてことは、一度も聞いたことがなかった。だけど。
「楽しいかどうかより、安定をとったなんて言われたほうがびっくりする」
 五条くんがぽかんとした。それから、にっこりと笑う。
「ありがとう」
 五条くんが、鼻の下を指で擦った。冬の外気にあたった節のたつ指の先は、赤くなっていた。ヒューと校舎と校舎の間をビル風が強く通り抜けてく。
「ありがとうなんて、そんな」
柔らかな微笑みが、こそばゆくて、私は首をすくめた。まるでタンポポの綿毛でくすぐられたような、ふわふわとした心持ちだった。凍てついた空気の中で、気持ちばかりが、春の陽気に照らされたようにあたたかい。
 気づいたら好きになっていた。
 指先の温度すら、知らないまま恋に落ちていた。
 冬が終わると同時に、私は大学を卒業した。そのまま、新しい春を恋心ともども迎えたかったけれど、出来なかった。
 咲くことも枯れることもできないまま、私の恋は、心の中に根を張り続けている。

「そのままヒモにでもすれば」
 土曜日、硝子は私にそんなことを言った。
「ヒモって」
「そのうち、生活費工面しだすんじゃない」
 意外とステレオタイプのダメな女の例えを出してくるな、と私は苦笑した。そんなわけないじゃない。私はすぐに否定する。けれど硝子は、
「合計したら、既に一か月の生活費分くらい渡してんじゃないの」
 と、ばっさりと言った。
「そ、それは、お金あげてるんじゃなくて、チケット買ってるわけだから」
「あまりチケットを、ね」
「私がなんとかしてあげないと、とかは、思ってないよ」
 ぼそぼそと私は言う。
「ならいいけど」
 硝子が私の背中をポンと叩いた。五条のためじゃなく、自分のために金使いなよ。うん、気をつけます。私はそれに素直に頷く。
「でもね、私チケット代払って損したな、って思ったことは一回もないよ」
 しっかりと私は言った。五条くんたちの漫才すごい面白いもん。友達でなくても、お金払って見たいと思ったと思う。
 本音だった。
「でも」と私は続ける。
 でも、話せる機会が、それだけになっちゃったのが、ちょっと寂しい。
「それさ、本人に言ってやんなよ」
 硝子はため息のように言った。もうちょっと、上手くやればこんな拗らせなくて済んだだろうに。上手くって、なに。私は聞いたが、硝子はぜんぜん教えてくれなかった。

「今から、家、行っていい」
 五条くんが私のスマートフォンを鳴らしたのは、梅雨明け宣言が出た日の夜のことだ。
 え? と、私は戸惑った。
 時計は既に二十三時を回っていた。好きな男とはいえ、恋人でもない男を招きいれるには、私の倫理観では難しい時間であった。
「ごめん、さすがに夜遅いし」
「酒飲まされて、死にそう」
 私の断りを遮るように、五条くんが悲鳴を上げた。
 ああ、もう。私は思った。五条くんに対してなのか、酒を飲ませた誰かに対してなのか、はたまた、結局この答えを口にしてしまう自分になのかはわからないけれど、ああ、もう。と一度、歯を食いしばって思ってから、叫ぶように口を開いた。
「わかったから、今どこ!」

 五条くんは、下戸だ。炭酸ジュースみたいなアルコール飲料ですら、ひと口飲むだけで肌を真っ赤に染めてしまう。一缶飲もうものならリトマス試験紙みたいに、肌を赤から青にかえて吐き気に震えることとなる。
 数分後、私の部屋の玄関に座り込んだ五条くんの肌は火照ったように真っ赤だった。
「なんで飲むかな」
 ごめん。五条くんは素直に謝った。
「ほんと、危ないよ。お仕事なのかもしれないけどさ」
 うん、ごめん。五条くんはまた頭を下げた。
「タクシーから電話くれたから、私も運転手さんに住所教えられたけど、倒れてからじゃ遅いんだよ」
 うん。うん。うん。五条くんは三度頷いてから、ずるずると床にゆっくりと倒れ伏せた。
 そのまま、玄関でぐうぐうと寝息を立て始める。衣装のまま飲みに出たのか、舞台でみた黒のスーツを着て、上半身を廊下に、下半身を玄関に投げ打って狭い廊下を封鎖している。こんなとこで寝ないでよ。私は五条くんを揺すり起こした。うーん。と五条くんがうめく。寝ぼけ眼な五条くんがもう一度寝入る前に、私は慌てて部屋に通し、水を渡した。手に力が入らないのか五条くんが渡した水をスーツに零す。
「ああ、もう」
 私は声に出して、脱衣所にタオルをとりに走った。
 戻ってくれば、スーツを脱ごうとしたのだろう、上半身だけ裸になった五条くんが私のベッドの上で力尽きて眠っていた。
 三度目の「ああ、もう」は、声にすら出ず、私はため息とともに天井を仰いだ。

「ほんっと、悪ぃ。なんも覚えてない」
 翌日。目が覚めて、最初に聞いたのは五条くんの謝罪だった。
「ばか」
 私は寝起きで開きの悪い眼を擦りながら言った。
「お詫びは必ず」
 台詞ががった調子で五条くんが深々と頭を下げた。右巻きのつむじが、こちらに向けられる。
「もういいよ、無事なら」私は身体を起こした。
 意識がはっきりとしてくれば、自分がベッドで寝ていたことに気づいた。来客などほぼない我が家には、客用の布団の用意など無く、私はラグの上でタオルケットに包まり眠りについたはずだった。
「ごめんね、ベッド、運んでくれた?」
 そう私が首を傾げると、五条くんは首を横に振って、俺こそ、ごめん。ともう一度謝った。
 その日の夜、五条くんは、昨日よりも早い時間に再び私の部屋のインターフォンを鳴らした。
「これ、お詫び」
 五条くんに渡されたのは、駅ビルでよく見るケーキ屋さんの紙袋だった。
「え、いいのに」
「いいから、貰っといて。俺と、あと傑から」
「傑って、夏油傑?」
 なんでフルネーム。つっこみながら、五条くんは説明した。俺が他の奴に酒飲まされて、やばいってなったときに、ナマエに電話かけさせてタクシー突っ込んだのが傑らしくて、おしつけてすみませんでしたって。
「それ、五条くんが夏油さんにお礼すべきでなんじゃ」私は袋の中を覗きながら言った。
「いいんだよ、連帯責任で」五条くんはむっつりと答えた。
 紙袋の中には正方形の箱が入っていた。もしかして、ホール? と聞けば、そうだと頷かれる。今日中にお召し上がりください。の案内を無視するとして、一人でホールケーキは無理があるだろう。
「一緒に食べようよ」
 私は言って、五条くんを部屋に通した。ローテーブルの上で箱を開ければ、たくさんのフルーツが乗ったタルトだった。うわあ。と歓声をあげる私の隣で、五条くんが罰の悪そうに頸を掻いた。
「苺のタルトが無くてさ」
 いいよ、ぜんぜん。すごい嬉しい。私は言う。本当に嬉しかった。苺のタルトが一番好き。ということを五条くんが知っていてくれたことも含めて、私はとても嬉しかった。
「知ってたって、手に入れなきゃ意味なくねぇ?」
「知ってるって、一番、嬉しくない?」
 そういうもんかねぇ。と五条くんは鼻の下を擦った。それからすぐに、すんとした顔になる。
「ケーキ、食おうぜ」五条くんが立ち上がって、台所からフォークを二つ持ってきた。切らなくていいよな。そう言って、フルーツタルトに直接フォークを刺す。
「うわー、贅沢! えっ、幸せ!」
 私は小さく叫んだ。
「安い幸せだな」
「ええ? ホールケーキに直接フォーク刺すなんて、夢じゃん」
「そういうもんかねぇ」
 五条くんは、また言った。
「売れたらさ、めちゃくちゃ美味い苺食わせてやるよ。なんていうの、あれ。木箱に入ってるみたいなやつ」
「どうしたの、突然」
「いいから」
 それから五条くんは黙々とタルトを食べた。
 四分の一ほど食べたところで、お腹がいっぱいになった。あとあげる、とフォークをローテーブルに置けば、五条くんも、「俺ももういいや」
 と言って、
「明日の朝、一緒に食おう」
 とあまりに自然に誘うので、私はうっかり、頷いてしまっていた。

 それで、そのまま、五条くんは家にいる。
「なってんじゃん、ヒモ」
 硝子が呆れた。
 五条くんと八畳のワンルームを共有しだしてから、一か月が経っていた。冷蔵庫も洗濯機も、お風呂やトイレも共有した私たちは、最近、ベッドも共有し始めた。セミダブルのベッドで、壁側に私が胎児のように丸まり、残ったスペースを五条くんが使う。それが、私たちの定位置になっていた。
 硝子はヒモだと言ったが、五条くんは、私の部屋に住みついてはいるものの、生活費の工面までを私に担わせているわけではなかった。食費は別々だし、先週には「これ使って」とまとまったお金を渡してきたりもした。
「じゃ、同棲?」
 硝子は首を傾げた。
 同棲、という響きには、むず痒いものがあった。そもそも五条くんと私は恋人関係にあるわけではなかった。それに類似するような男女関係でも、なかった。
 どれだけ側にいても、五条くんは私に触れることはなかった。
 まるで、見えないバリアでも張っているのではないかと疑いたくなるくらいに。

「お盆は、実家帰るから」
 私は五条くんの背中に声をかけた。
 土曜日の真夜中だった。劇場から帰宅するなりずっと、五条くんはローテーブルでノートと睨めっこしていた。
「寝ないの」と聞くと、
「今、面白いとこだから」と、五条くんが答えた。
 相方の夏油さんが、新しいネタを作ってきたそうだ。
「私もみたいな」と言ってみると、五条くんは、
「完成したら一番いい席で見せてやるよ」と笑った。
「祓ったれ本舗」のライブは、会を増すごとに、空席が埋まるようになっていた。席の空き状況は、他の主演者にもよるけれど、どの回であっても、ライブの一番の目玉が彼らになっていることは一目瞭然だった。そういう、人気の違いみたいなものを、客というのは結構あけすけに歓声にのせたりしてくるものなのだ。
 私の実家は、アパートから在来線で二時間程のところにある。お盆になると、姉とその家族も帰ってきて、賑やかに過ごすのが決まりだった。
「ナマエも、いい人がいるなら、連れてきていいんだよ」
 父がほろ酔い顔で言った。視線は私ではなく、居間ではしゃぐ孫たちに向けられていた。
「いないし」ぶっきらぼうに答えると、父は、なんだか嬉しそうに「そっか」とビールを飲んだ。
 三日間、実家で過ごした。最後の日の夕方になると、母はいろいろと食べ物やら日用品やらを持たせてくれた。
「こんなにいらないんだけど」
 私が言うと、母は小さく言った。
「彼氏にあげればいいじゃない」
 いないもん、彼氏。拗ねた口調で話したが、母は首を縦にはふらなかった。
 結婚しなくてもいいけど、そういう人がいるなら一度、挨拶くらいさせなさい。
 そんなんじゃないんだってば。項垂れると、母は笑った。
「一緒にいて、楽しい人を選びなさいよ」

 楽しい人。
 そう言われて、思い浮かべるのは、やっぱり五条くんだった。
「まあ、俺、天才だから」
 五条くんはふざけて言うが、私は本当にそうなんじゃないかと思っている。テレビに出てくる有名な芸人さん達にも引けを取らないくらいに、五条くん達の作り出す舞台はとても面白い。素人の、ましてや、恋愛中の贔屓目でみた私の感想になんて何の信憑性もないだろうけど。
「いろいろ、お土産貰っちゃった」大量の食品と日用品を出せば、五条くんは
「母ちゃんって感じ」とお土産のラインナップを見て笑った。
 風呂沸かしてあるよ、という五条くんの気遣いに甘えて、一番風呂をもらい、早々にベッドに横になった。入れ替わりに浴室へと向かった五条くんのシャワーの音を微かに聞きながら、家に着いた。と私は思った。
 自分の部屋に。いつもの生活に戻ってきた。そう思いながらタオルケットに包まる。
 ん? と私は身動いだ。
 ハーブ。いや、レモンだろうか。爽やかで、ほんのりと草木の青々とした香りが混じる匂いがした。いい匂いだと思った。けれど、知らない香りが自分の部屋に漂っていることに、なんだか落ち着かないものがあった。
 いつものところにいつものものが無いような、逆に何かが増えたような、ゆっくりと絵柄が変わる間違い探しをしている、そんな違和感を含んだ心持ちになる。
 違和感が頭の中を占領するのに相反して、すぐそこまで迫っていた眠気が遠のいた。
 起き上がり、ベッドにペタンと座ったまま、ワンルームの部屋を見渡す。
 聞こえてくるシャワーの音がドライヤーの音に切り替わった。
「あ」
 私は一点に釘付けになる。
 五条くんの枕に、長い黒髪が一本、抜け落ちていた。

 五条くんの髪は、白髪だ。染めているわけではなくて、産まれつきのものらしい。
 対して私の髪は、明るすぎも暗すぎもしない茶色だ。二か月前に染めたから、少し根本は黒くなってしまっているかもしれないけれど、そのほとんどはココアみたいな色に染め上げられている。
「ナマエ?」
 呼びかけられて、私は咄嗟に摘んだ黒髪を五条くんの枕に擦り付けた。近づいてくる五条くんの気配から逃れるように、私は深くうつむく。
「どうした?」
 ギジリとベッドのスプリングが軋んだ。五条くんがベッドに片膝をついて、私の表情を覗きこもうとしてくる。
「ううん」
「ううん、って、泣いてんじゃん」
「え、あ。あれ」
 私は慌てて目元を拭った。言われてはじめて、自分が涙していることに、気づいた。
「具合悪ぃ?」
 五条くんがさらにベッドを沈ませ、私の頬へとむかい手を伸ばした。ゆるく曲げた中指の節が、涙を拭っいとってくれようとする。
 反射的に、私は、五条くんの手をはらい退けた。
 そうしようと思ってしたわけじゃない。気づいたら、手が動いていた。
 行き場を無くした手を彷徨わせて、五条くんが顔を引き攣らせた。何か言わなければと思うのに、口を開けば嗚咽が漏れそうで、私は何も言えなかった。
「あー、そう」
 五条くんは寝巻きのまま、ワンルームを出て行った。

 どうしよう。と悩んだところで、何も浮かばないまま時間だけが過ぎていった。このままのベッドで眠る気にはなれなくて、知らない匂いのついたシーツとタオルケットを洗濯機に放り込んだ。ラグの上で洗濯を終えるのを待っているうちに、いつの間にか眠っていたようだった。夜中にふと目が覚めた。
「あ、起こした?」
 五条くんが私を見下ろしていた。ぼんやりと見上げていたら、普段五条くんが使っている、薄手の布団をかけてくれた。どうやらまた、ベッドに運んでもらったらしい。
「つめて」と言いながらベッドに入り込んできた五条くんは、なんの匂いもしなかった。
 私は黙って、壁側で身体を丸めた。五条くんは、一度、大きなあくびをした。ため息みたいに終わったあくびの後に、五条くんが聞いた。
「で、泣いてた理由は?」

「聞くの」
 聞き返せば、五条くんが身体ごと私の方をむいた。
「俺、叩かれてんだけど、説明無しなわけ」
「さっきは、ごめんなさい」
 どんな顔をしているのかと、表情を窺えば五条くんは拗ねたように口を尖らせていた。もっと怒っているかと思っていた。
「言えないようなことなのかよ」
 もしかしたら。という気はこの人には無いのだろうか。私の涙をみてなお、他の人間の気配に気がついていないと思っているのか。それとも、それくらい五条くんにとっては大したことでは無いのだろうか。
 私は、目を凝らして五条くんを見た。電気の消された部屋で、五条くんの白い睫毛がぼんやりと発光してるように見えた。
「言われたく無いことかもしれないよ」
 含みを持たせるように言った。
「いいから言えよ」
「五条くん、部屋に誰かよんだ」
「え、うん」
 あっさりと白状される。は? それ? 五条くんが聞き返した。
「それっていうか」
「ん」
「気づいてると思うんだけど」
 一度、私は言葉をとめた。それから、
「私、五条くんのこと、好きなのね」
 と慎重に告白した。何してるんだろう、私。途端に、やるせなくなって、そこからは一気に喋った。
 知らない匂いがしたこと。知らない頭髪が落ちていたこと。その髪の毛が長い黒髪だったこと。そこから連想した、五条くんが女の子をこの部屋に連れ込んだのではないかという疑いについて。
 全て打ち明ければ、「それ傑」と五条くんは大きく溜め息をつきながら、答えた。
「それ傑。打ち合わせすんのに、場所の都合がつかなくて、仕方ないからウチでやっただけ」
 傑。というのが何を現すのか、一瞬わからなかった。口の中で言ってみてようやく、傑が五条くんの相方である夏油傑だと理解した。
「あいつ徹夜だったから、俺が台本目通してる間、布団貸したんだけど」
 本当に。つい、そう訊きそうになった。でもその前に五条くんが
「疑ってんなら傑に電話しよっか」
 と言うので、私はこれまた反射的に、首を横に振っていた。
 五条くんはまた、はあ、とため息みたいな欠伸をした。どう反応していいのかわからないまま、私は、あいまい頷いた。五条くんは眠る体制を整えるように身動ぎして、
「じゃあ、これで解決ってことで」
 と言った。私を包む布団を引っ張って、五条くんは分け合うように自分のお腹の上に、かけた。瞼を閉し、長い睫毛を惜しげもなく晒している。居心地の悪い気持ちのまま、私は壁側で丸くなった。
「おやすみ」
 五条くんが、目を瞑ったまま呟いた。
「おやすみなさい」
「浮気……する気ないけどさ、もしまた疑うなら、そんときは、泣くくらいなら怒って」
 弱々しい声だった。私はそれに、きゅんとしてしまっていた。あまりに簡単に翻弄される自分に情け無くなった。でもそんな自分を嫌いにもなりきれなかった。もう少しだけ、この人を好きでいたいと思っていた。
「まだ、ここにいてくれるの」
 もごもごと、私は聞いた。さらりと聞きたかったけど、うまく出来なかった。
「そのための仲直りだろ」
 そう言って、五条くんは、手足を絡めつけるように私に抱きついた。ぎょっとして、私は身体を硬くする。何その反応。ムッとした声が耳に届いた。
「いや、こういうのはちょっと」私はたじろぐ。
「いつもしてんじゃん」
「え」
「なあ、まだ機嫌なおんねぇの」
 五条くんが肘を支えに、上体を起こした。私の顔を覗きこむなり、顔を近づけてくる。慌てて、顔を背ければ、顎をぐっと掴まれた。
「まだ、疑ってんの」
「いやそれどころじゃ」
「俺、ナマエと付き合ってから誰ともしてねぇよ」
「わ、わかったか……ら、って。え、私?」
「他に誰がいんだよ」
「え?」
「は?」
 目を見開いたまま、私たちは、しばし見つめ合った。見つめ合うなんていうと甘い空気を彷彿とさせるが、実際はそんなんじゃなかった。エイリアンにでも遭遇したかのように私たちはお互いを眺めた。気づけば、五条くんの目つきが睨むように鋭くなっていた。絵が変わっていく過程に、私はいつも気がつけないのだ。
「なんでもない男を、部屋にあげんの、ナマエは」
「だって五条くんだから」
「俺が、今日までおまえのこと抱いてないのは、俺だからじゃなくて、身体目当てだと思われたくなかったってだけだよ」
「お金目当て、じゃなく?」
 あ? と五条くんは怒鳴り、それから、私の上に崩れ落ちてきた。私は潰れたような声を出す。ふざけんなよ。と五条くんは萎びれた声で言った。空が白み始めていた。付き合ってるつもりだったよ、本気で。言いながら、五条くんはぎゅうと私を抱きしめた。

 朝の気配が濃くなるにつれて、私はどんどんと眠たくなってきていた。寝れば、と五条くんに言われて目を閉じれば、なんだかさっきまでの会話が全て夢のように感じられてきた。起きたら五条くんは、黒髪の女の子のところに行ってしまっているんじゃないか。タオルケットから香った、レモンと草木の匂いが大人びた香りだったことを思い出した。家族との賑やかな時間を思い出して心細くもなった。
 ぎゅっと身を守るように、私は身体を丸く縮めた。
「おやすみ」
 温かな指先が、額を撫でた。
 あったかいんだね、五条くんて。夢うつつに私は呟く。おやすみ。もう一度、五条くんの甘い声が、ぬくもりとともに与えられる。不思議と懐かしい気持ちになった。
 家に、帰ってきた。私は思って眠りについた。


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