Jujutsu kaisen | ナノ

それは誰の夢

 子供の頃の夢は、花嫁さんになることだった。
 小学生の頃、親戚のお姉さんの結婚式に行ったときのことだ。綺麗なドレスをきて、大好きな人の隣に寄り添いながら彼女は、はにかんでいた。
「おめでとう」「ありがとう」
 愛しかない世界で、彼女は誰よりも幸福だった。
 その姿への憧れは今も心の底に根強いている。

「実家に挨拶って、いついく?」
 悟が言うので、私は持っていたマグカップをテーブルに置いた。いれたココアがカップのなかで僅か揺れている。
「いつって、もう行ったじゃない」
 私はリビングのカウンターに置かれた小さなカレンダーを見ながら答えた。先週の土曜日を示す数字に赤く丸がつけられている。
「それは僕の家でしょ。ナマエの家のこと言ってんの」
「うち? いいよ、わざわざ」
「何言ってんの? やるでしょ! お嬢さんをください」
 悟はビシッと突きつけるように、人差し指を私に向けた。どこかいきいきとした表情に私はため息をつく。
「そんな、昭和でもあるまいし」
 私が言うと、悟は自分のマグカップを手で弄りながら、
「こんな時くらい、格好つけさせてよ」
 と言った。
「それに、ナマエがどんなところで育ったのかも見てみたいし」
「……何もないよ」
「いいね、楽しそうだ」
 弾むように悟は笑った。それから悟はマグカップに口をつける。真似するように私もマグカップを口に運んだ。
 ココアの茶色が、マグの中を汚している。

 小さな町に住んでいた。
 名産も名所旧跡もこれといってない場所で、三十年ほど前に近くに新しい駅ができると謳って、鉄道会社が拓いた住宅地の一軒が私の実家だ。
 ほとんどの家が同じ見た目をしていて、その家に住むほとんどの子供達が同じ学校に通っていた。スーパーも病院もみんな同じ住宅地に住む似たような人たちばかりが集う、そんな窮屈な場所だった。

 どうにもその町での暮らしは、私には息苦しくて、私はよく図書館に行った。
 本が好きだった、というわけではない。何もかもが住宅地から程近くに揃った小さな町の中で、図書館だけが唯一、バスを使う距離にあったからだ。バスで15分。車窓から見える街並みを変えてくヘれるその距離が、当時の私にはとても大きな意味を持っていた。
 図書館はそんなに大きくなかった。日当たりがあまりよくなくて、昼間に行ってもいつも照明だよりだった。陰気くさいと言う私に、本が焼けなくていいだろう、と言ったのは、よく入り口から一番離れた席に座っている男の子だった。
 彼は私と同じくその図書館の常連で、いつも妖怪の本を読んでいた。
 ときどき、彼とはおしゃべりをした。
 図書館だったから、賑やかに、というわけにはいかなかったけれど、こそこそと人に聞かれないような声で私たちは喋った。
「もし、自分が使役できるとしたら、どの妖怪がいい?」
 いつか彼はそんなことを私に聞いた。
 使役? そう。思うままに扱えるなら、何がいい? 小声で囁くように彼は言った。ゲームの話だろうか。私は首を傾げながら、軽く答えた。
「玉藻前」
「どうして?」
「なんとなく……結婚できそうだから」
 私の答えに、彼はクツクツと笑った。
「そのあとが大変そうだ」
「いいのよ。結婚式さえ出来れば」
 私は頬杖をつきながら、言う。
「なら捕まえたら、見せてあげる」
 彼はそう言って、本をぱたんと閉ざした。

 その町を出たのは、高校を卒業してすぐの春だ。
 地方の大学に進学したのだ。
 大学では友人の勢いにまけて、イベントサークルに入った。サークル活動に参加したのは二回だけだ。一度は新入生歓迎会。二度目は、夏のバーベキューだ。
 バーベキューは山に行った。川沿いにテントを張って、三十人程で行われた。昼間から始まったそれは、日が暮れ始めたのを合図に閉幕をむかえようとしていた。
「そろそろお開きにしようよ」
 女の先輩が言うので、私は友人とゴミを集めることにした。使い終えた割り箸やら紙皿などを集めていれば、こっちもいい? と男の先輩に呼ばれたので、私は「はーい」と気の抜けた返事をしながら、ゴミ袋を片手に導かれるままに森の奥へと入っていった。
 そこでは、肉の仕分けがされていたらしい。
 調理用のハサミと、肉が乗っていただろう空のパック、それから空いた酒のボトルや空き缶が乱雑に土の上に散らばっていた。
 汚いな。こんなところで捌いた肉を食べたのか。私は不快な気持ちになりつつも、ゴミを拾おうと膝を折った。はやく終わらせたかった。虫は多いし、酒臭いし、バーベキューなんて来なければよかった。
 そんなことを思いながら、地面に放り捨てられたハサミを拾った。肉を切ったのだろう、刃には薄く脂がついていた。
 私がハサミを拾っている間、先輩は呼びつけておきながら、一切ゴミを拾う気配を見せなかった。
 悪いねぇ。などと、ヘラヘラとした声をしゃがむ私の背中に投げてくる。
 おまえも拾えよ、と私は先輩の態度に内心イライラとした。クソ野郎。腹の中で舌打ちをする。もう二度とこんなサークルに顔を出すもんか。そう心に決めたとき、どんと勢いよく背中を押された。
 土に手をつき、四つん這いになる私の背に、何かがのしかかってきた。何かが男で、それが先の先輩であることは、一瞬遅れて理解した。ひっ、と息を詰める私の胸を先輩の両手が服の上から弄ってくる。
 ぶわり、と肌が嫌悪であわたった気がした。
 それでも先輩のしようとしていることが、実際のところ、私はよくわかっていなかった。経験が無いわけでは無かったけれど、私にとってその行いは、こんな汚いところで、合意も、愛の言葉もなく始められるようなものでは無かったからだ。
 だから、私の脳は先輩の行いを、セックスではなく暴力と判断したのだろう。先輩の手が私の身体を仰向けに転がしたとき、身体は咄嗟に身を守ろうと手を伸ばしていた。
 危ねっ、と叫ぶ先輩の悲鳴が耳にキンと響いた。直後、ぶ厚い何かを刺した感触がした。その後に手が濡れる感触が続いた。見ると、赤黒い液体がハサミをつたって、私の手を濡らしていた。
 突き飛ばせば、先輩が地面に倒れた。
 瞳孔が開いた目で、何か叫んでいる。助けて。はっきりと聴こえているのに、私の頭は、それがどんな意味を持つのかなぜだか理解していない。まるで、異国の言葉を聞いているようだった。

 はっとしたときには、先輩は静かになっていた。
 私の手を赤く染めていたものは茶色味をおびていて、皮膚に染み込むように乾き始めていた。
 私は土の上でへたり込みながら、ガチガチと歯を鳴らした。真夏だと言うのに、震えが止まらなかった。
 どうしよう。どうしよう。どうしよう!
 動かなくなった先輩と、ハサミを握る手を交互に見ながら、私は回らない頭で、ひたすらどうしようと繰り返していた。
「っは、あ、や、おかあさん、たすけて」
 自分が何を口走っいるのか、わからない。本当はわかって入るのだけれど、脳が理解しようとしてくれない。そのうち、呼吸の仕方もわからなくなって、私はこのまま自分も死ぬのかとどこか遠くで思っていた。
 後ろから声をかけられたのは、そのときだった。
「随分と汚したね、手伝うよ」
 突然のことに、これ以上ないほど私の肩は震え上がった。
 恐々と振り返れば、長い黒髪の男が立っていた。男は背が高く、真っ黒な服を着ていて、うっすらと浮かぶサークル参加者の中に、その姿と一致する者はいなかった。
 男か目を糸のように細めて私に微笑むと、何か得体の知れないものが土の中から湧きあがり、先輩を飲みこんだ。
 すると、それは耳を塞ぎたくらなるような音を立て始め、最後はまるで人間の男が食べ物を飲み込むときに喉仏を動かすように、喉を震わせた。
「便利なもんだろう」
 男が得意げに言った。
 一瞬、男へと移した視線をもとの場所へと戻せば、そこには、先輩も、ゴミも、先輩を食った得体の知れない何かも残っておらず、まるで最初から何も無かったかのように、森の静寂だけが広がっている。
「どうして」
「取り込む前に食ってしまうのが難点だったんだが、ゴミなら都合がいい」
「ゴミ」
「バーベキューの肉の残りだろう」
 あっけらかんと男は言う。口元は微笑んでいるのに、声も目も、ひどく冷たい色をしていた。
「もう片付けは終わったよ、日が暮れるから早く帰ったほうがいい」
 男は私と視線を合わせるようにしゃがむと、未だ、硬くハサミを握りしめた私の手を上から覆うように握った。
「いいかい。君は殺していない。あの男は私の呪霊が、腹を空かせて食っただけだ」
「ちがう……だって、あれは」
「もう一度言うよ。君は何もしていない」
 男は、私の掌を優しく解くと汚れたハサミをそっと自分の手に移した。
「でもっ」
 言葉は嗚咽がまじり、うまく続かなかった。知らぬ間に涙が溢れていた。滲む視界のなかで、うまく回らない口の代わりに、私は大袈裟に何度も横にふった。
「でも、そしたら」
「私は今更、罪の一つや二つ重ねたところで変わらない身の上でね。だから気にしなくていいよ」
「なんで」
「理由かい? 大義があるんだ。君にも、夢があるだろう」
 ふっ、と男が表情を緩めた。
 聞きたかったことはそんな話では無かったが、慈しむような微笑みに私は何も言えなくなってしまう。
「きっと、綺麗な花嫁になる」
「すぐる」
「……よく聞くんだ」
 男は私の呼びかけに頷くことはせず、真面目な顔をして私に向き合った。
 遅かれ早かれ君のところに高専の人間がくる。あの得体の知れないものを知る者達だ。君にことの経緯を聞くだろう。そうしたら君は、君と先輩は、面識の無い男に襲われた。男は君の先輩を殺し、呪霊の見えた君を生かした、そう答えるんだ。
「できるね」
 男がそう、私に言い聞かせた。でも、と反論すれば私の頬を男の手が撫でた。
「頷いて」
 男が私の名前を呼んだ。
 何年ぶりかのことだった。男の腕が私の胴にまわされる。傑。もう一度、私は男の名前を呼んだ。背中に汚れた手を回す。震えはもう、止まっていた。

「やっぱりさ、実家じゃなくて、新宿あたりで食事とかでもいい?」
 空になったマグカップを二つ洗い流しながら私は悟に聞いた。ええ、と悟は眉を寄せて不満そうな顔をする。
「お母さんも大変だし」
「それはまあ、そうかもだけどさ」
 実家がやっぱ醍醐味じゃん。ナマエの卒アルとか見たいじゃん。ここがナマエの行ってた小学校かー! とかノスタルジックなことしたいじゃん。だらんと浅く腰掛けたソファーの上で悟が駄々をこねはじめる。
 あのあと、男の言った通りのことがおき、私は男の言った通りの台詞を吐いた。
 そうすれば、私への疑いはすぐになくなり、むしろ私は高専から保護対象としてみなされた。「窓」というものに認定されたのは、その時期だ。
 高専の人間からの聴取は、事件の後に数回執り行われた。毎度別の人間であったが、一貫して皆、喪服のような暗い黒のスーツを着ていた。唯一、違ったのは最後の聴取の日のことだ。
 その日、私の前に渦巻きのボタンをつけた制服姿の男が現れた。
 それが悟と私の出会いである。
 悟は、既になんども聞かれた男の特徴と、事件の経緯を私に訊いた。私はそれにも同じように、答えた。悟もまた、他のものと同じように首を縦に振った。
 悟には、服装の他にも、スーツの人達と違った箇所があった。
 悟は男のことを「あなたを襲った呪詛師」ではなく、「傑」と私の前で呼んだのだ。
 そのとき悟がどんな表情をしていたかは、あまり覚えていない。
 サングラスで表情が見えなかったかもしれないし、傑、と呼ぶ声に気もそぞろになっていたからかもしれない。
「あ」
 するりと、マグカップが手を離れた。鋭い音を立ててシンクの中で砕け散る。
「もー、何やってんの」
「ごめん、悟の」
 大きな破片を手で拾えば、後ろから悟の手が私の手を掴んだ。
「どいて。僕やるから」
 ごめん。もう一度呟けば、いいよ。と悟は言った。僕こういうので怪我しないし。と言葉を続けて、悟は躊躇いなく素手で破片を拾い集めていく。
「あ」
 今度は悟が口を丸くあけた。何かと見ていれば、みるみると、悟の顔が強張っていく。
「ナマエ、指切ってんじゃん」
 え、と私は悟の視線の先をみた。左手の薬指から一筋、血が付け根にむけて垂れていた。
「あ、ほんとだ」
 もー、何やってんの。破片を置いた悟の手が、私の濡れた指先を強く握った。血の巡りが止まった指先は白く、縦にはいった赤く短い線が目立った。私はそれを、ぼんやりと眺める。
「怖い?」
 悟がぽつりと言った。何が? 聞き返すと、悟が私から僅かに視線をそらす。
「血」
 悟の嫌いなところを一つ挙げろと言われたら、あの事件を忘れてくれないことだと、私は真っ先に思い浮かべるだろう。僕がそこにいれば、ナマエに怖い思いをさせずにすんだのに。悟は何度かそう言って、形の良い唇を噛み締めてみせたことがある。
「他の誰かから変に伝わるのは嫌だから言っておくけど、ナマエを殺そうとした呪詛師……傑は、僕の親友なんだ」
 プロポーズの台詞の直後に、悟はそう私に伝えた。それだけは、何があっても変えられないから、その上で返事をちょうだい。はっきりとした声で悟は言った。揺るがない。そういったものが悟の中にはいつもある。
「ナマエ?」
 悟に呼ばれて肩がはねた。どうやらぼんやりとしていたらしい。
「ごめん、大丈夫」
 曖昧に笑ってみせれば、悟の顔が曇った。私はそれに首を小さく横に振る。
「プロポーズのときのこと、思い出してたの」
 悟の眉間に寄った皺を、右手の人差し指で伸ばしながら私は話を続けた。
「今更、戻れないよ」
 悟からのプロポーズへの返事を私はもう一度口にしてみせる。悟が頷いた。僕も、ナマエのこともう手放せない。そう言って悟の腕が私の胴にまわる。
「幸せにするよ」
 そういえば、あの男は玉藻前を捕まえることが出来たのだろうか。唐突にそんな疑問が頭に浮かんだ。
 捕まえられていたらいい。
 それ以上を考えることはせずに、私は血に汚れた手を悟の背中へと回した。
 悟は甘いココアの匂いがする。

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