真珠
手元のナッツを彼女が指で遊んだ。
酔いがまわり始めたのか、心なしか彼女の目元が潤んでいる。綺麗になったなと思うが、だからといって扇情的な気持ちにはなるかと言われれば、違う。今更彼女に性欲をぶつけられる程、私は無邪気ではなかった。具体的に言うならば、その後の面倒を慮る大人になっていた。
ナッツから離した手で、彼女は垂れた髪を一房耳にかけた。
晒された、ほんのりと赤みを帯びた耳には、小さなパールのピアスが揺れている。
彼女の耳に穴が空いた瞬間を、私は知っている。もうかれこれ、十年ほど前の話だ。
私と彼女は高専一年生で、場所は自販機の並ぶ、シャワー室からすぐそばの共有スペースだった。買ったばかりのペットボトルで彼女は耳を冷やしていた。そのすぐ側には、珍しく緊張した面持ちの灰原が待機していて、私はピアッサーのパッケージの裏面にある注意事項を読んで暇を潰していた。
ペットボトルをテーブルに置いた彼女が、そろそろいいでしょ。と言ってからは早かった。
思い切りのいい二人なのだ。
中腰で彼女の耳へと手を伸ばした灰原は、一切の躊躇いなく彼女の耳に穴を開けた。
おおー、と、二人して声を上げるまで僅か1分にも満たなかっただろう。彼女の耳には、小さな点のような穴が一つづつ、左右均等に開けられていた。
「懐かしい」
彼女が言う。
「そういえば、灰原が開けたくせに、一回もピアスを褒められたことは無いかもしれない」
パールのピアスを弄りながら彼女はクスクスと笑った。それから、少女のような顔で、私を覗くように見あげると
「七海は、いつもダンマリだったし」
と揶揄うように言った。
女性のファッションに意見をしてはいけない。というのは、私の人生で得た知見の一つである。
だから、私は彼女の耳に揺れるピアスにコメントをしたことがない。時折、灰原が「重そう」「邪魔そう」などと私の本音を代弁するが如く発言して、彼女の機嫌を損ねるのを見てきたからだ。
彼女の機嫌を損ねるのは、いつも灰原だ。
しかし、同時に彼女が最も豪快に笑う相手も、いつも灰原だった。
私はそれを恋だと思った。
人の恋愛に首を突っ込んではならない。
というのは、私の知見ではなく、先人たちの教えである。教訓からくる教えは守るべきだ。それ故私は、彼女の恋に不躾に触れるようなことはしなかった。
それなのに、彼女は自ら十年の沈黙を破った。
私の予想だにしない言葉でだ。
「べつにオシャレがしたくて、穴を開けたわけじゃなかった」
「では、なんで」
「好きだったから。少しでも近づきたくて、真似て見たの」
「真似る?」
おかしいと思った。
灰原はピアスホールを開けていなかったからだ。あの当時耳に穴を開けていたのは、彼女と夏油さんだけだ。その言い方ではまるで、彼女がーーー。
「君は、夏油さんが好きだったんですか」
「うん。今思えば、恥ずかしいくらいに」
ふふっ、と彼女が吐息のように笑った。懐かしむような、自虐のような、どちらともつかない笑い方であった。
その笑い方に、彼女もまた大人になったのだと悟る。
「世界に二人だけになったような錯覚をしていたの」
それは随分と思い切った間違いをしたな。
そうですか。という相槌の裏に、私はそんな思いを込めていた。この世界の人口を考えてのことではない。彼の隣にいた男の姿を浮かべたのだ。
あの人はいつも、五条さんと二人だったのに。
「あの人はいつも、一人だったのに」
彼女がグラスを回せば、カランと溶けた氷が音を立てた。薄くなっちゃった。グラスに口付けた彼女が、大人な顔で言う。
揺れるパールで飾る横顔は、学生時代の面影を残しつつ、より洗練された女の色を醸し出している。彼女は本当に綺麗になった。
彼女が夏油さんへの思いを秘めたように、私にも彼女に秘めた思いがあった。
私は彼女を愛しんでいた。
私はこれを、恋だとは思わない。
ただひたすらに、彼女の幸福を願う。
「ピアス、よく似合っています」
遠くを見つめていた目がようやく私の側に戻ってくる。褒められちゃった。茶化すように笑う彼女を、孤独から救ってくれる人が現れますように。
もう二度と、彼女が愛する人を失わずにいられますように。
聖杯に祈るような心持ちで、私はグラスの中身を一息に飲み干した。カランと氷がグラスにぶつかる。流しこんだ酒は確かに少し薄かった。
?真珠/吉澤嘉代子