Jujutsu kaisen | ナノ

針もつ栗鼠、窓外の化け物


1.池の鯉

 どうして行ったのかは覚えていない。小学生の頃に井の頭恩賜公園に家族で行った。お父さんとボートにも乗った気もする。あと、リスを見た。それから、異国の男の子も、見た。
 異国の男の子は、真っ白な髪に青い目をしていた。まつ毛まで白かったことに私は驚いた。うわーすごーい! と声を上げれば、異国の男の子はパーカーの袖をまくって腕に生えた産毛も見せてくれた。産毛の色素も薄かった。
 二人で、池を眺めた。あれおまえの親? と異国の男の子は離れたとこにあるベンチを指差した。そこに座っていたのは、たしかに私のお父さんとお母さんだったので、頷いた。異国の男の子はふうん、と答えた。それから足元の小石を拾って、池の中で口を開く鯉の群れに投げつけた。ぼしゃんと音を立てて石が沈んだ。餌と勘違いした鯉たちが一斉にバシャバシャと蠢めいて、気持ち悪かった。
「窓」という言葉を異国の男の子は間違えて覚えているようだった。
「おまえの親、窓だろ」
 首を横に振ったが、異国の男の子は間違いを認めなかった。さらに、おまえも窓くらいならなれるんじゃない、と言葉を重ねてきた。
 外人だし、こんなもんかと私は聞き流すことにした。
 異国の男の子は、狙われの身らしい。懸賞金がかけられていて、この時も殺し屋に命を狙われている真っ只中だったそうだ。
「ストレス溜まるよ」
 異国の男の子は、あーあ、とかったるそうに蹲み込むと、また足元の石を拾った。また鯉に投げつけるのかと聞けば、違うらしい。
「ちょっと脅かすだけ」
 異国の男の子はパーカーの袖を腕まで捲り上げると、ぶん、と石を池に向かって放り投げた。
 ぼしゃん、と音を立てて石が沈んだ。今度は鯉は寄ってこなかった。それどころか、落ちた石を中心に散り散りになった。それと同時に、何人かの大人たちが、池の周りから逃げるように走り去っていった。
「雑魚」
 異国の男の子はそう言うと、またな、と去って行った。ひらりと挙げられた手に「さよなら」と私も手を振りかえした。彼の背中が見えなくなったので、両親のもとに戻ろうとすれば膝が震えていて足がもつれた。私は震える膝を拳で叩きながら、思っていた。あの白き化け物を忘れることはないだろう、と。

2.かつて猿の世界で生きていたころ

「夏油様の初カノが猿だったとか、信じらんない」
 奈々子は鼻息を荒げて言った。美々子もその隣で顔を顰めている。聞かれたから答えただけの思い出話は、彼女達の気に召さなかったようだ。
 とりわけ不思議な話ではなかった。
 猿は嫌い。そう道を選ぶよりも、ずっと前の話だ。私は非術師の親のもとに産まれ育ったので、高専に入るまでは周りは猿ばかりだったし、私自身も、何も見えないフリをして生活していた。
 そんな生活の中で出会ったのが彼女だった。
 彼女は同じ中学に通う一つ下の後輩だった。
 いつも肩までの髪を耳の下で二つに結っていて、膝を隠すくらいのスカートを履いて、コンバースのスニーカーを愛用していた。
 顔すら認識していなかった彼女に、体育祭のあとに告白されたのが私達のはじまりだった。その場では連絡先だけ交換して、それからメールをするようになり、次第に二人で出かけるようになった。
 彼女との時間は、思いのほか居心地が良かった。彼女の前でも、私は何も見えないフリをし続けていたけれど、どうしてか、彼女の前では私は本当の私でいられると、そんな錯覚を当時の私は抱いていた。
「夏油先輩」から「傑くん」と私の呼び名が変わった頃、私は彼女にキスをした。指先で摘まれたシャツの袖に、キスを深めたくなったけれど、初めてのキスで舌を捩じ込むのはどうかと思い自制した。それで止まれる自信もなかったし。
「傑くんは、何に対しても真摯で実直だよね」
 唐突に彼女は言った。ゆったりとした話し方だった。私は彼女の清閑な話し方を気に入っていたが、内容が内容だったので身構えた。
 ありがとう、でいいのかな。褒められた理由がわからなくて、そう訊ねてみれば、「べつに褒めてないよ」と言われた。
 彼女とどうやって別れたかを、私はきちんと把握していない。気がついたら、別れていた。自然消滅というやつだ。
 私の卒業式までは、付き合っていたような気がする。少なくとも、彼女は胸にコサージュをつけた私を笑顔で見送っていた。
 別れたことに寂しさは感じなかった。環境の変化でそれどころではなかったし、何より悟や硝子といる時間のほうが楽しかった。後悔があるとするならば、キスの先を我慢し続けたまま関係が終わってしまったことくらいだろうか。
 彼女との最後のデートは吉祥寺で、映画を見たあとに、当たり障りのない話をしながらぶらぶらと街を歩いた。たどり着いた先の公園で、彼女とベンチに座りながら途中で買ったメンチカツを頬張ったことを覚えている。
「猿というより、リスだったな」
 そう呟けば、奈々子と美々子が首を傾げた。

3.別れの挨拶、もしくは、問題児の話

 ランチタイムの定食屋は混雑していた。客の大半は私たちと同じビルか、近隣のオフィスビルに勤める人たちだろう。社員証を首から下げながら談笑する団体を横目にみながら、湯呑みに手を伸ばせば、じんわりとした熱が指先に伝わった。
 仕事を辞めることにした。
 そう伝えれば、彼女は目を丸くして
「実は、私も」
 と、眉を下げるように笑いながら言った。
 彼女は私が辞めようとしている職場の同期だ。それなりに業績も良く、私とは違い、見た目も中身も人当たりの良い彼女は社内の人間関係もうまくいっていたように思える。
 次の勤め先を聞いたのは、私だった。寿退社もよぎったが、彼女の笑い方を見るにそれは違うだろう。
「洋裁店」
 端的に彼女は答えた。
 洋裁店、と私が馬鹿みたいに繰り返せば、彼女はまた困ったように笑った。
「今と、全然違うでしょ」
 現在の私たちの仕事は所謂金融関係と部類される。確かに全く違う職種ではあるが、それを言うなら私も似たようなものだった。会社を辞めて呪術師になる。そんなことを言えば、きっと彼女は私以上に困惑することだろう。

 次の勤め先は彼女の実家が営む店だそうだ。小さな店で、いまは彼女の母親がたった一人で店を回していると説明された。オリジナルの服をデザインし販売するというよりは、オーダー品の販売や古着の修繕を主に行っているらしい。一番の収入源は提携している学校の制服販売であるとは彼女の言。
「学校との提携があるのは良いですね。毎年安定した収入が得られる」
 洋裁の知識は無いので、私は金について感想を述べた。
「それは本当にありがたいと思ってる」
 彼女は言う。
「それだけだけど」
 怖い人が多いんだよね。触れたら殺す、というか、窓全部割って歩いてそうな感じ。
 定食についてきたサラダにフォークを突き立てて、彼女は淡々とレタスを口に運んでいく。口が小さいのか、彼女がものを食べるとき、いつもその頬は膨れていた。
「リスに似てると言われたことはありませんか」
「歯が出てるってこと」
「悪口として言ったわけではありません」
 ムスッとしてしまった彼女を無視して、私は先程彼女の言った怖い人を想像して見ることにした。浮かんだのは、自身の学生時代。一つ先輩だった白髪の男の後ろ姿だった。あの人ですら窓ガラスを叩き割るような非行に手を染めてはいなかった気がする。尤も、それ以上の問題をひっきりなしに起こしていたのだけれど。
 ニュースなどを見る限り、今時の若者に当時の彼のようなエネルギーがあるとは思えなかった。偏見でしかないが、今時の子供といえば、もっと陰湿な非行に走りそうなものである。
「七海くんも、棒振り回して物壊してそうなタイプだよね」
 彼女はのんびりと言った。それから、フォークをテーブルに置いてスープを啜る。
 彼女は私より一日早く退職した。別れの挨拶に「さよなら」と言えば、彼女は少し悩んで「またね」と笑った。その顔にまた、学生時代の先輩が思い浮かんだ。今度は白髪では無い方である。
 
4.ボタン
 
 店は、古い作りで、扉をぬけるとき僕は少し屈まないといけない。店舗の奥にある6畳ほどのアトリエには大きな一枚板のテーブルが真ん中にどん、と置いてある。部屋には他にもトルソーや、壁一面を覆うように背の高い木棚に並べられた大量の布や糸が几帳面に整列している。
「せっかくならこのテーブルを使えば良いのに」
 彼女に言うと、カタカタとしたミシンの音が止まった。
「ここの方が落ち着くの」
 彼女は部屋の隅で壁をむきながら、ミシンを踏み出す。そういうものかな、と僕は大きなテーブルに、だらりと上半身を預けた。
 無垢材なのか、すべすべと気持ちがいい。人ひとり横になれそうな大きさのテーブルに、一度ここをベッド代わりに彼女を押し倒しことがあるのを思い出した。仕事場では嫌、とハッキリと断られた無念さも、ついでに思い出した。
 彼女は僕の所謂恋人という存在で、かれこれ、もう三年になる。こんなに長く続いたのは初めてと、付き合って半年を過ぎた頃に言ってひかれたことが嘘みたいに、僕と彼女はうまくいっている。
「その彼女、よく五条なんかと付き合っていられるな」
 そう言ったのは硝子だ。何それ失礼すぎない?  と僕は硝子を咎めたけれど、本当は僕も全く同じことを思っていた。僕はいい男だけれど、いい人間ではないから。
「そもそも人間と思ってなかったから、あんまり気にならないんだよね」
 彼女は、片手間にそう言った。意識は針を通る糸に向けられている。す、と真っ直ぐに糸が小さな穴を通った。
「そんなことよりさ、この子、めちゃくちゃデカく無い?」
「そう? 僕と同じくらいじゃない」
「それ、めちゃくちゃデカいよね」
 何食べてるんだろう、と彼女はどこか嬉しそうに言った。大きい人好き? と聞けば、うん、と彼女ははにかむ。それがちょっとむず痒くて、ふうん、なんて興味のない素振りをすれば、彼女は
「大きい学ランって、いいよね」
 と懐かしむように言った。

 彼女の店は、高専の制服を取り扱う唯一の店である。彼女で四代目となるこの店と高専の縁は、もとを辿ると窓と呪術師の関係から始まったらしい。今もなお「窓」として登録されている彼女の一族は、後々調べてみれば随分と古い(高専のできる前、それこそ僕の実家が出てくるような話にまで遡る)家だった。しかし、どれだけ古い縁故や歴史があろうとも呪術師でなければ名が立たないのがこの世界である。
 僕が洋裁店の存在を知ったのは高専を卒業して教師になってからだった。
 高専の制服は決まった形態がなく、全品オーダーメイドだ。発注書を提出すれば自動的に届くそれに、作り手がいるなんてことを、学生のときは気にもとめていなかった。あの日、この店を訪れていなかったら、きっと今も何も気にかけずに、この制服を着る生徒のことを眺めていたことだろう。
 あの日。この店を僕が訪れたのは、ちょっとした気まぐれだった。
 任務が終わった後に硝子と食事をとる約束をしていた。待ち合わせまではまだ余裕があって、一度高専に帰るか、このままどこかで時間を潰すか考えながら、手を突っ込んだポケットの中にあったのが、提出期限当日の制服の発注書だった。
 伊地知に渡しに高専に帰るか、と、億劫な気持ちで眺め見た発注書には、受注先であろう洋裁店の住所も記載されていた。それが任務先から思ったよりも近かったから、僕はなんとなく、その店に足を運んだのだった。

「見えちゃいけないものだと、思ってたんだよね」と彼女が僕に言ったのは、「化け物」とはじめましてより先に彼女が呟いてから半年が経った頃だった。
「失礼だな」
 僕が笑えば
「いや、ほんとに」
 彼女は真面目に言った。
「めちゃくちゃ怖かった」
 彼女が慎重に言う。
「でも結局、僕は誰も殺してないんでしょ」
 さっぱりと答えると、彼女は、うん、まあそうなんですけど。と難しい顔をした。
 僕にとっての初対面は、彼女にとっての初対面では無かったらしい。彼女曰く、ずっと前に僕たちは一度出会っていて、彼女は僕のことをずっと覚えていたそうだ。それだけきくと甘酸っぱい初恋の話に聞こえるが、どうやらそういうわけでは無いらしい。
「初恋は、中学の先輩だったな、私」
 口元に笑みを作りながら、彼女は制服にボタンを縫いつけていく。僕はそれが面白くない。僕の昔話をするときは、いつも引き攣った顔をするくせに。
「うまくいったの」
 少しも興味なんて無いのに、何故か僕の口は動いてしまう。
「うん、まあ、別れちゃってるけどね」
 当たり前だけど、と、ゆったりと彼女は言う。
「付き合ってたんだ」
「うん」
「どんくらい」
「んー、一年ちょっとかな、たぶん」
「何たぶんって」
「ちゃんと別れてないんだよね、向こうが卒業してそのまま、ね」
「ふうん、ねえ」
「なあに」
「背、高かった?」
「そうだね。五条さんくらい、あったよ」
 彼女はまた、懐かしむように言う。目の前に背の高い恋人がいるというのに、彼女の意識はすっかりとその先輩とやらに奪われていて、僕はそいつを憎々しく思った。
「なんて名前?」
 ツンケンと僕がまた、質問を重ねれば
「すごい聞くね、どうしたの」
 とケラケラと笑われた。いいから教えてよ、と言えば、名前はやだよ、と彼女は言う。
「なんか恥ずかしい」
 じゃ、イニシャル。僕は聞いたけれど、彼女は答えなかった。視線は手元の制服に向けられていて、丁寧にボタンを取り付けている。
「エス、ジー」
 唐突に彼女はそう言った。
 エス、ジー? 僕は繰り返す。
 うん、と彼女は頷く。
「サトル、ゴジョー」
 僕がそう口にすれば、彼女は顔をきょとんとさせた。それから、ハッとしたように目を瞬かせると「わ! 本当だ」と嬉しそうに笑う。
 珍しいね、と、言う彼女に、そんなことないよ、と僕は答える。実際に僕は同じイニシャルの男を他にもすぐ思い浮かべることができる。
「ねぇ、その先輩のボタンもつけたことある?」
 だらけた姿勢で彼女に聞いた。彼女は少し黙ってから
「秘密」
 と答えた。パチンと、余った糸が切られる。

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