傷(1/2)


傷、だ。

彼は鏡の前に立ち、虚ろな目で自分の顔を眺めていた。
彼の顔の中心、目のほんの数センチ下の所には、その真っ直ぐに通った鼻筋を断つかのように肉の色をした痛々しい傷が真一文字に走っていた。

数ヶ月前に彼は大学を卒業したばかりだった。
無事に職にも就き、これから彼を待っているのは輝かしい未来──のはずだった。



それは一瞬のことだった。
爆ぜた銀色の塊が顔を掠めたかと思うと、生暖かい液体が目から下を濡らした。
気管に広がるは鉄臭さと嫌な味。顎からぼたぼたと滴り落ちるそれが己の鮮血だと知るや顔面に熱と激痛が走り、激しい貧血に襲われて彼はその場に屈み込んだ。男達の声と救急車のサイレン、覗き込む誰かの顔──それらは全て遠くぼやけていて、ひどく昔のことに思えた。


幸い命に関わるようなことではなかったが、抜糸を終わらせた医者は苦い顔をした。その意味を当時の彼は知る由もなかった。
しかしそれから数ヶ月経っても一向に傷が癒えないことに彼は気付いた。肌よりも少し赤みを帯びた、つるりとした一の字がいつでも彼の顔の真ん中に居座っていた。彼がこの世に生を受けた時からそれはそこにあったという風に。

傷は彼の人相を変え、自尊心を酷く傷付けた。
元々彼には──多くの人がそうであるように──他人の目を気にする性質があった。男だらけのむさい仕事場ならまだしも、その傷をあらわに大手を振って街を歩く勇気が彼にはなかった。中でも彼が最も気に病んだのは、彼女のことだった。

彼には恋人がいた。
大学の後輩で、おしとやかで可愛らしい娘だった。彼が怪我を負ったと聞いて、授業を抜けて駆け付けて来るような優しい娘だった。彼は幸せだった。
だが彼女がこれを見ればどんな顔をする?どう思う?彼女が受け入れたとして、周りの人間は反対するだろう──
あれから彼は治療中を装い、顔面にのさばる悪魔をテープで隠し、気づけば日陰を歩くようにして職場に向かっていた。今はそれで良くとも、いずれさらけ出さねばならぬ時が来る。それが怖くて、彼は最愛の彼女に会うことを拒んでしまった。

そうして数ヶ月経ったのち、彼は彼女に会うことを決意した。
それは、別れの為に。



冷たい風が吹きつける日だった。並木道の銀杏の葉は深みのある黄色の体を捻りながら次々と地上に舞落ちていた。

「先輩」

遠くの方から耳に心地良い声が聞こえる。彼の頭上の時計台は午後五時を過ぎていた。沈み始めた夕日が黄色い道をより味わい深くし、その中を小走りにこちらに向かう女の姿を慈悲深く写し出した。彼は巨大なキャンバスに描かれた美しい油絵を錯覚した。

「悟先輩!」

彼女は彼に飛びついた。ふわりと柔らかな感触と匂いに彼は懐かしさと安堵を覚えた。
彼女は数ヶ月ぶりの再会を何よりも喜んだ。それは彼の本心も同じだった。彼女をもっと求めたい。ずっとこうしていたい…。感情を押し殺し、唇を結ぶと彼女の身体をゆっくりと引き離した。

「実は、その……別れてほしいんだ」

途端、それまで無邪気だった彼女の顔が強張った。

「……どうして?」

薄いアイシャドウの奥の潤んだ瞳が彼に訴えかけた。彼は目を合わせることができなかった。

「傷が、」

「傷?」

彼は頷いて、顔の真ん中に貼ったテープを剥がした。大きな傷があらわとなる。
彼女はいささか目を見開き、痛々しい傷痕を凝視した。驚愕の表情とも取れ、彼は心臓を冷たい手に触れられた心地がした。

いや、これでよかったんだ──

彼は息を飲み、再び繰り返した。

「だから、別れてほしい」

「それだけで?」

「…え?」

驚いて見た彼女の眼は無垢だった。
予想とは違う反応に彼の頭の中のフィルムがきゅる、と小さく音を立てて捻れた。

「顔の傷なんかで、別れなくちゃならないの?」

「傷なんかって──」

彼は事の大事さを思いつく限り彼女にぶつけた。
しかし彼女は最後まで聞くと何食わぬ顔で言い放った。

「傷があろうと無かろうと、あなたはあなただし、誰が何を言おうと、私はあなたが好きなんだから関係ないでしょ」

その言葉は彼のひび割れ、欠けた心を何重にも優しく包み、修復した。
唖然とする彼を見て、彼女は意地悪に笑い声を上げた。

「それに、元々そんなにイケメンってわけじゃないんだし、いいんじゃない?逆に引き締まって」

「お、前…!」

「まあ確かに、悪い虫は付きにくくなるかもねぇ」

「なん……だよ…それ…」

嬉しくて、切なくて、可笑しくて、どうしようもなくなって彼は彼女を抱きしめていた。首筋に顔を埋めると、熱が伝わって来る。

「ごめん……ありがとう」

嗚咽を堪えながら囁くと、彼女は彼の短く刈り上げた頭を撫でた。

「分かればよろしい」

夕日が二人を見届け、銀杏の葉が舞い上がる。時計台の鐘が辺りに鳴り響いた。


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