俺達は数キロ離れた湖へと向かっていた。
隣では猟師を殺り損ねた友が多いに憤慨している。
「だから、あそこで突っ込んでたら間違いなく死んでたっつってんだろ」
「死なないね。たとえ死んだとしても最期に腕を食いちぎってやるんだ」
「はいはい、貪欲なこった」
やがて湖が見えて来た。
少し水を飲もう。心持ち足早に進み始めたがすぐに止まった。
「いてっ」
後ろを歩いていた友が俺にぶつかった。
「何して…」
「しっ」
息を潜め、ゆっくりと身を屈める。友も首を傾げながらもそうした。
湖のほとりに赤い少女がしゃがみこんでいた。こちらに背を向け、光を吸収して輝く水面をじっと見つめている。
「あの子…」
「今度こそ仕留めるぜ。見てろ」
友に言い捨ててから全力で一歩を踏み出した。
──殺れる。
「赤ずきんちゃん!左に逃げて!!」
途端、大声が響いた。
それは後ろ──友から発せられたもの。
一瞬、身体が硬直し、それからの視界はスローモーションになった。声のままに反射的に左に倒れ込む少女の背中、宙を掴む俺の腕、眼前に迫る水面──
「おっ…ああああ!!」
無数の銀色の泡が俺の身体を駆け巡る。全ての泡が遥か向こうに消えると次はエメラルドの藻があちらこちらで輝いていた。小魚が一匹、すいと眼前を横切った。
太陽の光でみんな輝いている。真っ逆さまに堕ちてゆく俺の毛皮さえも。
水温は程よく冷たく心地良い。たまにはこういうのもいいかもな。
「…て、んなわけあるかあああっ!!」
湖から這い出ると一匹の狼と少女がケタケタと笑い転げていた。
「やあ、まさか落ちるとはねえ」
「ざけんなコノヤロー」
笑い過ぎて涙ぐむ友に俺はすかさず殴りがかろうとした。
「待ちなよ。女の子の前で暴力沙汰なんて気配りのできない男だね」
「関係ねーよ」
奴はやれやれ、と肩をすくめてみせた。腹立つ。
「これは、さっきの仕返しだよ」
「仕返し?」
「そう、猟師のこと。今日この子を殺すのは許さないからね」
「ちっ…」
人間の少女は無防備に俺のすぐ傍に座ったままニコニコしている。今このチャンスを逃せばいつまた巡って来るのか。
あの時あいつが死にに行こうと知らん顔してやればよかった。命の恩人に対してまったく酷い仕打ちだ。
「にしても濡れ狼とはなんとみずぼらしいものだねぇ」
しみじみと言われて見てみると確かに俺の毛はぺったりと寝て残念なことになっていた。
「これどーぞ」
「あん?何だこりゃ」
餌になり損ねた少女から嬉しそうに渡されたのは真っ白なハンカチーフ。
「ばっか、こんなんで拭き切れるか。狼はな、こうやるんだ」
俺は激しく身体を振り乱した。毛に絡まった水がどんどん散って行く。
「うわ、最低」
「つめたーい」
顔をしかめる友とは裏腹に少女は無邪気に笑う。本当に呑気なガキだ。
「まだぬれてるよ」
さらにガキは少し残った水気を拭おうとする。俺はその細い腕を振り払った。
「いいんだよ、こんなぐらい」
「カゼひいちゃうよ」
「野生舐めんなよ?」
「ふうん…」
少女はハンカチーフを握りしめ、意味深に俺の眼をじっと見た。
「照れてるんだ」
「はあ!?」
「じゃあこれ、貸してあげるね。今度返してね」
綺麗に畳まれたハンカチーフが目の前に差し出された。
「いらねーって!」
「赤ずきんちゃんは、大人だねぇ」
そこに友が割って入って来た。
「でも駄目だよ。そんな匂いの染み付いたハンカチーフなんて預けたら何に使われるか分かったもんじゃない」
「ヘンタイだから?」
「そう、彼はヘンタイオオカミさんだから」
肩を震わす奴の後頭部をさすがに思い切りすっ叩いてやった。
「ふふ、わかった。じゃあね、ヘンタイオオカミさん。カゼひいちゃダメだよー!」
嬉しそうに言うと少女は林の中に消えて行った。
「なんなんだあいつ…」
「可愛いじゃないか」
「可愛くねーよ馬鹿」
後ろで魚が水面を跳ねた。
湖には小さな波紋が広がっていた。
[*前] | [次#]