それは、野外調査に向かう途中の出来事だった。
甘く香ばしい匂いを漂わせる小洒落たベーカリーショップの角を曲がった所で、四歳ぐらいの男の子が勢いよく飛び出して来た。
幸い接触はしなかったものの、男の子は反射的に避けようとしたところ足がもつれて派手に転んでしまったようだ。
「ごめんね、大丈夫?」
水無月悠衣は幼児の傍にしゃがみ込み、そっと肩に手を置いた。
幼児はか細い二本の脚でよろよろと立ち上がった。冬場で厚着をしていたおかげで怪我は無いようだ。悠衣は胸を撫で下ろした。
「…ふえ…っ」
しかし幼児はまっすぐ立つのを合図に、一時停止した内なる時を戻すようにじわじわと顔を歪めた。大粒の涙がぼろぼろと溢れ落ちる。
「ご、ごめんね、痛かったね」
幼児は大声で泣き始めた。
悠衣は泣きじゃくる幼児の顔を覗き込みながら一心に、柔らかな毛が生えた小さな頭を撫で続けた。
傍らを通り過ぎ行く大人達は哀れむような蔑むような目を向けるだけだった。
「ごめん、ごめんね、大丈夫?」
悠衣は同じ言葉ばかり繰り返していた。目尻にうっすらと雫が滲む。
──どうすればいいんだろう。こっちが泣きたい気分だよ…。
涙腺を引き締めようと軽く鼻を啜った時、幼児の泣き声の合間に別の言葉を聞いた。
「だい…っ、じょう、ぶ」
注意深く耳を傾けると、それはやがてはっきりとした答えになった。
幼児の顔を改めて見ると、己の眼から零れる雫と対峙するように眉に力を入れ、しゃくり上げながらもまっすぐ悠衣を見つめていた。
ああそうか、と悠衣は思った。この子は男の子なのだ、と。
わずか四歳ばかりの幼児の中にも男としての意地が芽生え始めている。
「強いね、偉いね」
よく熟れた桃のような頬にそっと手を添える。しっとりと濡れたそれは柔らかく、温かかった。
「大丈夫なら泣くな」
不意に、悠衣の背後から感情の無い冷たい声が降り懸かった。首だけをそちらに向けると、二、三歩離れた所に細長い黒い影がそびえ立っていた。
すっかり忘れていた。
これから六番隊の仕事に向かう途中であったことを。
その姿を見て、勇敢な男児は文字通り目を点にして硬直した。悠衣さえも一瞬、心臓を掴まれたかのような感覚を覚えた。
さても幼児から見た長身の男とはこんなに恐ろしいものなのか。
いや、それだけではない。普段から黒ばかりのコスチュームだというのに、今回は寒空の下のためか黒いフードを深く被り、口元から鎖骨にかけてはマフラーで覆われている。
それらから覗く白い肌と前髪、僅かに漏れる吐息が版画のように奇妙に浮き彫りになっていた。さらにフードの影からは真っ赤な鋭い目が二つ──本人にその気はないのだろうが──嘲るようにこちらを見下ろしていた。
「…隊長、」
悠衣は唾を飲み、その巨大な真っ黒な塊に向かって一節一節丁寧にはっきりと口にした。
「色んな意味で刺激が強過ぎます」
フードの中で、整った眉が片一方吊り上がったらしかった。
マフラーの隙間から白い息が溢れて消えた。
仕事に向かう、と言い残して、影は消えた。
悠衣は正面に向き直ると、小刻みに震え始めた幼児の身体を抱きしめた。
大丈夫、怖いお兄ちゃんじゃないからね。
幼児は何も応えなかった。
幼児の肩越しにさりげなく腕時計に目をやると、ある程度余裕を持って出発していたものの、もう十五分ほど時間を潰してしまっていたらしい。
早く仕事場に向かわねばと思いつつも、この不安定な幼児を置いて行くわけにもいかない。もし遅刻したとして、あの人は弁解してくれるのだろうか。
仕事場、と悠衣は頭の中で繰り返した。そして風にコートの裾をはためかせながら去って行く後ろ姿を思い返した。途端、脳に電撃が走り、ある重要な問題が浮上した。
──隊長、私、道知らないんですけど。
冷たい風が音を立てて街を駆け抜けた。
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