Pie


指先に付着した白いクリーム状の物体を見て、春夜は眉間に皺を寄せた。
彼の漆黒のコートは左腕のあたりを主に、胸部や襟元をべちゃべちゃした白い汚れで派手に塗り潰され、それに負けず劣らず白い右頬にも小さな飛沫が飛び火している。
足元にはいびつに曲がったクリームまみれの紙皿が一つ、転がっている。壁や机、床もがペンキを浴びたように所々白く染まってしまったのだ。



時は五分ほど前に遡る。
それは一瞬の出来事だった。いつものようにコーヒーの仕度をし、仕事を始めようと椅子に腰掛けた途端に出入口のドアが勢いよく開いた。
そこから現れたのは高猿寺戒だった。

九番隊隊長である戒が六番隊の部所に来るのはもはや日常茶飯事と化していたため、春夜は特に驚かなかった。
ただ、ドアを開け放したまま、右腕を隠すようにして早足でずんずん近づいて来る彼に違和感を覚えた。
と、戒の右腕が見えた。その先は手というよりは白く丸い円盤だ。認識した時にはそれが物凄い勢いでこちらに投げられていた。

反射的に左腕で庇ったため最悪の自体は免れた。
何が起こったのか。どろどろになった左腕を見て、自分の周りが真っ白になっていることを知った時にはもう戒は消えていた。「くそっ、ミスった!」という言葉を残して。


とにかく、まずはこの汚れをどうにかしなければならない。
春夜はたっぷりとへばり付いたクリームを紙皿の縁で拭い取り、シャワーとクリーニングのために一旦帰宅する必要性を考えた。綺麗にしたら部所の掃除をして、高猿寺をシメるのはその後だ。

そこにドアノブがまた音を立てた。
春夜は動作を停止し、開こうとするドアを睨みつけた。

ドアを開けたのは、気の狂った猿ではなく間抜けな部下だった。
その手には白い物体が握られていたが、中身の入ったただのビニール袋だということが一目で分かった。
悠衣は春夜を見るなりぎょっとして目を見開いたが、すぐに穏やかな表情になり明るい口調で言った。

「隊長、もうやられたんですか?さすがですね」

何となく馬鹿にされたようで、春夜は少しむっとしたが、悠衣のそれが嘲笑ではなく素直な笑いであることに気付いて首を捻った。

「意味が分からない」

すると悠衣は口をぽかんと開き、春夜の顔をまじまじと見た。

「隊長、知らないんですか?」

まるでその「何か」を知っていることが常識であるような口ぶりだった。肯定の代わりに春夜は静かに眉をひそめた。

「ええと、つまり、今日はパイ投げ祭なんです」

パイ投げ祭?
聞き慣れない言葉に春夜は耳を疑ったが、楽しそうに悠衣がビニール袋から取り出したものが、聞き間違いではないことを明らかにしていた。

悠衣が取り出したものは大きめのスプレー缶と紙皿だった。スプレー缶にはファンシーな字体で「パイ」と大きく書かれている。
それらを渡しながら悠衣は「ちゃんと二人分貰って来ましたよ」と得意げに説明した。

「パイを作れるのは一缶につき、五発。紙皿一面にたっぷり塗ってくださいね。味気ないので…」

春夜は試しに紙皿の一つにスプレーを噴射した。たった数秒にして白いホイップがもりもりと大きな山となる。
トマト祭やオレンジ祭は聞いたことがあるがパイ投げ祭なんて聞いたことがない。そもそもこれはパイと呼んでいいのかも分からない。整髪剤か何かではないのかと疑問の念を抱きながらも、いずれにせよ迷惑な祭があったものだと深い溜息をついた。

「誰に投げてもいいのか?」

「はい、勿論です!ただ──」

答えるやいなや悠衣の顔面に紙皿がへばり付いた。やや間を置いてべちゃ、べちゃと紙皿やクリームが重力に従って床に落ちた。

「…隊長!」

悠衣が目のあたりを拭って部屋を見回した時にはもう春夜の姿は消えていた。



春夜は九番隊の部所を目指して歩を進めていた。
たしかに廊下では数人の隊員達が所々真っ白になりながらパイを手に追いかけっこをしていた。

ふと、廊下の先に後ろ向きで屈んでいる人物の姿が見えた。どうやら誰かを待ち伏せしているらしく、尻から生えた赤茶色い尾っぽが待ち遠しそうにふよふよと左右に揺れていた。
春夜は黙ったままその人物の背後に立ち、頭頂部にパイを叩きつけた。

「うおっ!?誰ぶふおっ」

驚いて振り返った顔面にも力任せに紙皿を押し付けた。そのため彼はバランスを崩し、仰向けに倒れてしばらく動かなかった。

復讐を果たした春夜は身を翻し、すたすたと六番隊の部所に引き返した。
途中、まだ二発分残っていることを思い出して、すれ違いざまに名も知らぬ隊員の顔面にぶちまけてやった。
隊員は驚きと恐怖に満ちた様子で身体をガクガクと震わせ、声にならない声を上げて走り去った。

それから特にこれといった出会いもなかったので最後の一撃を誰にもぶつけることもなく六番隊の部所に到着してしまった。
中にはまだ顔に拭い切れなかったクリームを残した悠衣がいた。春夜はもう一発こいつに食らわせてやろうか、と思ったが、それも面白くない気がしてやめておくことにした。

悠衣は「お帰りなさい」と言うと同時に立ち上がり、ゆっくりと春夜の周りを一周して、あれから汚れが増えてないことを確認した。

「誰に投げたんですか?」

春夜はパイの乗った最後の紙皿をそっと自分の机に置き、コップに残っていたコーヒーを捨てた。戒にぶつけられた際にクリームが混入してしまったのだ。

「お前と高猿寺と知らない奴」

新しいコーヒーの準備をしながらぶっきらぼうに言うと、悠衣は抗議の声を上げた。

「知らない奴って…あなたという人は、そんな見境もなくやっちゃうんですか!!」

「何が…」

春夜が振り返って見た悠衣の顔には落胆と批難の色が前面に押し出され、目は少し潤んでいた。

「…どういうことだ」

こぽこぽと音を立て始めたコーヒーメーカーを背にして春夜は悠衣に向き直った。
悠衣は「やっぱり」と俯いてから言った。

「パイを投げる相手は、友達とか家族とか恋人とか、好意を寄せる人に限るんです。この祭のコンセプトは『アグレッシブ・バレンタイン』ですから」

「バレンタイン?」

春夜は机の上の白い塊に目をやった。
まずいことになった。彼らに好意など寄せていないのだから。戒に至っては二連続。奴のことだから派手に騒ぎ立てるだろう。

そして残りの一発をどう処理してしまおうかと思案していると左脇腹に柔らかな感触が伝わった。
視線を下に向けると、パイの山ができた紙皿を悠衣が遠慮がちに押し当てていた──





バトンネタでした。
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