「本当はね、動いてるのは電車じゃなくて世界なんだよ」
奴が遠い目をして突然そんなことを言い出したので私は思わず「大丈夫か?」と口にした。奴は私に焦点を合わせて満足そうに頷いた。
「で、何?世界が動いてる?言われなくても分かってるわよそんなこと」
「うん、そうじゃなくて電車が止まってるんだ」
眉間に力を入れる私の顔など見ずに、奴は卵でも掴むかのように、側にあった鉛筆にそっと右手の指を添えた。
「こんな風にね」
右手は動かさずに、鉛筆だけを左手で引き抜く。きっと右手は電車、鉛筆は線路。
「何、つまり周りの風景が動いてるから進んでるように思うだけで、本当は電車は止まってるって言いたいわけ?」
「その通り」
奴はぱちんと指を鳴らした。こんな電波くんの言いたいことを理解してしまうなんて、私も末期だと思う。
「電車は勝手に走ってるじゃない」
「そう思ってるだけだよ。僕らは回る地球の上から回らない電車を見ているんだからね。太陽だってそうだった」
「ブレーキはどうするの?」
「だから、地球がゆっくり速度を落としていってるんだって」
奴はけろりと言ってのけた。私は開いた口が塞がらなかった。
「じゃあ何?地球は一日に何百回、百キロも加速したり減速したりしてるの?そんな力、私たちが耐えられるわけがない。一本の為に地球が動いてるなら他の電車はどうなるのよ?みんながみんな同じ方向同じ速度で走ることになるわよ?そもそも地球は一定の速度で自転と公転を──」
「そっか。分かった!」
酸欠気味になった私の脳に、奴の明るい声が響く。何か嫌な予感がする。
「ブレーキはね、逆方向に進んでるんだよ。上りのエスカレーターを同じ速度で駆け降りたら進まないだろ?そういうこと」
「ああ…なるほどね」
もう何でもいい。これ以上相手をするには体力を使い過ぎた。
妥協と同意を勘違いしたのか、一人だけすっきりした顔をして鼻歌なんて歌い出すもんだから私は机にうなだれた。
電車に乗る度に私はこの話を思い出すのだが、やっぱりどう想像してみたって動いてるのは電車の方だった。
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