俺の所属する部活には天使がいる。
色白で、目が大きくて、とにかくとても可愛い。可愛い女には注意しろ、とはよく言うが、性格も良いんだから仕方ない。
この下界での名は山口明理(あかり)と言うらしい。
彼女は俺の戯事によく笑った。部内で唯一の同じ学科だから一緒に勉強なんかもした。ケータイの電話帳に彼女の名前が入っている時点で奇跡だと思っている俺にとって、こんなに嬉しい事はない。交際なんて出来たらどんなに幸せだろう、なんて時々ぼんやり考えてしまう。
「無理に決まってんだろ、俺らみたいな男なんて眼中にねーよ」
暮れなずむ街。親友の西野が肩をすくめて言った。奴とは高校からの付き合いだ。学科は違うが同じ部活に所属しているので、だいたいいつも一緒に帰っている。
「分かってるよ。でも想うのは自由だろ」
「一途な片想いってやつ?青春だねぇ」
うーん、と小さな声を挙げて西野は伸びをした。元野球部の奴は、元卓球部のユーレイ部員の俺とは違ってよく日に焼け、細身だがガッチリしている。
「ちょっとアイス食ってかね?」
真っ黒な顔に輝く二つの目、大きなゴツゴツした拳から突き出る一本の指。体は厳ついくせに、少年みたいに無邪気な笑顔を浮かべた西野が指差した先はアイスクリームショップだった。色とりどりのアイスが整列したショーウィンドウの前には、学校帰りの女子高生や、小さな子どもを連れた主婦が並んでいた。
「何でだよ」
俺は勿論反対した。確かに小腹は減っているし、遠目から見てもアイスは美味そうだ。
ただ俺には羞恥心がある。野郎二人であのファンシーな雰囲気の中に飛び込もうという勇気はない。
そんな俺の心理を奴は見据えていたのだろうか、小さく鼻歌を歌いながら頭の後ろで手を組み、心底面白そうに俺の顔を眺めていた。
「これも青春、青春」
「やだよ。女子みたい」
「そう、女子はアイスが好きなんだよ」
その言葉を待っていた、というように、西野は突き出した人差し指を鼻の前にかざし、不気味に口の端を吊り上げた。
「慣れてデートのお誘いでもしてみろ」
「な…っ」
「さー入るぞー」
こうして俺はおそらく実現しないであろうデートの予行練習という名目でちゃっかりアイスを奢らされたのであった。
講義終了のチャイムが鳴る。本日の講義、これにて終了。
部室でも行って適当に時間を潰して来るかな、と若干の倦怠感を纏いながらのっそり立ち上がった時、誰かに小さく袖を引っ張られた。
横を見るといつの間にやら天使が降臨していた。何が何やらでひたすら口をぱくぱくさせている俺を、彼女は潤んだ大きな瞳で上目づかいに見上げた。
「こ、この後、何か、用事とか、ある?」
一言一言、丁寧に彼女は口に出した。
「いや、無いけど…」
「じゃあ、あの…」
白い、つるりとした頬がみるみる紅く染まる。
「3階のラウンジまで来てくれる?…その、ちょっと話したい事があって…」
「ああ、いいよ」
その時の俺は格好つけて至って冷静を装ったが、本当は心臓なんかは口から飛び出すんじゃないかってぐらい激しく鼓動していた。
これは、属に言うフラグってやつなのだろうか?
諦めなければ、夢は叶うのだ──どこかで聞いたような言葉を俺は今実感した。
「は、話って…?」
最終講義後は殆どの学生が帰宅、もしくは図書館や部室に行くため、ラウンジはいつもより空いていた。俺達は、フロアの隅にある小さな白いテーブルに向かい合って座った。気持ちが高ぶっているせいか、また数倍彼女が艶やかで愛おしく感じる。
「…えっと、」
ゆっくりと薄い唇が開かれる。
「西野くん、って、彼女いるのかな」
「はいぃ?」
耳まで真っ赤にした乙女が口にしたのは俺ではなく親友の名。我ながら情けない程に声が裏返る。
「に、西野ぉ?」
「…うん。高校、一緒なんだよね?その、何か知らないかなって…」
俺は全てを悟った。一瞬、意識が遠退いて、脳裏によぎったのはやけに『青春』を連呼しながらアイスを頬張る間抜けな元野球部の顔で。
「アイス代返せよ…」
「え?」
「いや、なんでもない。それより彼女、ね。イナイト思ウヨー」
無機質で機械的な声がどこか遠くのほうで聞こえた。これは本当に俺の声なのだろうか。いや、やはり俺の声に違いなかった。そう、俺はロボット。感情なんて無い。恋愛もしない。こんなに見事な失恋なんて…失恋なんてするはずがないんだ。
数日後、キャンパス内を楽しそうに歩くある男女の姿を何度も見かけた。女はとても幸せそうだった。白いブラウスを風に揺らしながら、まだあどけなさが残る顔に満面の笑みを浮かべていた。
目が眩むほどに。
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