酷く冷え込む季節だった。
冷たい乾いた風が突き刺さるバス停から老人はバスに乗り込んだ。
バスの中は既に高校生のカップルや出張帰りのサラリーマンがじっと押し黙ってまばらに座っていた。最後列には赤子を抱いた母親もいる。その傍らでは物心ついてまだ間もないであろう少年が遠慮がちに甘えていた。
老人が最前列に腰掛け、ほっと一息ついたとき。
しげちゃん、しげちゃん。
少し後ろから自分の名を呼ぶ者がいる。
ゆっくり振り返るとそこには懐かしい旧友のしわくちゃの顔があった。
おう、のぶっきゃんか。久しぶりやのう。
おお、ほんまに。どら、こっち来ぉこっち来ぉ。
ほな──
席を移動した所で古いバスの戸が音を立てながら閉まり、淡々とした運転手の声がアナウンスされる。
バスはゆっくり進み始めた。
何処の帰りで。
ちっと島根の方へ。きぃさんに会って来たわ。
ああ。もう皆おらんようになってしもたからなぁ──
きぃさんは21の時オキナワで戦死したそうだ。
最期の最期握りしめていたのは愛する妻とまだ小さい子の写真。
しげちゃんは関東軍におったんじゃったか。
いやいやわしは××じゃ。
ははあ、したらマンシュウか。
ああ、もうちっとで海軍に回される所やったが──あの船に乗っとったらな、あの船に乗っとったら皆海に沈んでしもとった。徳さんなんかは乗って逝ってしもた。
いやはや──生きとって良かったやないか。
バスが停車し、学生が数人定期券を片手に降りて行った。
薄暗い紫の空はだんだん濃くなっている。
何かを手繰り寄せるように二人は暫く黙って何処か淋しさを纏った白く輝く天井を見上げた。
むごいもんやった──
ああ、ほんまに。やけん、あの時代はそれが普通やった。哀しいもんじゃ。
強風と運転手の沈黙の戦いでバスが左右へとふらふら揺れた。
少年は不安の色を顔に塗りつつも、ただ黙って母親の肩に頭を預けた。
そういやぁこっちには久々に来たがハッちゃんは元気かい?
ハッちゃんはもう何年になるかな──4、5年前に階段ですっ転んで逝っちまったよ。
そうか。ひろさんもいねぇんだよなあ。
ああ、あれは早かった。
みぃんな、いなくなって行くんだなあ──
夜はどんどん更けて行く。
一つ、また一つと駅を通過する度乗客が降りて行く。
バスにはもう二人の老人と子連れの母親しか残っていなかった。
戦争は、あかんな。
ああ、戦争なんてするもんじゃねぇ。哀しいだけだ──
真っ暗な海にぽつりと終点一つ前の船が浮かんだ。
バスはゆっくり、ゆっくり速度を落として行く。
ああもうこんな所か。暗くて分かりゃしなかった。
いやあ、いいツレに会えたもんで何の苦労もいらんかった。しげちゃんに会えてよかった。
ほんまに──ほな、のぶっきゃんも達者でな。
ああ、達者でな。
一人の老人が黒い海へと消えた時、後部座席で赤ん坊が一つ鳴いた。
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