メモリーズ


今日も昨日も一昨日も。
きっと明日も来るだろう。


はあ、と俺は一つ溜息をついた。
隣では後輩の竹田がにやにやといやらしい笑みを浮かべ、横目でこちらを見ていた。何度この腹立たしい顔を殴ってやろうと思ったことか。
しかし悩みの種はこいつではなく──こいつも元凶といえば元凶だが──俺が顔を上げると即座に逸らされるもう一つの視線。
ポニーテールというのだろうか、後ろで一つに束ねた漆黒のさらさらの髪を揺らし、ひょこひょこと歩くさまはどこにでもいる女子児童。

彼女は、平日だろうと休日だろうと関係なく開館日の午後に必ず現れる。
適当に本を手にすると貸し出し口向かいの大きなテーブルに行儀よく座り、文字の世界へ。日が暮れる頃に母親と思われる若い女に連れられ名残惜しそうに帰って行く。そんな日々の繰り返しだった。

彼女が手に取るのは児童書が多くを占めていたが、時には紙芝居や画集なんかもあった。
貸し出しにバーコードをスキャンしながら、本好きなんだね、とか絵が好きなの、とか聞いてやると決まってとても嬉しそうに顔をくしゃくしゃにして大きく頷き「うん」と答えた。俺たちの繋がりはそれだけだった。

いつからだろうか、ふと気がつくとその黒いくりくりした眼が俺に向けられるようになっていた。
始めは気のせいだと思い、さほど気にしてなかったが、目が合うと慌てて本に視線を落とす所を見るとどうもモヤモヤした気持ちになる。

ある日、蔵書整理をしていると竹田が妙な事を言い出した。

「あの子、」

「あん?」

「いつも来てるあの子ですよ」

「ああ、どうした」

「これは僕の勘ですがね」竹田のあの気色の悪い笑顔を見たのも今思えばそれが初めてだった。

「あの子、きっと藤森さんの事好きなんですよ。男性として」

「は?」

我ながら素っ頓狂な声を上げてしまった。竹田はさも面白そうに続ける。

「だって、いつも見てるじゃないですか。貸し出しだって藤森さんにばっかり…」

「そんなわけがあるか。偶然か何かだろう。親子ほどの差だぞ」

「おっと、恋に年齢は関係ありませんよ?」

「恋愛小説の読み過ぎじゃないのか?」

「いち図書館司書として光栄です」

殴ってやりたいと思ったのもこれが初めてだった。
つまりはこの日から、俺の中で正体の分からない色んなものが居心地悪そうにうごめき始めていた。
やはり元凶は竹田のようだ──



美しく彩られた山々がくすみ始めた頃。
その日は地域の祭があるとかでいつもより閉館時間はいくらか早く、俺は久しぶりに陽が紅いうちに帰る事が出来た。

館外に出ると少し冷気を纏った風が吹いていた。
危うく聞き逃す所だったが、風に乗って微かに、風音に紛れて消えてしまいそうな程に、自分の名を呼ぶ声がした。
振り返るとそこには彼女がいた。
厚着をしているはずなのにいつもより小さく見えるのは何故だろうか。
ゆっくり彼女の前に立つと彼女は赤い頬をさらに赤くし、微笑んでみせた。

「ごめん、今日はもう閉館なんだ」

ポニーテールが左右に揺れた。小さな手の中にはしっかりと分厚く大きな本が収まっていた。彼女が先週貸りて行った、ミレーの画集だった。

「おお、ありがとう」

屈み込み、それを受け取る。
再び立ち上がろうとした時、色の無い薄い唇が動いた。

ふじもりさん、

今まで見た事の無い大人びた、すがるような目つきに何かが俺の胸の中でぞくりと跳ね上がった。それは例えば壊れそうな硝子細工を見た時のような。

あのね、わたし、図書館ではたらく人になりたいの。

そっか。じゃあ頑張って勉強しなよ。おじさん待ってるから。

そっと頭を撫でてやると、彼女は顔をくしゃくしゃにして「うん!」と大きく頷いた。
涙を流して。




知らぬ間に時は進み、草木は若々しい新たな芽を出し始めていた。

はあ、と俺は一つ溜息をついた。
隣では後輩の竹田がきまりの悪そうな顔をして横目でこちらを見ていた。
貸し出し口の向かい側の大きなテーブルは麗らかな陽射でライトアップされ、寂しさを増していた。

あれから彼女はぱったり来なくなった。
今日は、何となくだるい。
俺は体調不良を理由に早退させて貰う事にした。

玄関先で、中年の女性に出くわした。
女性は俺の顔を覗き込むと、もしかして藤森さんですか、と問うた。
そうですが、とやや驚きながら答えると女性は彼女の母親だと言った。
あの時のぞくりとした何かが全身を駆け抜けた。



実は彼女はここから徒歩で数分先にある大型病院の入院患者で、長いこと難病を患っていたのだと聞かされた。
彼女は本が大好きだった。
病院内の図書室では飽き足らず、図書館に行きたいと言い出したそうだ。
医者は反対したが、彼女は誕生日さえも『図書館に行きたい』、その一点張りで遂に厳しい条件付きで外出が許された。

「そしたら図書館に着くなり調子が良くなって。お医者様も一種の治療法として通う事を許して下さったんです」

ふふふ、と彼女の母親は笑った。笑顔がどことなく彼女に似ている。
それまで俺が母親だと思っていたあの若い女性は多忙な両親に代わってのヘルパーだったらしい。
そんな矢先、彼女が口にしだしたのが俺の名前らしい。図書館に大好きな人がいる、私も大人になったら図書館で働きたい、と。

「あなたの話をする時、あの子はとても生き生きしてました」

そしてあの日、頭を撫でて貰ったとそれはそれは嬉しそうに医者や看護師、親に言いふらしたそうだ。そして──

「あの子にとって、あなたは生きる希望でした。本当にありがとうございます」

彼女の母親は涙声でそう伝え深々と礼をすると、去って行った。
その小さく淋しげな後ろ姿に俺は何も言えなかった。

あの日、彼女があんな事を言った理由がなんとなく分かった気がした。



今日も昨日も一昨日も。
明日はきっと──



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