「おーい、昼飯まだー?」
「…ああ、もうこんな時間か。買い出し行かないと駄目だな」
藍に呼ばれ、悟は読んでいた本を逆さまにテーブルに伏せ、立ち上がった。
「時間を忘れる程本に没頭するってどうなんだよ」
「一日中ゲームに没頭してる奴に言われたくない」
都合の悪い反論を適当に聞き流して、藍は悟の読んでいた本をまたひっくり返して数ページ前にめくった。
「お、これうまそう」
「カルボナーラか。ベーコンとクリームにチーズ…」
藍の指した写真を覗き込んだ後、ぶつぶつと材料の確認をしながら玄関へと悟は向かう。その背後に、本のページを適当に戻した藍がちょこちょこと付き纏う。
「…どうした?」
いつもと違う様子に警戒して悟は後ずさった。それを見て、藍は気の抜けた笑顔を浮かべた。
「私もついてくぜ」
「…どこに?」
「どこって、買物に行くんじゃないのか?」
「なに…っ!?」
あまりの衝撃に思わずよろけ、その反動で玄関の傘立てが倒れた。幾月の習慣なのか、悟はすぐさま立て直す。
「まっ…万年引きこもりニートのお前が!?」
「ニート言うな。主婦だ。一応。まったく失礼だな、悟くんは」
「悟くんって言うな」
「じゃあ悟センパイ?」
「せっ、先輩とか言うな!今更…」
赤面する悟に、藍は今度は愉快そうに何処か意地悪に笑った。
レジ袋がカサカサと音を立てる。陽は相変わらず柔らかく穏やかだが、風は日に日に冷たく激しくなり始めていた。
「ちょっと散歩して行こうぜ」
「腹減ってんじゃないのか?」
「久しぶりの外だからな」
ジーンズのポケットに両手を突っ込んで藍はぶらぶらと歩き出した。
何故彼女が今日に限ってついて来たのか、悟には今だ理解できないでいた。スーパーに着いても感嘆の声を漏らすだけで、特に自分から何を買うわけでもなかった。
ならばゲームの発売日かと身構えたが、行きつけのゲーム屋にも寄らず今こうして隣にいる。
二人の歩みは銀杏並木に差し掛かった。
わしっ。
ポケットの中で温められた手が、悟の頭を撫でた。
「なっ、何だよ」
突然のことに悟は身体を震わせたが、温かな手は構わずわしわしと短く柔らかな黒髪を撫で回し続けた。
「いやあ、触り心地良いんだよな、この頭」
「知らねーよ、とにかくやめろって」
無理矢理触れられた猫のように、首を回して逃れようとするので仕方なく藍は手を離した。
「本当に、幸せ者だな、君は」
「何が…だっ」
離した手の人差し指で鼻筋を力強く押され、悟は一歩よろめいた。
「さあ、早く帰ろうぜ。腹が減った」
鼻歌を口ずさみながら大股に歩く妻を、悟は鼻を抑えて恨めしそうに見た。
銀杏並木には午後一時を告げる鐘が響いた。
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