魔の呪文


火曜日も最終授業の五コマ目、講師の口から魔の呪文が発せられた。

「──じゃあニ、三人で自由にグループを作って」

もう大学生なんだから仲間はずれなんていないよね、という殺し文句付き。大学生になって仲間はずれがなくなるなら日本の将来は安泰だ。

自慢じゃないが私は友達が少ない。ことにこのクラスにおいては友達と呼べる人が全くいない。

私はさりげなく教室をぐるりと見渡した。
元々自由席なのだからすぐにグループができるのは自然なことだった。教室は楽しげな声で満ちている。その隅に差す私の真っ黒な影なんて誰にも見えてはいないようだ。

いや、それでいい。このまま消えてしまいたい。
きっともうしばらくすれば講師は言うだろう。
「一人の所はない?」
そして私は真っ赤な顔で俯いて一人手を挙げるのだ。想像しただけで手の平に汗が滲んだ。



『お前は一生クラスに馴染めない』

あの時の台詞が頭をよぎる。
はい、おっしゃる通りです。心にちゃんとメモしてます、赤いペンで何重にも丸をつけて……。



ふと、細長い二本の脚が器用に机の間を縫ってこちらに向かっているのが見えた。
坪倉洋介。誰にでも明るく話しかけることのできる学年中の人気者で、教師からの期待も大きい。勿論このクラスでも中心的な存在の男子学生だ。

「おー、坪倉ぁ」

私の後ろの席の男子が声を挙げた。そちらに向けられているであろう坪倉の視界からできるだけ外れるように私は背中を丸めた。

「ごめんな。お前じゃない」

悪戯っぽい笑いを含んだ声は透き通っていて雑音の中でもよく聞こえた。
坪倉の声はよく通る。話し上手の秘訣の一つだろう。話自体が面白くない上に低くくぐもってすぐ隣にいても聞き返される私の声とは大違いだ。

目の前に影が落ちた。
反射的に顔を上げるとやや腰を曲げた坪倉が私をじっと見下ろしていた。

「伊藤さん、俺と組もう」

あまりのことに私は間抜けな顔をしたまま硬直してしまった。やっとのことで喉の奥から声を絞り出すと坪倉は僅かに頷いて、また器用に机の間を摺り抜けながら自分の席に戻って行った。私はその背中をぼんやりと見送った。これが少女マンガか何かだったら女子生徒に「何よあの女!」とかひそひそやられてるに違いない。幸か不幸かそういうことはないのだけれども。


心臓が跳ねている。それは甘い気持ちによるものではない。
私は知っている。これは坪倉の同情だ。優しさだ。
いつも一人でいる私を、案の定一人でいる私を、気遣ったのだ。
いや、気遣いは私ではなくクラスへのものだったかもしれない。一人余れば少なからず雰囲気が悪くなるものだ。

いずれにせよほんの一瞬の優しさが彼の命取りになるだろう。
これから行われるグループワークは一時間ニ時間なんてものではなく、一ヶ月以上かけて行われるのだ。
人並み以上に仕事をするならまだしも、私は人付き合いだけでもなく発想力も手先も不器用だ。

──最低だ。

私はこれから坪倉の数ヶ月を奪うのだ。
罪悪感で押し潰されそうになりながら私はじっと講師の話を聞いていた。
時々、度の合ってない眼鏡をかけたみたいに、レジュメの文字が歪んだ。


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