卒業


学生最後の授業が終わった。
ぞろぞろと学生が教室から出て行く中、私と友人は窓の外を見ていた。
周りに高い建物があまりないので、六階からの眺めは気持ちがよかった。遠くを走る電車がおもちゃのようで面白かった。落ち始めた陽が少し眩しい。

「とうとう卒業だね」

友人がぽつりと呟いた。卒業できて本当によかった、と冗談めかして私が言うと、彼女はクスクスと笑った。
滅茶苦茶な研究テーマを立ててしまった私は、最後まで教授に嫌な顔をされながらどうにか卒業論文を完成させた。
就職も、結局正社員にはなれなかったが、ひとまず契約社員という形で来年度から勤めることになっていた。

「でも、卒業したら伊藤ちゃんになかなか会えなくなるね」

笑い終わった友人が、今度は眉を下げてそう言った。そうだね、と私は答える。

「大丈夫だよ。あなたならきっと就職先でもすぐに友達できるから。だから私のことはさっさと忘れて…」

言いかけてはっと息を飲んだ。友人が、ものすごい形相で私を睨みつけていたのだ。私は今まで、彼女のこんな表情を見たことがなかった。

「…なんでそんなこと言うの?」

彼女は静かに呟いた。

「もしそんなこと本気で思ってるなら、伊藤ちゃんは馬鹿だよ」

そう言った友人の目から一粒、涙がこぼれた。
大切な友人を傷付けてしまったことに大きなショックを受けたが、具体的に何がどういけなかったのか分からず私はただ狼狽えた。

「伊藤ちゃんは、伊藤ちゃんなんだよ。私の大切な伊藤ちゃんだよ。誰かが代わりになれるものじゃないよ」

私はさぞかし間抜けな顔をしていたのだろうと思う。
それは、私の世界をぐるりとひっくり返してしまう発言だった。

私は今まで誰かの「特別」になれたことがなかった。私に親しくしてくれる人には必ず私以上に親しい人がいて、その人といる方が楽しそうだった。
だから私の存在なんてたいしたものではなくて、代替可能なものだと思っていた。誰かにとって「一番」や「特別」だったとしてもそれは「一番この世から消えて欲しい奴」とか、「特別嫌いな奴」とか、ネガティブなカテゴリーの中でしか認識されてなくて、私が消えても困る人なんて一人もいないし、みんなすぐに忘れてしまうと思っていたのだ。

それなのに今、私のことを特別だとポジティブな意味で言ってくれる人がいる。私を想って泣いてくれる人がいる。
私はつくづく自分が愚かだと思った。四年間、ずっと友人でいてくれた彼女のことを何も気遣っていなかった。
いや、もしかすると彼女だけではないのかもしれない。今までの友人やクラスメートたちも、私を特別な存在として少しは認めてくれていたのかもしれない。ゼミの教授が私に厳しいのも、私のためを想ってくれているからかもしれない。

どこかで気付いていたはずだった。だけど私は自分が嫌いで、被害妄想の沼に身を投げた。もしや自分はこの人に好かれているのではないか、甘えてもいいのではないのかとふと思う度、もう一人の自分が現れて「そんなはずはないだろう。他人の優しさに甘えるな。お前はいない方がいいんだ、忘れるな」と耳元で囁いた。自分を追い込んでいたのは他でもない自分だった。

「ごめん」と言うと同時に涙が零れた。
私も大好きだよ。もっと一緒にいたかったよ。ああ、なんで早く気付かなかったのだろう。後悔という杭が、胸の殻にヒビを入れた。
誰もいない教室で、夕日に包まれながら私たちは子どものようにわあわあと泣きじゃくった。



私は大切な人たちのために、何かを与えられるように生きていく。きっとまたもう一人の自分がぼそぼそと囁くけれど、今だけは何もかも忘れてそう思いたい。

私の記録はこれで終わる。


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