第三章(1/7)


人の往来する道を、俺は一直線に走っていた。
心に突っ掛かりがあると心臓が縺れるような感じがする。そのせいかいつもより息が切れて汗が噴き出る。走るのがこんなに辛かったことは今まであっただろうか?

何里も走ってようやく目指していた村に到着した。
少し町外れの、のどかな村だった。記憶を頼りに、そこにある一軒の家を訪れたが、門も玄関も開いていたのでそのまま無遠慮に上がり込んだ。

「桃!どこだ!桃!!」

声を張り上げながら廊下を踏み鳴らしているとすぐに微かな声と香ばしい匂いを感じた。

「桃…!」

俺の心配とは裏腹に、奴は呑気に裏庭で餅を焼いていた。丸めた背中に渋柿色の羽織りを被せ、そわそわした様子で餅の焼け具合を見ている。

「遠路はるばるご苦労様と言いたい所だが、お前の分の餅は無いぞ。ああ、そうだ。茶を沸かしてくれないか。茶ならいくらでも──」

「んな事言ってる場合かよ!」

そこで桃はようやく俺の方をちらっと見た。

「なんだ血相変えて。何かあったのか」

「何かって…」

桃はよそ見している間に餅が焼けすぎてしまわないよう箸で持ち上げてから改めてこちらを見る。
本当に何も知らないみたいに。

「お前…」

声が掠れた。唾を飲み込んでからもう一度口にする。

「お前…徴兵されたって…」

そんなことかと言わんばかりに桃は息を吐いて餅を網の上に戻した。

「そんなに高い所から言われても仕方ない。まあとにかく座れ。いや、その前に茶を入れて貰おうか、茶を」

「……分かった」

醤油の焦げる匂いに送られながら俺は台所へと向かった。



時たま湯呑みの茶を啜りながら、海苔を巻いた餅を嬉しそうに頬張るこの女はいったい自分の状況を理解しているんだろうか。

俺達が日々をいたずらに過ごしている間、世界はみるみる顔色を変えて行った。
各地で争いが起こり、どいつもこいつも権力だの土地だのに固執するようになった。
雄君とか名将とか持て囃される中で、この辺りの人々が注目したのは古来からの英雄・桃太郎だった。
女、それも鬼を退治しない桃太郎。そうして疎まれていたのも都合がよかった。

──鬼を退治しない桃太郎なんて必要ない。ならばせめて戦に参加せよ。幸いお前は腕が立つ。もしも嫌だと言うのなら、代替にその首を貰おう。

この恐喝に不満を挙げるものはいなかった。それどころかそうだ鬼退治に行かないなら命を差し出せ戦場に散れと野次を飛ばす者もいた。
この辛い仕打ちを、桃は全てを押し黙って聞いていたそうだ。

「今からでも遅くねえ。鬼退治に行こう」

縁側に二人並んで腰掛けている。
俺の提案を桃は笑って跳ね退けた。

「行ってどうするつもりだ?」

「鬼の首を取って帰る。鬼を退治すれば戦に行かなくて済むんだろ?」

「馬鹿か」

湯呑みに息を吹き掛けて桃は言う。

「鬼退治なんてのは口実に過ぎない。仮に私がわんさか鬼の首を取ったとして、奴らが折れると思うか?『素晴らしい!ならば人間の首なんてたやすいものだろう』とか言われるのがオチだ」

「なんだよ…じゃあ戦に出るってのか」

「どうしてそう極端な答えになるんだ」

桃はわざとらしく音を立てながら茶を啜った。

「何もしないという選択肢もあるだろう」

あまりの余裕ぶりにああそうか、と言いかけて慌てて息を飲んだ。
戦に参加しない代償は。

「お前まさか…冗談だろ?」

「冗談なんかじゃないさ」

餅から俺の顔に移った桃の目は、その真剣さを示す光を宿していた。

「なんで…そう…なるんだよ……」

その眼差しに射竦められながらも俺は必死に言及した。

「戦なんて無道だ。それは分かる。でもだからってお前が死ぬことは──」

「私には人は斬れない」

桃は俯いてそう言った。しばらくの間沈黙が続いた。
遠くの方で鳥が鳴いている。
陽が昇って落ちるほど、俺にはその時間がひどく長く感じた。

そういえばいつかそんなことを言っていた。桃太郎に憧れ、鬼退治に行った人間のあいつが。

「だから、それってどういう意味なんだよ」

「どうもこうも言葉通りだが…話せば長くなる」

「話せよ、全部」

俺は桃太郎を──桃のことを知らな過ぎる。
時々、桃は今みたいに自分のことを諦める。ある特定の領域で一線を引く。
俺はその領域も理由も知らずにただ不満をぶつけているだけだ。だから知りたい。桃の全てを。

「仕方ない奴だな……ま、今なら良いだろう」

桃は眉を八の字に曲げて湯呑みを置き、一つ咳ばらいをして、むかぁしむかしと語り始めた。


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