巨大な桃の木。
その下に、一人の女が立っている。
女はこっちを向いて笑っている。俺はこの女をよく知っている。
そいつの目の前まで行って、俺はそいつの名を呼ぶ。手を伸ばす。
風が吹いて、桃の木を揺らす。花が散る。花と一緒に、そいつは消える──
立ち尽くす俺に、桃の木がぐらりと揺れてのしかかる。重い。苦しい。重い。
「重い…っ!!」
二つの赤い瞳と目が合った。瞬きを二回した後、奴は口を尖らせてこう言った。
「淑女に対して重いとは失礼な犬ッコロだ」
「いいからどけ。何してんだお前」
桃の木の下で笑っていた「あいつ」は、現実では仰向けで寝ている俺に馬乗りになっていやがった。尻で腹を圧迫されているだけでなく、両腕で胸を押さえつけられていたのだから堪らない。
怠慢な動きで俺から降りた奴は、そんなことも知らずに平然と言ってのける。
「美女による素敵な目覚めを提供してやろうと」
「最悪の目覚めだっつうの。ったく…お前のせいで変な夢見た」
「夢?」
桃色の髪が、さらりと揺れる。
「あ、いや…何でもねえ」
お前が消える夢、なんて縁起でもないことは言うべきではない。
奴は訝しげに俺の顔をじっと見ていたが、突然、裂けそうなほど口角を吊り上げた。
「なるほど、男盛りの寝起きを邪魔するなど確かに無粋だったな」
「は?何言ってんだお前」
「つまりあれだろう、夢で私と…おっと、まだ布団から出なくて大丈夫だぞ。お前が落ち着くまで外で待っててや」
「お前が落ち着け」
朝っぱらから下衆な妄想を垂れ流す女を頭から布団で包んだ。
女はもごもご言いながら布団を掻き分け、やっとのことで頭を出す。
「なんだ、違うのか」
「違う。一寸たりともかすってない」
「それはそれでちょっと不安になるぞ」
「うっせーな。もう黙ってろよ」
「ん。まあとりあえず」
女は勢いよく布団を跳ね飛ばした。
「おはよう、犬」
「おはよう…桃」
小窓から差し込む朝日に照らされた笑顔は、夢のそれよりいくらか生気に満ちていて少しほっとした。
桃に急かされるままに俺は身支度を始めた。
そもそも何でこいつはここにいるんだ?家を教えた覚えはねえが…。
そのことを尋ねると、桃は得意げに顎を上げた。
「『ちょっと前にプチ失踪した後ひょっこり帰って来て、それからというもの時々出掛けては夜遅くにぐったりして帰って来る怪しい犬はいないか』と里の者に聞いたら簡単に教えてくれたぞ」
「おい待て、何でそんな不審者的な扱いになってるんだ」
茶を出せとうるさいので入れてやったのを、ふーふーやりながら桃は言う。
「お前のことだから、私や鬼ヶ島に関することは他言してないんじゃないかと思ってな」
「う……」
図星だった。
桃太郎反対派だった俺が、桃太郎のお供になってました、まして鬼にズタボロにされて帰って来ましたなんて口が裂けても言えるわけがない。桃に申し込む手合わせ(こいつが気の赴くままにぶらついているせいで不定期だ)や特訓にも人目を憚る必要があった。
「だから仮にお前が村で変質者と思われていようが自業自得なことだ。まあ私が里に来たことで、黙っていようとも溢れるこのカリスマ性に感づく犬たちもいるかもしれないが…」
「あーはいはい。で、今日は何だ?こんな早くから修業か?」
「違う。…重大な話だ」
突如深刻な顔つきになって湯呑みを置いたもんで、俺は思わず生唾を飲み込んだ。桃の花と共に散るあの夢がフラッシュバックする。
「ここから一里ほど行った所にある、『吉備屋』という団子屋を知っているか?」
「…いや……」
団子屋?吉備?何か嫌な予感がする。
「そうか」と小さく息を吐いてから、桃は続ける。
「今日そこが二十周年を迎えるんだが、記念に特製きびだんごを販売してるんだ。ところがお一人様二袋限定と来た」
「…それで」
桃はいつになく力の篭った目で言った。
「協力して欲しい」
「断る」
ぽかんと口を開けた間抜け面に言ってやりたい、俺はお前のパシリじゃない。
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