第一章(6/6):-1


その日、私は往診の為に里に降りていました。
夜はすっかり更け、綺麗な満月が昇っていました。春とはいえ夜は少し肌寒く、私は羽織りを一つひっかけ、薬箱と提灯をそれぞれ手にして帰路についていました。

人通りの少ない路地でしたから、民家の明かりはほとんど消えていました。そんな中、一軒だけ明々と光っている家があったのです。
前を通りかかった時、大勢の笑い声がしました。宴会でもしているのだろうと、普段なら気にもしないはずでしょうが、その時は違いました。
ふと好奇心に駆られ、そっと戸を開けて覗いてしまったのです。

そこで私は見てはいけないものを見てしまいました。
いえ、結果として見るべきだったのでしょうが、当時の事は今思い出しても寒気がします。

戸を開けた時、つんと、生臭さと甘さが混じったいやなにおいがしましたが、そんな中、四、五人の男が部屋の真ん中でひしめき合っていました。
ひどく酔って興奮しているようで、着物も乱れ、挑発するような調子で何かを卑下し、嘲っているのです。
一体何をしているのだろう。暫く目を細めて観察していましたが、人と人、いや鬼と鬼との間に一瞬白くて細い手足が覗いた時、私は全てを悟りました。
どうしていいか分からず、ただ漠然と恐ろしくて、提灯と薬箱を手に引っ掛けて一目散に逃げました。

走って、走って、無我夢中で走って、里の外れまで来た時、私はやっと立ち止まりました。
心臓は飛び出しそうな程早く強く脈打ち、全身冷や汗かも脂汗かも分からない気持ちの悪い汗でぐっしょりと濡れていました。呼吸も上手く出来ません。
星空を見上げ、落ち着いて来た所で今度は嫌悪感と罪悪感が激しく私を襲いました。血の気がさっと引き、手足が震えました。胃の辺りがぐるぐる回って不快で堪りません。
ついに立っていられず、膝から地面に落ちると嘔吐しました。どれだけ胃の中のものを吐いても白い手足は脳に焼き付いて消えてはくれません。月明かりに照らされた己の汚物を見て、後悔に押し潰されそうになりました。

重い足どりで、それでも気持ちは焦って。生きた心地のしないまま私はもう一度あの家に向かったのです。



家の明かりはもう消えていました。
心のどこかで、ほっとしている自分に再び嫌悪感を抱きつつ、敷地に侵入しました。
戸を慎重に開けると、そこは先程の出来事が夢であったかのように静まり返っていました。
本当に夢ならよかったのですが、いやなにおいは残っていましたし、何より部屋の真ん中に小さな黒い影が転がっていたのです。

提灯でそれを照らしてみると、まだ裳着して間もないような少女が浮かび上がりました。
引き裂かれた着物から覗く白い肌は所々血や汚物に濡れ。表情は無く虚ろな眼からはただはらはらと涙が零れておりました。私は人形と化した彼女を自分の羽織りに包み、腕に抱えて追われるように逃げ帰りました。
玩具を奪われた鬼が探しに来るといけないので誰も知らない原料庫に室を敷き、かくまいました。

それから数日、まだ完全に包帯も取れていない彼女を手放すのは医者としても心苦しかったのですが、自分の小船に乗せ人間の住む国まで渡しました。
治療している間も船を漕いでいる間も彼女は一言も喋りませんでした。泣きも笑いもしませんでした。怯えや疑いを奥に隠した眼で、ただじっと私を見つめていました。
私は彼女の正体を知っていました。あの時、嘲い声の中に名が紛れていたからです。それに、この柔らかい匂いは──

向こう岸に着くと私は彼女を降ろし、きびだんごを持たせました。自分で言うのも何ですが、私特製のきびだんごは薬味を練り込んでいるので、栄養豊富で治癒効果があるのです。
鬼から貰った得体の知れない団子など食べてくれないかもしれません。それでも私は。

「いいじゃないですか、人は。変わろうと思えばいくらでも変われる」

でも鬼は──

俯く彼女に独り言まがいに言うと、一瞬小さく頷いたように見えたのは目の錯覚だったのでしょうか。

おぼつかない足どりでやがて彼女は消えて行きました。
きっと彼女の心は身体よりもズタズタに引き裂かれている事でしょう。これからどう生きて行くかなんて私には分かりませんでした。ただ幸せな人生を歩んで欲しい、そう願いました。



五年後、立派になった彼女が三人の仲間を率いて現れた時、私の胸の奥に長年つっかえていたものは雪解け水のように流れて行きました。
彼女はもう一人ではない。
私が笑うと彼女も照れ臭そうに微笑みました。
季節外れの桃の薫りが、ふわりと舞った気がしました。


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