最期の灯火


人はいつか必ず死ぬ。
それが年老いた命なら残された時間はなお短い。
分かっている。分かってはいるんだ。


父が、私の愛しい父が、もうすぐ死ぬ。
もはや己の身体を起き上がらせることさえできない。我が父君は、その瞼を閉じたまま、浅い息を繰り返す。

「父さま。待っていて下さい。桃が薬をお持ちしますから」

父の耳元で静かに告げると、旅路の支度を整えた。玄関の戸を開けようとしたところで、母に名を呼ばれ、振り返る。

「今は、なるべく父さまの傍にいてやってくれないかい……」

囁くように言うと、母が私の左袖を掴む。背中の曲がった母はとても小さい。母の手は震えていた。

「母さま。大丈夫です。父さまに飲ませる薬を探して来るだけです」

「薬と言ったって、もう父さまは……」

母の手を両の手で握り込んだ。母の手も、年老いて枯れ枝のように細く、冷たい。
その時かすかに声がして、私と母は奥に目をやった。

「桃…もういい……、儂は、もうじゅうぶん、生きた。最期に、お前の顔を見ていたい……」

僅かに目を開けて息も絶え絶えに父が言葉を発する。再び目を閉じればそのまま息を引き取ってしまいそうだった。

「直ぐに帰って来ますから。少しだけ待っていてください」

強く言うと私は玄関を飛び出した。
走って、走って。目指す先は桃源郷へ。


桃源郷の桃は、長寿の霊薬だ。
一口食べれば病気平癒、二口食べれば若返り、三口食べれば不老不死。
桃源郷は行こうとして行ける場所ではなく、また、出ようとして出れる場所でもない。だが、私は桃源郷で生まれた妖。行くも帰るも自由自在だ。
だからといって、人の寿命にむやみに干渉してはいけない。だが、愛しい親の苦しそうな姿を見るのは、命を失うのは、あまりにも辛い。


桃源郷は随分遠い。禁忌を犯そうとしている私を拒絶しているのだろう。

「頼む。不老不死になんてするつもりはない。ほんの少しだけでいいんだ。あとほんの少しだけ──」

山道を走りながら、懇願する。こうしている間に父の命は刻一刻と終わりに近付いている。どうか。どうかどうかどうか──!


川の流れる音が聞こえた。はっと立ち止まる。辺りは霞に包まれていた。立ち並んだ桃の木から甘い匂いが立ち込める。私は近くにあった木から薄紅の実をもぎ取った。
ずっと遠くから仙人どもが哀れな目で私を見ているのを感じた。哀れだろう。愚かだろう。何もない永遠の国で拱手傍観に徹するお前たちには理解できないことだ。

山道を転がり落ちるようにして帰路に付く。あちこち擦り傷まみれで血が滴り落ちるが構わない。家が見えた。

「父さま!!」

戸を破りそうになりながら勢いよく開けた。
薄暗い部屋。その中央に布団を敷いて父が寝ており、手前で渋柿色の羽織を着た母がうずくまっていた。

「父さま……」

「桃ちゃん」

母が静かに言った。胸がざわざわと音を立てて毛羽立つ。ゆっくりと振り返った母の顔は、涙でぐちゃぐちゃに崩れていた。

「父さま。薬を。薬をお持ちしました。桃源郷の桃です。どうぞ…」

枕元に座って、果実を父の口元に当ててやる。が、父の口はぴくりとも動かない。ひとかじりして、その欠片を唇の隙間に入れた。水々しい果汁が口の端からつう、と流れ出すだけで、父は目を開けることも息をすることもなかった。
残りの果実が私の手から溢れて畳を転がった。

「父さま。父さま!!嫌だ。嫌です。どうして……」

間に合わなかった。間に合わなかった。間に合わなかった!!
私は布団のかかった父の胸にすがりついて一晩中泣いた。父は灯が消えるその刹那まで私を探していたと、母が教えてくれた。
こんなことなら、桃など取りに行かなければよかった。父の言うとおり、傍にいればよかった。私はとんだ親不孝者だ。こんな娘で父は幸せだったのだろうか。許してくれるのだろうか。


「母さんは、許さないよ」

父の葬式が終わった後、母がぽつりと言った。

「母さんの時は最期まで見送りなさい」

「……」

私は何も言えなかった。当然愚行を繰り返すつもりはなかったが、母にもその時が来ることを考えたくはなかった。




数年後、布団から出られなくなった母を、私はじっと見ていた。少し強く握れば折れてしまいそうな手を壊さないようにそっと握って、私は母に声をかけ続けた。

「桃ちゃん」

「はい」

「桃ちゃんが来てくれて、母さんも、父さまも、とっても幸せでしたよ」

ありがとう、と言って母は柔らかく笑った。

「それは──」

私もです、と言ったけれども。それ以上母から何も返って来ることはなかった。細い手は私の手からするりと抜けて。


私はもう百何年、何十回とこんなことを繰り返しているのだろう。それでも。

「遺されるのは、辛いものだな」
 
私もまた、何度も何人にも遺している。
考えるのも、思い出すのも、悲しくて苦しくて仕方ないけれども。私を愛してくれた人をなかったことにしてしまわないように。

母の葬式が住んでしばらくの後、私は旅の支度を始めた。父が愛用していた風呂敷にきびだんごを包んで。

「明後日には帰って来ます」

いつものように声をかける。誰もいなくなった部屋からは返事はない。
母の羽織をひっかけて、私は玄関の戸を閉めた。


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