第三章(3/7)


頭に、桃の手が触れた。

「なにもお前らを信用してないわけじゃない。それだけは解ってくれ」

桃は少し乱暴に俺を撫でた。

「ただ、もうどうすることもできないんだ。人が、時代が変わり始めている」

桃は俺の頭に触れた腕を今度は背中に滑らせ、ぽんぽんと叩く。

「鬼ヶ島の鬼は人の悪の心だ。人は自分の中にある悪を拒絶し、分離することで生きて来た。しかし今、いや私がお前たちと出会った頃から鬼の数は減って来ている…これがどういうことか解るか?」

俺は働かない頭でぼうっと聞いていた。
桃は小さく息を吐いてから続けた。

「人の心が悪に染まり始めている。善の心を失った人は、鬼になる──」

桃は静かにそう言って目を閉じた。

「人の世に鬼が溢れれば、鬼ヶ島の鬼は必要ないからな。奴らは自然に消える」

鬼もなかなか難儀な奴だよ、と桃は笑った。
確かに難儀だ。桃も、人も、なにもかも。

「私は鬼を斬るのが役目だ。人を護るのが役目だ。人が鬼になってしまったら、私は何をすればいい?」

俺を見つめる桃の目は、とても悲しそうな色をしていた。

「だからって…なにも殺されに行かなくてもいいじゃねえか……」

「いや、それが一番の得策だ。お互いにな」

桃はじっと空を見上げた。数秒間、沈黙が流れる。
この時間が永遠ならよかった。このまま桃が殺される日が来ないなら。

「桃太郎の魂は桃源郷に還る」

独り言のように桃は呟いた。

「そして新たな肉体を持って現世に落ちる」

どこかで聞いたような話だと記憶を辿り、桃が持つ刀のことを思い出した。
桃の枝が化けた刀。不用になっても別の場所から再生した。桃はそれを「還って来る」と言っていた。

あれと同じようなもんかと聞くと、桃は「あんなに直ぐは生まれ変われないがな」と軽く言って笑った。

「生命が芽吹く季節にならなければ肉体を形成できない。もっとも、桃源郷に四季はないが…それでも現世の力は少なからず作用するもんだ」

首を傾げて少し考えるふりをしてから、桃は続ける。

「つまり、早く次の桃太郎を生まれさせたければ冬の間に始末をつけなければならない。遅くとも春──上巳(じょうみ)の節句までにはな」

「上巳…!?」

身体中の血が引いた。
今日は何日だ?如月も半ばを過ぎている。あと半月も無えじゃねえか!

「奴らは…人間は知ってるのか?」

「勿論だ。だから急いでいる。むしろよく待ってくれているものだ」

桃は腕を組んで頷いてみせたりする。

「感心してる場合じゃねえだろ!!」

怒鳴ったって桃にはもう響かないのに、分かっているのに、腹の中がむしゃくしゃして治まらない。

「放っておいても私はあと五年も生きられないぞ」

しんとした空気に、桃の声は静かなのによく響いた。

「桃太郎の寿命は短い。戦う為に生まれて来た者が老いて衰えては意味がないからな」

「…そんなの聞いてねえぞ……」

まだ大事なことを隠していやがった。そのことに腹が立つが、やっぱり何より腹立たしいのは桃が自分の命を諦めてる事で。

「あと五年だろうが三年だろうが、最後まで生きやがれ!」

「もうそんな余裕はない。ただでさえ桃太郎の成熟には三年…」

「人間の都合なんざ知るか!!」

無我夢中で俺は桃の胸倉を掴んでいた。桃は眉間に薄く皺を寄せて俺を見上げる。

「…だから、さんざん説明して来ただろう。私は人の意に…」

「うるせえ!人が人がって…てめえの意はどうなんだ!!」

「私は…!」

不意に桃の眉が下がった。

「私は、見たくないんだ…他人が、自分が壊れるところなんて、もう、見たくないんだ……」

桃は震える唇を噛み締めた。目尻から滲んだ雫が落ちた。

「…これは私の“意”でもある。今まで好き勝手やって来たんだ、最後まで好きにしてやるさ」

俺の手を軽く払って、桃は袖口で頬を拭った。

「ほら、陽が落ちる前に帰れ。こちとら女の一人暮らしなもんでな。雄の獣など泊めてなんかやらんぞ」

そう言って桃は俺の尻をぴしゃりと叩いた。俺は渋ったが脇腹を鞘尻でつつかれ、尻尾を引っ張られ、玄関まで文字通りつまみ出された。

「桃…お前……」

「私を本当に想ってくれるなら、」

戸に手を掛けた桃が吐き出すように言う。

「笑え。そんな顔はするな。私は主人だ。私の許可なく苦しむな」

桃はそっと俺の顔を撫でた。そして目元を赤くしたまま、歯を見せて笑う。

「……言ってることが無茶苦茶だ」

もう全然わけわかんねえし、可笑しくなって、俺は笑っていた。桃の手を取って強く握り、むせび泣いた。
すげえ格好悪い。全部、桃のせいだ。

桃は俺が落ち着くのを待ってから、俺の手を解いた。

「…すまんが、あいつらによろしく言っておいてくれないか」

「…ああ」

「お前には毎度世話をかけるな」

「今更だろうが」

俺が言うと桃は小さな笑い声を上げた。

「そうだな。お前は下僕、私の犬だ。こき使われて幸せと思え」

「下僕じゃねえしそこまで調教されてねえ」

「なんて往生際の悪い奴なんだ」

桃はしかめっつらを作ってみせた。そして少し俯いた後、顔を上げてしっかりと俺の顔を見た。

「じゃあな」

「…おう」

いつもの別れ際みたいに、軽い調子で。

玄関の戸が閉められた。
たった一枚の戸で隔てられているのに、向こう側にはまだ桃がいるのに、俺にはもう開けることができなかった。


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