かの客人がやって来たのは昼も過ぎた頃だった。
手土産の入った巾着袋を見せつけて、よお元気かと笑う。
「君の土産はいつもきびだんごだな」
袋の中身を皿に移し、茶を入れてやる。彼は片眉を吊り上げて「不満があるなら結構」ときびだんごを頬張った。
「しかし何度見ても奇怪な身体に生まれたものだな」
己(おれ)が改めて言うと、相手はにやりと気味の悪い笑みを浮かべた。
「爺が発情したか?」
まさか。と己はかぶりを振った。
「桃太郎でも女に生まれることはあるのだな、ということだ」
彼は ああ。と返事をしてまじまじと自分の身体を見た。
「私も始めは驚いた」
「男として幾年も過ごしていたのだ、さぞ複雑だったろう」
「いいや。心は身体に順応する。私は女として生まれた、だから私は“私”だ」
そんなことよりも、と彼は声を小さくした。
「“私”の中に色んな私が眠っている。その方が複雑だ」
「それは自分の中に他者が存在している、ということか」
彼は暫く考えてから口を開いた。
「或いは他者に近いのかもしれない。だが全て私だ。十年前の、五十年前の、さては百何年前の私が。私の中に蓄積されて行く」
彼は言いながら皿の上のきびだんごを一つ一つ積み上げた。丸く柔らかい団子の塔は何個もせぬうちにぐちゃりと崩れた。
「しかし君はそれを全て覚えているわけではないのだろう」
そう尋ねると彼は真剣な顔をして己を見た。
「そうだ。生まれ落ちる時に殆どの記憶は消える。だから新たな肉体にも順応できる。だが前の記憶も途切れ途切れに残っている。ふとした拍子に思い出す」
それをよく分かっているのはお前じゃないか、と彼は掠れた声で呟いた。
「前の私は、お前のことを忘れていたのだろう。何十年も、私はお前を独りにしていたのだろう」
「なに、たったの三十年だ。時々旅人が迷い込んだりするのでまったく独りというわけでもなかったぞ」
それに今は覚えてくれているではないか。それで十分だと己が言うと彼は渋い顔をした。
「いつかまた忘れてしまうのにか」
それでも構わないと己は言った。気が向いた時にでもこの暇を持て余した年寄りの相手をしてくれればいいのだと。
どっちが年寄りか分からぬと言って彼は笑った。
しかして忘れるなら忘れたままでいたいものだな、と彼の笑顔はやおら淋しそうな気配を見せた。
「前の私の記憶がないんだ。どんな人柄だったのか、どんな供を連れていたのか、妻はいたのか…何も覚えていないんだ」
彼は握りしめた拳を膝の上に置いて俯いた。
「再び思い出した時、もう彼らはこの世を去っているかもしれない。その時の哀しみを、どう癒せばいい?」
「だから今思い出したくて方々歩き回っているのか」
己が聞くと彼は「解らない」と肩を落とした。
「思い出すのは苦しい。なのに私は何をやっているのだろうか」
苦しそうに吐いた息が、湯呑みの湯気を揺らす。
「忘れる哀しさを知っているからだろう。大切な人の存在を忘れてしまう哀しさを。取り残される哀しさを」
ゆっくりと彼は目を閉じた。
「覚えているのも忘れるのも苦しい。千歳を生きるのは難儀なものだな」
ああ、まったくだ。
呟いて彼はまたゆっくりと目を開けた。
ところでお前は何歳になったんだ、と聞かれて己は頭を捻った。いつからか数えるのをやめたからだ。
「この姿になって四、五十年はなるかな」
「なるほど。ようやく外見相応の年齢になったわけだな」
彼は己の顔の皺をまじまじと見つめた。
「お前は女の身に生まれた私を複雑だろうと言ったな。だが私には若くして老いたお前の苦労の方が痛み入る」
「なあに、確かに暫くは生きた心地がしなかったが、この身体も悪いものではなかったさ」
己が笑ってみせると彼は不思議そうな顔をした。
「なぜ乙姫様はあんなものを渡したのか、なぜ己をこんな姿にしたのか。嘆き悲しみ、怒り狂ったものだ。しかし最近になってようようその意味が解って来た気がするよ」
意味、と彼は口の中で繰り返した。
「ああ。森羅万象いかなるものにも意味があるはずだ。己の身が朽ちた意味も、君が女に生まれた意味も」
その答えを今は持ち合わせていない。答えを知るにはこれからさらに何十年と月日がかかるのだろう。さては知ることもなく朽ち果てるのかもしれない。
「お前は自分の命が怖くなったことはないか」
躊躇いがちに彼は聞いた。
「もしや自分の命は永遠なのではないかと考えることはないか」
「あるさ」
己は答えた。
人や時代の移り変わりに取り残され続ける恐怖を。世の理から外れてしまった苦しみを。
「しかし己は不死ではない。そう感じている。己だけではない。君も、鬼も、乙姫も。きっといつか必ず終わりが来る」
彼はしばし沈黙を挟んでから「そうだな」と言い、茶を口にした。
「人のくせに、年の功か。分かった口を利く」
「余分に歳を取った爺の戯れ事さ。忘れてくれ」
「いいや。これこそ覚えておこう」
彼は皿を寄せるとよっこらしょと立ち上がった。
「そろそろ御暇するとしよう。お前と違って私は忙しいのでな」
またいつでも遊びに来いと言うと彼は照れ臭そうに微笑んだ。
「じゃあな。哀れな友よ」
彼はそう言い置いてうちを出て行った。
遠ざかる気配を感じながら己は目を閉じた。
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