赤く腫れ、じんじんと熱を持った左頬を鬼は手の平で覆った。
うろうろとさまよう瞳の前には腰に手を当てた雉がいた。彼女は肩を上下させながら、その場に倒れ込んだ鬼を冷たい目で見下ろしていた。
ほんのささいなことだった。
足をくじいて苦しそうにしていた雉を、医者である鬼が治療しようとした──
「っ触らないで!!」
途端、すさまじい勢いで平手打ちが飛んだのだった。
男嫌いとは聞いていたが、ここまでとは──
ようやく混乱が治まった鬼は悲しそうに眉を下げた。
「そ、その…急に触ろうとしてすみませんでした。でも…やっぱり治療しないと…」
「あたしは飛べるからいいの。余計なことしないで」
「や、でもですね…」
「あたしあんたのこと大っ嫌いなの」
冷たく言い放たれた言葉に鬼の胸は凍りついた。
「男だからとか鬼だからとか以前にね。何でか分かる?どうせ分かんないでしょ、あんたには」
「…そ…それは…」
鬼は蚊の鳴くような声で言った。
「それは…私が弱々しいからですか…」
雉は鼻を一つ鳴らした。
「それもあるけど。もっと違うことがあるのよ」
鬼は俯いて考えた。
私は所詮鬼だ。悪い所なんていくらでもある。一体その中の何が彼女に──
ふと、視線の先に雉の足首が見えた。右足首が赤く大きく腫れ上がっている。
違う、私が今やるべきは──
「治療です」
「何?」
雉は怪訝そうな顔で鬼の頭をじっと見ていた。
「あなたが私のことをどんなに嫌おうが結構ですが、今私には医者としてあなたの治療をする義務がある」
「なっ…」
──そういう所も嫌いなのよ!
雉は心の中で叫んだ。そして「義務なんてない」そう言おうとした時、向こう側から釣竿を手にひょこひょこと桃太郎が現れた。
「おう、お前らどうした」
二人の顔を交互に見比べながらきびだんごを頬張る桃太郎に、鬼は雉が捻挫の治療を拒んでいることだけを伝えた。
桃太郎は暫く黙って聞いていたが、話を理解するなり雉に向かい合った。
「治療しないのは勝手だが足手まといになるのは御免だ。もし治療しないならお前とはこれきりだ」
「……」
それから暫く沈黙が続き、三人の間を裂くように冷たい潮風が流れた。
足首に綺麗に巻かれてゆく包帯を見ながら雉は唇を噛み締めていた。
何のためかじわりと目に溜まった涙に包帯の白さがよく滲んだ。
──大嫌いだ。
時々隠れて目を袖で擦った。
鬼はできるだけ何も見ないように、大きな背中を申し訳なさそうに小さく小さく縮めながら意識を彼女の足首にだけ集中させていた。
──どうして嫌いだか分かる?
その背中を見つめて雉は頭の中で問いかけた。
──大嫌いなのよ。
あたしが大好きなあの人の心を奪っておきながら、あんたは何も気付いちゃいない。どんなにあの人があんたのこと、好きかなんてちっとも知らないくせに。
そうやって誰にでも優しくする所も、いつもヘラヘラしてる所も、急にマトモになる所も、全部大っ嫌いなのよ!
「…これで、ひとまずは大丈夫です」
静かに鬼が言った一言を合図にしたように桃太郎が家の戸を開けた。雉は慌ててもう一度袖口で目尻を拭いた。
「おお、終わったのか」
桃太郎はそのまま室内に上がり込んでまるでよくできた美術品でも眺めるようにして雉の足首を見た。
「…桃ちゃん」
「ん?」
雉は涙を堪えながらなんとか消えそうな声で言った。
「ごめんなさい」
桃太郎は長い間雉の目を覗き込んでいたが、やがて微笑しながら立ち上がった。
「何を言う。釣りなんて座ってでもできるじゃないか」
「釣り…?」
そうだ。桃太郎が手にしていた釣竿。今日は皆で釣りをする約束をしていたのだ。
「しかし今日は駄目だな。一日二日延ばすか。よし、あいつらにも伝えて来る」
「あ…!桃ちゃん」
家を後にしようとする桃太郎を雉は咄嗟に引き止めた。
「なんだ?」
ふわりと桃色の髪を揺らして桃太郎が振り向く。雉は胸が締め付けられる心地がした。
「…ありがとう」
あたしらしくないな、と雉は思う。
どうしてこんなに苦しいんだろう。いつものあたしならどうってことないのに。
右足の包帯が、ほんのりと熱を持つ。
「ああ、私は優しいからな」
桃太郎が白い歯を見せて笑う。雉が微笑して小さく頷くと、玄関の戸がゆっくりと閉まり足音が遠ざかった。
隙間風吹き込む、古ぼけた重い戸を雉はいつまでも見つめていた。
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