部活のススメ。(1/4)


「家に帰りたい」

そう言い出したのはいつ頃からか。

「いい加減にしなさい!バカッ!」

リビングのラグの上でごろごろ転がりながら駄々をこねる妹を詩織は叱りつけた。

「やだー!帰るー!」

「帰るってどこに?」

「…前のおうち」

両親と共に暮らしたマンションはもうとっくに空けていた。

「行ったって誰もいないよ」

「わかってるよ…」

優は俯せになり、暫くうーうー唸っていた。詩織はやれやれと肩を竦めた。

「わかったらもう…」

「でも帰る!」

優は叫び、また手足をばたつかせた。

──なんて聞き分けのない!

カッと頭に血が上った。

「そんなに帰りたいんだったら帰ればいいでしょ!あんたなんか知らない!」

怒声に驚いて優は起き上がり、茫然として詩織を見上げた。徐々に唇は固く結ばれ、目が潤む。

「…帰るもん、帰る!」

優はパタパタとリビングを出て行った。玄関のドアが大きな音を立てて閉まった。

詩織はソファーに脱力した。
何であの子はいつもああなのか。目を閉じると広く静まり返ったリビングに壁掛け時計の音だけがこだました。

「きょうだいゲンカか?」

緊張感のない声とともに、純がやって来た。

「あ、うん、ちょっとね」

「ふーん」

純は詩織の前にあぐらをかき、テレビを点けた。

「…帰りたいんだって、前の家に」

テレビでは天気予報が流れていた。曇りのち雨。「降るのか」とだけ短く呟き、純はすぐチャンネルを変えた。

「でもまあ、そりゃそうなるんじゃねーの?ええと…」

チャンネルを次々と変えるさほど大きくもない背中を見つめながら詩織は次の言葉を待った。

「あっ、ホームシックだ!」

世紀の大発見でもしたかのように嬉しそうに振り返る姿を見て詩織は少し笑った。

「そうね」

「つーかお前は?」

「何が?」

くりくりした黒い眼が詩織の顔を覗き込んだ。

「寂しくねーの?」

胸がちくりと痛んだ。

「そりゃ…私だって……」

寂しくないわけじゃない。でも、一人ぼっちじゃない。優がいるし、三兄弟や煉もいる。それに色んなことがあって、そんなこと思ってる余裕なんてなかった。きっと。
両親の顔が頭を横切り、急に身体が冷たくなった。

「…純は」

「ん?」

──駄目だ。これは聞いちゃ駄目だ。

もう一人の自分が必死にブレーキをかける。
しかし、少し遅かった。

「純は、寂しくなかったの?」





清水ほのかと皇遥は唯一無二の親友だった。
家が近所だったということもあり、幼い頃から二人は姉妹同然に過ごし、家族にさえ言えない秘密も語り合う仲であった。

やがて二人が高校を卒業する頃、ほのかの大学進学と共に父の転勤が決まった。なかなか手の届かない、ずっと遠い所にほのかは行ってしまった。遥もまた、社会に出て慣れない仕事に翻弄されていた。
しかし二人の絆が浅くなることはなかった。手紙を交わし、互いに慌ただしい生活を送りながらもできるだけ定期的に会うようにしていた。
そうして時は見る間に過ぎ、二人はそれぞれ結婚し、自立し、ますます異なった生活を営むことになる。

ハルの結婚式は本当に綺麗だった、とほのかは思う。
白いベールに包まれて微笑む彼女は長年連れ添ったほのかさえ見たことがないぐらい幸せそうだった。

「おめでとう」

披露宴で祝福の言葉を述べると、チークで薄く染まった頬をさらに赤らめて彼女はありがとう、と照れ臭そうに笑った。
そして色の白い指がほのかの左手の薬指にそっと触れた。

「次はホノの番だね」

その頃ほのかにもまた、婚約者がいた。ほのかが首を縦に振ると、遥はそろそろと指を伸ばし、今度は両手でほのかの左手を包み込んだ。

「…ねえ、ホノ。もしも、もしもだよ」

遥は言いにくそうに小さく囁いた。淡いグロスでつやつやとした形のいい唇に見とれながらほのかは頷いて次の言葉を催促した。

「もしも、子どもが生まれたら…」

そこまで言って遥は真っ赤になって俯いてしまったが、ほのかにはすぐに言葉の先が理解できた。

「分かってるよ。ハルの子どもは私の子ども、私の子どもはハルの子ども。だって親友だもんね」

ほのかが言うと遥は、はっとしたように顔を上げ、ほのかの手を握りしめた。
その時遥が見せた満面の笑みは、ほのかの胸に心地よく広がる少女時代の変わらない笑みだった。
いつまでも続く幸福が彼女達には約束されると、その場にいた誰もがそう思っていた。



遥が死んだ。
二年前の初夏のことだった。
たまたま乗り合わせたバスが転倒事故を起こしたのだ。

──どうして?

数々の死者の中で唯一奇跡的に『綺麗なカタチ』で残った青白い顔にほのかは何度も問い掛けた。眠れる如き死に顔は応えることを知らず。

「ハル…ハルぅ…」

鉛のように重たいものがのしかかり、立っていられなくなった。足場が崩れて闇に包まれた。
真っ暗闇の中、ぼんやりと光るものがあった。

──あ!

ほのかが顔を上げるとそこには動くことのない唯一無二の友の姿が変わらずあった。しかし先程よりもどことなく穏やかな表情をしているようにほのかには見えた。


光の先にあったのは三人の少年の姿だった。遥がこの世に遺した、かけがえのない宝物。

「あなたの子どもは私の子ども…」

青白く冷たい左手にそっと手を添え、ほのかは静かに頷いた。


 


「寂しくなかったの?」

その問いに、純は大きな瞳で詩織の顔を覗き込んだまま答えた。

「そりゃ寂しかったよ」

あまりにも真っ直ぐに答えられて詩織は少し怯んだ。
それに気づいたのか純は身体を元に戻し、テレビの画面を見つめた。画面には地方ロケ番組が流れていた。人気芸人が民家に訪問し、華麗なトークで場を盛り上げている。テレビの中の家族達は皆大きな口を開けて笑っていた。

「…でも、葬式とか学校とかやること色々あったし、悲しんでる暇なんてなかったな」

テレビに向かって独り言みたいに言う背中は丸い。
詩織がカーテンのかかった窓をちらりと見遣ると空の色は灰色になりかかっていた。

「それに」

純は頭だけをこちらに向けて言った。

「俺には嵐や煉、龍一もいたからな」

その顔は屈託のない笑みに満ちていた。
ああそうか、純も私と一緒だったのか。私もこんな風に素直になれたら。

「そうだよね」と詩織は頷いて立ち上がった。

「私、あの子を迎えに行って来る」

純は返事をする代わりに一つ腹を鳴らした。テレビで家庭料理が映されたので腹が減って来たと笑う。

「ホットケーキか何か作ろうかな」

「うん、伝えとく」

しょうがねーな、と頭を掻く彼に見守って貰いながら詩織は傘を二本持って家を出た。





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