転校のススメ。(3/8)


部屋に戻って荷物を細かく整理していると、時計の針はあっという間に五時を過ぎていた。忙しい時は時間の流れが早く感じる。
ふと、隣の部屋から誰かが出て行く物音がした。

──来た。

詩織は少し間を置いてから、赤い小さな箱を持って部屋を出た。



一階に下りた純は、リビングでドラマを見てくつろいでいる煉に尋ねた。

「おやつは?」

煉は呆れたというように純の方を見た。

「さっき食べたでしょ」

「あれはあいつらが来たからだろ。五時のおやつは?」

おやつなんて、まるで子供みたいな事を言う。

「駄目です。晩御飯まで待って下さい」

「待てないから言ってるんだろー」

口を尖らせて純は冷蔵庫を漁り始めた。冷蔵庫にめぼしいものが何も入っていないことを知っている煉は、純の行動を気にすることなくテレビに目を向けた。



詩織はその光景をドアの影から伺っていた。
やがて煉がさりげなくこちらを向き、目で合図を送る。

──今です。

詩織は小さく頷き、リビングに足を踏み入れた。諦めて冷蔵庫の戸を閉め、振り返った純と目が合った。
暫くの沈黙。詩織は慎重に純に近付くと、持っていた赤い箱を渡した。

「…これ、よかったら食べて」

「?」

受け取った純はやや戸惑っていたが、箱を見て一気に明るい表情になった。箱にプリントされているのは高級チョコメーカーのロゴ。

「さっきはごめんなさい。お詫びといってはなんだけど…」

「うん、いーよ」

詩織の心配をよそに、純はあっさりと返事をして嬉しそうにその場で包装を広げ、チョコを頬張った。
ソファーでは煉がやれやれと肩をすくめた。





「これを使えば一発です」

そう言って煉は詩織に箱を渡した。
よく見ると、箱には高級チョコレートの会社名が印刷されている。

「これ…チョコ?」

「はい、チョコです」

煉は当然のように答えた。

「あの人に渡して下さい。お詫びの印にって」

「ちょっと待ってよ。チョコってそんな単純な…」

「あの人は単純なんです。名前の通り」

煉は自信をもってはっきりと言い切った。ぽかんと口を開けた詩織に構わず煉は続ける。

「だから放っておいてもすぐ忘れるんですが、今回は大事な初対面なので特別サービスです」

「はあ…」

「そうですね…暫くすると小腹でも空いて下りて来るでしょうから、その時にでも。…ちょっと一息置いた方が効果的だと思うので、一旦お部屋で待機しててくださいね」

「う、うん……?」

言われるがままリビングを出て行こうとした詩織を煉は思い出したように呼び止めた。

「いいですか、それは『詩織さんが買った物』ですからね。くれぐれも俺の名は出さないように」

煉はそれが仲直りの方法だと言った。

高級チョコレート。確かに貰えば嬉しいが、そんな事で許して貰えるだろうか。逆に機嫌取りだと腹を立てるのではないだろうか。手元の箱を見つめながら詩織は頭を捻った。

だが、今目の前でチョコに舌鼓を打っている純を見た所、どうやら作戦は成功らしい。
ふと純は顔を上げ、詩織を見上げた。
どんな食べ方をしたらそうなるのか、口の周りはチョコでベタベタだ。

「お前さ、何て名前だっけ」

覚えてなかったのかと内心呆れ返りつつ詩織は答えた。

「詩織」

「シオリ。ありがとな!」

純は満面の笑みを浮かべた。幼い子供のような純粋な笑顔。

──やっぱり可愛い。

口に出そうなのをぐっと堪えて詩織も笑った。





夜は更け、詩織は薄暗く見える天井をベッドの上で見つめていた。
隣では床に布団を敷いて優が寝息を立てていた。実家でも時々こうして詩織の部屋で寝ていたので慣れっこだ。

浴室も広かったし、食事も豪勢だった。
折角だから豪勢に祝わないと、という龍一の心遣いだったのだが、一番喜んでいたのは純で、チョコを一箱食べたばかりにもかかわらず、皿いっぱいに料理を盛って平らげていた。
少しトラブルはあったものの、皆いい人みたいだし、まさに至れり尽くせり。楽しい生活になりそうだ。
明日からは学校も始まる。新しい学校。上手くやれるだろうか。

思案している内に眠気が襲い、多くの希望と少しの不安を胸に詩織は眠りに落ちた。
眠りに落ちる途中で、食事が済んだ後に煉が言った台詞が頭に浮かんだ。

「もうお互い家族ですから、明日からは遠慮は無しですよ」

家族。
両親がいない今、その言葉が胸の奥に心地よく響いた。



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