目が覚めると、もう朝になっていた。
こんなに早く起きるのは何年ぶりだろう。もしかしたら初めてかもしれない。
昨晩、部屋に戻った瞬間涙が溢れるのと同時に虚無感に襲われベッドに俯せに倒れ込んだ事は覚えている。
詩織が宥めるような口調で何か話しかけてくれてはいたが、そのまま泣き疲れて寝てしまったようで、目尻とその周辺の髪がガピガピしている。
普段は優がベッドの横に布団を敷いて寝ているが、昨晩は優がベッドで寝てしまったので詩織は布団に包まっていた。テーブルの上にはおそらく昨日の夕食だったであろうコロッケ定食。
今日の料理当番はたしか、あいつだ。きっともうキッチンに立っている事だろう。
顔も見たくなかったので、朝食代わりにとコロッケを頬張る。半日やそこらでは腐らないはず。
詩織に気付かれないように荷物を持ってそっと部屋を出る。出来るだけ音を立てないように顔を洗い、着替え、家を出た。
"あいつ"以外はまだ誰も起きてないだろう。声も掛けられなかったし、うん、気付かれてない。
早起きはなんとかの得というが、早朝の空は綺麗だ。淡く、緩やかな蒼が広がり、空気さえ清浄にしてる感じ。
遥か高い空を見上げながら歩いて行くと、急に視界が灰色のアスファルトに変わった。
「いったぁ〜…」
その場に体育座りをして膝を覗き込むと、擦れた皮膚から赤い血が滲み出して来た。心地良かった空気がじわじわと傷口を刺激する。
『鈍臭い』
昨日の言葉が耳に響く。
うるさい、うるさい、うるさい。そんな事ずっと前から知ってる。言われ慣れてる。はずなのに。
おかしいな。今まで転んでも泣かなかったのに。
どうして。
どうして目の前が滲んで行くんだろう──
「何やってんだ?」
不意に頭上から降って来た声に反応して顔を上に向けると、学生服を来た男と目が合った。
目が合ったといっても逆光でよく分からないのだが、この声この口調。"あいつ"だ。
「また転んだのか?こそこそ出て行くからこうなるんだよ…バレバレだったけど」
ぶつぶつとぼやきながら優の正面に屈み込み、傷口をハンカチで押さえる。
「お前の場合、早起きは三文の損だな」
「痛っ、さわらないで…って、いっ…!」
左腕を勢いよく引き上げられ、跳びはねる勢いで立ち上がった。
膝にはじくじくと響くような痛みが走り、白いハンカチはうっすらと赤く染まり始めていた。
「持ってろ」
「なに…う、わっ」
二人分の鞄を胸に押し付けられ、意味も分からないままそれを抱えた途端に痛みで微かに震えていた脚が宙に浮き、ついでに景色も再び一面蒼い空に。
「……へ?」
背中と膝の反対側に違和感がある。
視線を少しずらすと、そこには煉の顔が。
横抱き──つまりは、お姫様だっこ状態。
「はあああああ!?やっ、ちょっ、離して…!」
「うるさい、暴れるな。このまま落とすぞ?ただでさえ重いんだからな」
「なっ……」
煉は無表情のまま、すたすたと歩き始める。
「どっ…どこ行くの?」
「家。そっちの方が近いだろ」
それに早朝とはいえこのままで学校まで運ばれた方が恥ずかしい。何より間違いなく誤解される。
多分今のこの状態を他の人が見ればドラマや漫画かぶれのバカップルと思うだろう。
何でこうなったんだろう…
優には羞恥心で頬を染めながらただ鞄を抱く力を強くする事しか出来なかった。
悪魔だ。
優は思った。
こいつは、悪魔だ。
家に運び込まれ、風呂場に直行したかと思うと傷口にシャワーを掛けられその上躊躇なく擦ったりするのだ。
いくら痛いと泣き喚いてシャツを掴んでも、悲鳴に驚いて起きて来た詩織や龍一が駆け込んで来ても、煉は黙ったまま一向に止めようとはしなかった。
終わるなり今度はリビングに引っ張り出され消毒液がたっぷり染み込んだ綿を擦りつけられた。包帯を巻いた後でもその痛みは後を引いていた。
優が暴れ回ったせいでいつの間にかかなりの時間を消費していた。
「もう皆出たか…。はあ…どっかの馬鹿のせいで入学早々遅刻するかもな」
「うるっさいバカ!悪魔!」
「転んだぐらいで泣くなよ。高校生なんだろ?」
そう言って煉は哀れみを含んだ視線を優に下ろす。
「違うっ、これはあんたのせいだから!酷いよ!」
「適切な治療してやったのに文句言われてもなぁ」
して『やった』の部分を強調して言う。
何が適切な治療だ。虐待だ。
「砂が入ったままだと雑菌が繁殖するんだぞ。転び名人のくせに知らなかったのか?」
「知ってるよ!あと変なあだ名付けないで」
「だって、そうだろ?」
「………」
言い返す言葉が見つからなくなった。ただ腹が立つ。
「ほら、さっさと行くぞ」
「……痛っ」
「歩けないのか?また担いで行ってやろうか?」
ああ、そのにやついた顔面に蹴りを入れてやりたい。
「…歩けるもん」
「鞄忘れてるぞ」
もぎ取るようにして鞄を受け取ると優は出来るだけ早足で歩いた。
煉は後ろから黙ってついて来ていたが、どこか楽しげな笑みを浮かべていた。
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