リビングに戻った俺は、ソファーに近づいていった。
リナリアはソファーの上で丸くなって寝ており、その尾は気まぐれに揺れていた。
気持ちよさそうに寝ているリナリアを起こさないよう、足音に気をつける。
すぐ近くまで行くと、ソファーの傍で膝を折った。
下に敷いてあるカーペットに膝をつける。
小さな息を繰り返しているリナリアの寝顔を見つめた。
つむられている目には、長く艶やかなまつ毛が広がっている。
仄かに赤く染まった頬はいちごのように甘く、可愛らしい。
ぷくっとふくらんだ唇は、軽く開いていて呼吸を繰り返している。
白く滑らかな肌は、全てを引き立たせるかのように輝いていた。
自然と頬に手がのびて、撫でるように優しく指を滑らせた。
「んんっ…。」
「っ、」
すると、リナリアは声をもらし、ピクと反応した。
その声に、思わず息を呑む。
甲高く艶やかな声に、不意に心臓が跳ね上がった。
リナリアの耳は細かく動き、驚きによる余韻を残しているようだ。
けれど瞳を開けないリナリアに、ほっと胸を撫で下ろす。
よかった…。
落ち着いたその寝顔に、俺は微笑んだ。
その場でカーペットの上に座り、ソファーにもたれ掛かる。
「…。」
ほっとしながらも、俺はぼんやりと考えていた。
"せーいち…すき"
呟くように言われた、自分の気持ちを伝えるだけの一方的な言葉。
そしてその後の、昨日教えた行為。
なぜそれをしようとしたのだろう。
潤む瞳と紅潮した頬が頭をよぎる。
その時、ふとバスの中の様子を思い出した。
取り乱したリナリア。あの時はきっと夢を見ていたのだろう。
もしかしたら、今日も何か夢を見たのかもしれない。
その可能性は十分にあるはずだ。
一体、何の夢を見たのだろう。
そう考えていると、先程の近づいてくるリナリアの姿が思いうかぶ。
ドクン、と心臓の鼓動が大きくなり、身体中が熱くなった。
俺はなぜそれを教えてしまったのだろう。
後悔とも呼べる感情に襲われる。
けれど、同時に優越感も覚えていた。
背後にリナリアの存在を感じる。
落ち着く心。温かい朝の空気に、俺は瞳を閉じた。
静かな雰囲気に、ゆっくり流れる時間がさらに映えていた。
何分、何十分か経ったのだろう。
小鳥のさえずりも消え、近所の子供が遊ぶ声が聞こえてきた。
すると、家中に来客を伝えるチャイムの音が鳴り響いた。
「…、」
それを聞き、俺は静かに瞳を開けた。
おそらく、蓮二だろう。そう思い立ち上がる。
ふとリナリアを見てみると、リナリアも目を覚ましたようだった。
昼間の光で開いた瞳孔が、こちらをじっと見つめていた。
まだ、瞳には潤いがあり、キラキラ輝いている。頬も、赤く染まっていた。
俺はそんなリナリアに穏やかに微笑む。
リナリアは俺を見て、安心したように瞳を伏せた。
そして俺は玄関に向かい、軽く靴を履いて鍵を開けた。
扉を開くと、外の門の所に蓮二がいるのを見つける。
俺はそちらに向かって歩み、俺に気づいた蓮二に声をかけた。
「蓮二、わざわざすまないね。」
「いや。リナリアに何かあったら大変だからな。」
そう言って、蓮二は軽く笑った。
その言葉が俺のことを指しているのを無意識に感じ、同じように笑う。
確かに、何かあったら大変だ。きっと何も手につかなくなるだろう。
そんなことを思いながら蓮二を招き、家の中へ入った。
靴を脱ぎ、蓮二とリビングへ向かう。
リビングに入ると、ソファーの上で丸まったリナリアが、キラキラした瞳をこちらに向けていた。
「れんじ…?」
呟くように、リナリアは蓮二の名前を呼ぶ。
蓮二はそれに答えるように微笑んだ。
そしてリナリアの近くまで行き、リナリアと目線を合わせる。
「おはよう。昨日ぶりだな。」
「にゃ…ん、おはよぅ。」
リナリアは潤んだ瞳を細め、蓮二に微笑む。
その姿は、いつものリナリアだった。
けれど、俺が近くまで行こうと足を踏み出した瞬間、俺は自分の目を疑った。
リナリアが軽く身体を起こして、すりと蓮二に顔を寄せたのだ。
その行動に、俺も蓮二も目を見開く。
今まで、そういう行為は俺にしかしてこなかった。
それを今、リナリアはあたかも普通のようにやってのけた。
ザワと胸の中が騒ぎ出す。
厄介な感情が、俺の中で動き出したのを感じた。
蓮二はすり寄ってくるリナリアを軽く制し、俺に顔を向ける。
「…精市。」
「っ、何だい?」
嫉妬心に駆られていた俺は、突然の蓮二の言葉に我に返った。
蓮二は考え込むように眉根を寄せていて、慎重に言葉を選んでいる様子だった。
リナリアはきょとんと、不思議そうに瞳を輝かせていた。
「リナリアは、いつもこんな様子か?」
「いや…今日は一段と甘えてくるんだ。」
「そうか。
…食欲はあるか?」
「…、?」
蓮二の質問に、俺は首を傾げた。
なぜ食欲について聞くのだろう。
けれど、蓮二の思いあたることに関係していることは間違いない。
俺はひとつ息を吐いて、リナリアに目を向けた。
今日はまだ朝食を取っていない。
食欲があるかないか、リナリアに聞くしか方法はないだろう。
「リナリア、今何か食べたいかい?」
起床した後は、眠っていた分の空腹が腹を突くはずだ。
そう思い聞いた俺に、リナリアは目を瞬いてから、ふるふると首を横に振った。
それを見て、蓮二はさらに考え込む。
俺は近くに腰を下ろし、その様子を見ていた。
すると、リナリアは音もなくソファーから降り、俺にすり寄る。
猫そのもののようなしなやかな動作。いつもと違うリナリアに、俺は面食らってしまった。
「にゃん。せーいちっ。」
「っ、!」
甘えてくるリナリアに、激しく戸惑ってしまう。
ふわっと咲いた甘い笑顔。その表情にドキと心臓が跳ね上がる。
甘く、可愛らしいリナリア。
俺は高鳴る鼓動を感じながら、リナリアから蓮二に視線を移した。
けれど蓮二はまだ何かを考えているようだった。
一体、何なのだろう。
蓮二が思いあたったこと、リナリアの様子に疑問ばかり浮かぶ。
俺の身体に顔をすり寄せるリナリア。
大きく跳ねる鼓動はまだ慣れないけれど、その様子が可愛く思えて俺は口元に弧を描いていた。
リナリアの背中を、優しく撫でる。
俺の手がリナリアの肩甲骨から腰までを通ったその時、リナリアは薄く声をもらした。
「んにゃ…っ!」
「っ、!」
ビクッと身体を震わせて腰を反らせたリナリア。
その甲高く鼻にかかったような声に、俺は息を呑んだ。
俺が何も言わず――いや、言えず――にいると、リナリアはゆっくりと身体を低くした。
ぺたんと座って、身体の前の方でリナリアは床に手をついている。
ぼうっとした表情をしたリナリアだが、その瞳の奥はじんじんと熱く燃えている気がした。
誘い込むようなその姿に、俺は目を丸くし、戸惑う。
勢いを増した鼓動が、痛いくらい身体中に感じられた。
すると、蓮二が静かに口を開いた。
「精市。これは、ただの俺の仮説だが…いいか?」
「っ、あぁ。」
「おそらく…このリナリアの様子からすると、さかりである可能性が高い。」
"さかり"
その一言で、俺の思考は全て停止した。
さかり。つまりは、動物の発情期だ。
信じられない。リナリアが、発情期?
確かに元は猫であっても、今の姿は――耳と尾をのぞけば――人間だ。
ドクン、と心音が耳元で聞こえた。
そんなわけ、あるはずがない。
冷や汗にも似た何かが、こめかみを伝った。
蓮二は俺の考えていることがわかったかのような言葉を、ゆっくりと紡いだ。
「猫と人間の狭間であるリナリアの、性的な面が刺激され、それが"猫"という形で表れた。
そう、考えられないか?」
その仮説に、俺は言葉を失った。
"性的な面が刺激"
心当たりは、ただ一つだけある。
そう、昨日の行為――キス――。
それを証拠づけるもの。
それはリナリアが少し前に俺に言い、しようとしたことだったからだ。
"せーいち…すき"
そして近づいてくるリナリアの綺麗に整った顔。
俺の頭は真っ白になり、何も考えられなくなった。
君が目覚めた。
―それが良いことなのか悪いことなのか、俺にはわからなかった―
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