「え?あ、あぁ…俺は、忍足侑士や。」

「おしたり、ゆーし…。」



こいつは確かめるように忍足の名を呟いた。

その声に、忍足は息を呑む。

綺麗に輝いた瞳にあてられ、どぎまぎしているのが伝わってきた。

こいつは、やっかいだな。

吸い込まれそうな淡いブルーの瞳に、気持ちがもっていかれる。

いとも簡単に、惹きつけられる。

あの何とも言えない感情を、どう表したらいいのだろう。

そんな俺達の気持ちもつゆ知らず、こいつは一度伏せた瞳を上げた。



「おしたり…せーいちが、わたしを見てくれないの。
どうして?おこってるの…?」



震えたその声。憂いを帯びたその瞳に見つめられ、俺と忍足は何も言えなかった。

一瞬、空気が冷たくなる。もの悲しそうなこいつにつられたように、静かな空間が広がった。

どういう意味だ。

俺と忍足は懸念に眉を顰め、顔を見合わせた。

ジローは瞬きを繰り返し、状況が読めていないようだった。

俺が見た限り、幸村はこいつに好意をもっていると思っていた。

それが、今の状況とはかみ合わない。こいつのたれた耳を見て、胸の中がモヤついた。

ふと考えるのを止めると、こいつの潤んだ瞳が目に入り、ドキリとする。

なんなんだ。どうしてこんなにも、こいつの表情に惹きつけられる。

すると、またあのか細い声が言葉をつむいだ。

震えた声は消えてしまいそうに、だんだんと涙声になっていった。



「わたし、わるいコトしちゃった…?
にゃ…せーいちに、嫌われちゃう。
また、ひとりに、なっちゃう…っ。」



混乱している様子のこいつの瞳から、一粒の雫が落ちた。

唇は細かく震え、時折しゃくり上げる。

辛そうで、悲しそうな表情。

けれど無意識に、綺麗だと感じていた。

純粋で、素直な感情。

人の世にあまり触れていないような赤子みたいだと思った。

その様子に、ぼうっと見つめてしまう。

忍足も、ジローでさえもそうだった。

俺達は何もできず、何も言えなかった。

こいつの嗚咽だけが、ただ耳に響いていた。

そのとき、ジローがゆっくりこいつに近づいていった。

何をするんだ、と思った瞬間、ジローはこいつを抱きしめる。



「!」

「ちょっ、」

「っ、にゃ…ぅ。」



俺と忍足は息を呑み、こいつは突然のことに肩を跳ねさせた。

ジローのやつ、何してやがんだ。

傍目から見て、のしかかっているとしか思えない姿に、唖然とする。

そうしていると、ジローはゆっくりとこいつの背中をさすり始めた。



「よしよし。キミと幸村とのことはわかんないけど、大丈夫だよー。
キミみたいな可愛くていい子、ひとりなんかにはしないCー。」



ジローがそう言うと、こいつの震えはぴたと止まった。

俺は忍足と顔を見合わせ、忍足は肩を竦める。

美味しいところを全部持っていかれた、とでも言いたそうな忍足の表情に、軽く笑う。

確かに、ここでジローが動くとは思ってもいなかった。

それだけ、ジローもこいつに興味をもったということか。

こいつはジローとの身体の隙間からひょこっと顔をのぞかせた。

その目元は濡れていたけれど、悲しそうな表情は消えていた。

様子を見るように耳は動いている。

そしてこいつはゆっくりと瞬きをし、唇を軽く動かした。



「かわ、い…?」

「そうそう。チョー可愛いよ。」

「にゃ、ん?」



ジローがそう言うと、こいつはわからないとでも言うように首を傾げた。

ぱちぱちと瞬いた瞳が、先程とは変わって明るい光をもつ。

意味は理解していないようだったが、何となくは伝わったようだった。

ジローがへらっと笑うと、こいつもつられるように笑顔を綻ばせていた。

その笑顔に、見ていた俺と忍足はドキと反応してしまう。

華のような、明るく咲き誇ったような笑顔だった。



「さすがに、その笑顔は…反則やろ。」



すぐ横で、ぽつと忍足が呟いた。

その言葉に、思わず同感してしまう。

右手で口元を覆い、深く息を吐いた。

ドキと跳ね上がった俺の心臓。

らしくねぇ。そう思うが、なかなか鼓動は落ち着かなかった。

すると、ジローに包まれているこいつは、まどろむように目を細めた。

ジローの柔らかな髪に顔を寄せ、瞳を閉じる。



「おひさまの、におい…。」

「んー。ちょっと眠くなるCー。」



ジローがそう言うと、こいつはゆっくり顔を離した。

そして二人は顔を見合わせ、同時に笑顔をうかべる。

その雰囲気にのみ込まれそうになったが、何とか踏みとどまった。

こいつに目を移してみると、先程とは変わった、楽しそうに動いているあの耳が目につく。

なぜか、気にならなくなっていた。あのこげ茶色をした耳が。

あってもなくても、こいつはこいつだ。なぜあるのかも、気にならない。

おそらく幸村も同じような気持ちなのだろう。

偶然知ったこいつの秘密。幸村の隠していたもの。

自然と俺は口元に弧を描いていた。

あぁ…不思議と落ち着いた気分だ。優越感が、心に染み渡る。

俺は瞳を開け、こいつをしっかりと見つめた。

ジローと一緒にうとうとしているその姿。感情がすぐ表れる耳。

そして、あの笑顔。全てを虜にするような、咲き誇る笑顔。

欲しい。純粋に、そう感じた。

手に入れたい。自分の、すぐ傍においておきたい。

俺の中に生まれた感情。幸村もそうなのだろうか。

けれど、幸村は選択を間違えたようだ。

この練習試合に連れてこなければ、俺達がこいつの存在を知ることもなかっただろうに。

俺は軽く鼻を鳴らした。その選択の間違いに、感謝するべきか。

そんなことを思っていると、横にいる忍足がぽつと呟いた。



「…へぇ。しっぽも、あるんやな。」



感心するような忍足の声に、俺はこいつに視線を移した。

確かに、ゆらゆらと気まぐれに揺れている尾が目に入る。

耳と同じ、髪よりも濃いこげ茶色だ。

ふさとした毛に覆われているそれは、あのふわりとしたワンピースの中からのぞいていた。

尾が動くたび、ワンピースがめくれ上がる。

ドキと心臓は跳ね、俺は息を呑んだ。



「跡部…あれは、危ないなぁ。」

「あぁ…。」



忍足のほとんど無意識に呟いた言葉に、俺は頷いていた。

とろんとした表情をしながら、こいつはジローとまどろんでいる。

気づいていないのか?それとも幸村のやつ、何も教えていないのか。

そう思いながら、俺はこいつに向かって口を開いた。



「…おい。」

「んにゃ…あとべ?」

「それ、どうにかしやがれ。」

「それ…?」



俺が声を出すと、耳が第一に反応し、こいつは顔を向けた。

眠気が後を追っているような、とろんとした瞳。

不思議そうに首を傾げたこいつに、忍足が近づいた。



「この、しっぽや。」

「ん、にゃあ…っ!」

「ッ!」



忍足が手をのばし尾に触れると、こいつは高く澄んだ声を上げて跳びはねた。

ビクッと反応した身体。その尾はぶわりと毛が逆立ち、本来の太さの倍になった。

その声に、俺と忍足は驚く。

何が起きたのか、一瞬理解ができなくなった。

こいつを抱いていたジローはぱちっと目を開け、状況が読めないように瞬きをする。

こいつはぷるぷると細かく震え、その頬は仄かに紅潮していた。

茫然と、こいつを見つめる。

身を丸め、ジローに助けを求めるかのように近づいた姿。

赤く色づいた頬をしたこいつは、上目で忍足を睨み、その整った唇を動かした。



「おしたり…やだっ。」

「忍足、なにしたのー?」

「お、おいおい…そんな非難したような顔しんといてや。」



あの瞳に睨まれ、ジローには咎められたような忍足は、戸惑ったように肩を竦めた。

頬の染まった肌。上目のあの淡いブルーの瞳。

警戒している様子だが、迫力というものが欠けていた。

ジローはこいつの頭をゆっくりと撫でる。

こいつはだんだんと落ち着いたように、目を細めた。



「にしてもキミ、しっぽもあったんだねー。」

「にゃ?…あっ!」



ジローがそう言うと、こいつは一瞬きょとんとした。

そしてはっとしたように頭に手を添え、自分の耳を触る。

丸く見開かれた瞳。

その瞳は戸惑ったように俺達の顔を見て、それはなぜか忍足で止まった。



「ぼーし!かえしてっ。」

「え…?」



突然の言葉に、忍足は目を瞬いた。

忍足の手元には、先程取ったキャスケットが握られている。

そのことを言っているのだと、俺はすぐに理解した。

こいつはジローから離れ、忍足の手元を見つめる。

キャスケットと忍足の顔を交互に見ながら、返してほしいということを全面に表していた。



「あ、あぁ…堪忍な。」



そう言って忍足はこいつにキャスケットを差し出した。

こいつは忍足の手からキャスケットを取り、自分の頭に被せる。

ぎゅうという効果音でもつきそうなくらいこいつは思い切り深く被った。

その無邪気とも言える姿に、忍足は口元を緩め、俺は軽く笑ってしまった。



「これ、かぶらないとせーいちに怒られちゃう…。」



眉根を寄せたその表情に、俺はなぜか納得していた。

耳の自由を奪うキャスケットは、こいつにとってあまり好ましいものではないのだろう。

けれど、普通の人間には耳と尾はない。

幸村にとって、こいつを外に出すための策だったということか。

そう考えていると、こいつはちらと俺達の顔をうかがっていた。

ぱちぱちとした、少し不安そうな瞳。

こちらの様子を見るような瞳に、ジローが首を傾げた。



「にゃん…だから、しー、ね?」



幸村に話すな、と言いたいのだろう。

その表現に、俺は思わず笑ってしまう。

本当に、こいつは純粋だ。おかしいくらいに。

俺は頷いた忍足とジローを見つめ、瞳を閉じた。

ふと冷たい風が、頬をかすめていく。

あぁ…そういえば、あれからどのくらい経ったのだろうか。

試合はどうなったんだ。終わっていないといいが。

次の試合はシングルス。ジローの試合だ。

そのために俺と忍足はここまで来た。思わぬ出会いがあったが、その事実は変わらない。

深く息を吐き、俺は瞳を開けた。



「おい。そろそろ戻るぞ。
ジロー、次試合だろうが。」

「えー、そうだったっけ。」

「何のために俺たちがここまで来たと思ってやがる。」



そう言いながら、ジローに立てと促した。

こいつはきょとんとした顔でこちらを見つめてくる。

その純粋な瞳の中に少しの不安があるのを、俺は確かに見た。

幸村か。直感でそう感じる。

ハッ。丁度いい。

あの涼しげな顔がどう変わるか、見てみたいと思った。

忍足とジローが歩き出すのを見て、俺は静かに声をかけた。



「お前も来い。」

「にゃ…ぅん。」



俺がそう言うと、こいつは素直についてきた。

母親の後を追いかける子供のように、すぐ後ろまで。

しかもさり気なく、本当に自然にウェアの裾を掴まれる。

その感覚に、反射的にちらと様子をうかがってみると、こいつはきょろきょろと周りを見回していた。

その落ち着きのない不安そうな姿に、薄く口元に弧を描いた。

幸村と何があったのか知らないが、この状況に満足していた。

優越感が、身体中を満たす。

コートへ戻る道を歩きながら、俺はその感情に浸っていた。

だんだんコートに近づいてきたのか、テニスボールを打ち合う音が聞こえてきた。

まだ、試合は終わってはいないらしい。

向こうにいた時間は、ほんの数分だったということか。

軽く鼻を鳴らし、目の前に見えてきた緑のコートを見つめた。

植木の幅が広がり、すぐそこにベンチが見える。

芥子色のジャージ。どうやら立海側のベンチについたようだ。

だが中は思っていたより騒がしいようだった。

焦るような幸村の姿を見て、思わず目を丸くする。

こいつがいないだけで、こんなにも乱れるのか。

そう思っていると、向こうもこちらに気づいたようだった。

唖然とした表情。皆、言葉を失っていた。

あの神の子と呼ばれる、幸村でさえも。

ほぅら。

お前のお姫様は、ここにいるぞ。

俺は先程の幸村の挑発に応えるように、口端をつり上げた。

――…。

――――…。

――――――…。

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