眼鏡の場合




 軽いノックをして執務室に入れば、正面の大きな執務机にどかりと座る檜佐木副隊長と、薄い硝子一枚隔てて目が合った。

「……なんですか、それ」

 素っ頓狂な台詞を吐く。それを鼻で笑う檜佐木副隊長は、「眼鏡だよ」などと同じく素っ頓狂な台詞を返した。

「いや、そうじゃなくて」

 確かに言葉が違ったかもしれないが、私が彼に尋ねたかったのは彼が眼鏡をかけている理由である事くらい、察するに難く無いはずだろう。もう長らく彼の下で働いているが、今日の今日まで彼が眼鏡をかけた事はなく、視力を話題にした事すらなかったのに。

 檜佐木副隊長は勿体ぶるように、疑問符を浮かべる私をわざと置き去りにして書類と睨み合う。時折滑り落そうになる眼鏡を左手で押し上げる仕草は普段の彼にはない、奇妙な色気を感じさせた。切長の目は眼鏡のせいでいつもより遠く感じるけれど、決して威圧感を与えず、寧ろ彼の真面目さや勤勉さを助長するので不思議である。光沢のある黒縁も、彼の深い黒髪によく似合っている。まぁ、幾分か顔周りの情報量が多すぎるような気もするが。

 私が何も言わずに見詰めている事を確認すると、檜佐木副隊長はやっと得意げな表情で口を開いた。

「な、結構似合うだろ?」
「はあ」

 敢えて曖昧な返答をする。彼の期待通りに褒めるのは、何となく癪なのだ。それに、子供のように唇を突き出す姿はやはり、眼鏡の持つ知的な印象とは程遠い。
 彼の話では、ただの眼鏡に見えるそれは技術開発局の試作品らしく、阿近さんに頼まれて試験的に着けているということだった。彼が何故そんな怪しすぎる試験に身を委ねたのかは知る由もないが、おそらく給料日まであと数日という今日、提示された安い駄賃に飛びついたのだろう。

 ぶっちゃけ、何の機械なのかわかってねぇんだけどさ。などと爆弾発言をしつつ、檜佐木副隊長は機械的に書類に判子を押していく。一定のリズムで朱肉を叩き、書面を叩き、また朱肉を叩く。その反動で眼鏡が鼻を滑り、彼はその度に手を休めて眼鏡を押し上げるのだが、遂にそれが面倒になったらしい。最終的にはずり落ちる眼鏡をそのままに、上から書面を見下ろす様にして押印を続けた。

「……眼鏡、邪魔そうですね」
「んー。まだ慣れねぇんだよなァ」

 へぇ、と適当に相槌を打ったつもりでいたが、余りにも適当すぎて声にもなっていなかったらしい。私は壁の本棚に向かって、目当ての資料を指差しで探していた。あれでもない、これでもない。九番隊はとにかく紙物が多すぎる。

「なぁ、名前」
「? はい」

 呼ばれて振り返れば、いつの間にか私のすぐ後ろに立つ檜佐木副隊長の節榑だった細い指が触れる。黒縁に囲まれた中で、微かに目を細めた彼の瞳が揺れていた。

「キスしたくなった」

 掠れた声が甘く鼓膜を揺らす。

「そ、そんな急に」
「目。……閉じて」

 既に鼻先が触れ合っている。言われた通り、というよりも逃れるようにきつく目を閉じれば、そのまま唇が塞がる。ゆるく唇を食むだけの優しいキスだった。軽いリップ音が二人きりの執務室に鳴る。
 一度離れて、また重なって。ふと目が合えば、心臓が飛び出そうなほどうるさい。一重目蓋から覗く黒目はいつもと同じなのに、間にある硝子一枚が妙に心を擽る。

「名前、俺の眼鏡姿そんなに好きなのか?」
「……別に、そんなこと……」
「嘘ばっかり。見惚れてんだろ」
 
 いつもより良く見えるんだぜ、と揶揄うように囁いてから、檜佐木副隊長はまた少しばかり顔の向きをずらす。
 硝子越しの瞳が、してやったりと笑ったような気がした。




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