(中)




 その情報が私達一般院生の耳に入ったのは、週明けの月曜日の朝だった。


 いつものように朝食を取ろうと呑気に食堂の扉を開けた私は、やけにじっとりとした雰囲気と、居心地の悪い騒めきに迎えられた。
 形容し難い悪寒を感じつついつもの仲間たちを見つけて席につくが早いか、挨拶もないままに二つの口がそれぞれ動く。
 
 ――蟹沢が死んだ
 ――昨日の現世実習で巨大虚が出たって
 ――青鹿くんはまだ目が覚めないらしくて
 ――檜佐木は無事らしいけど
 ――蟹沢が
 ――五番隊の藍染隊長と市丸副隊長がいらして
 ――蟹沢ほたるは



 蟹沢ほたるは死んだ。
 


 全ての色彩が視界から去り、音が止まった。たった一人で、何処までも深い穴に突き落とされた心地に等しかった。

 私は、食堂で人目も憚らず泣いて、友人たちをひどく驚かせ、そしてひどく困らせた。

 なんでアンタが泣くのよ。そう言いながらも友人たちは、大声で泣きじゃくる私の肩を抱き、背中を摩ってくれた。だって、蟹沢さんは格好良くて、可愛くて、週末、お茶に行こうって。泣きすぎて呼吸も儘ならない私の叫びは、彼女たちにとっては全く意味不明だったに違いない。つい先日まで蟹沢さんの下世話な噂話に花を咲かせていた一人が、蟹沢さんの訃報に誰よりも感情を剥き出して泣いているのだから。

 食堂にいた多くの院生たちの好奇の視線も、いつしか底気味悪がるような冷たいものに変わっていった。それでも私は構わずに泣き続けた。私が泣く事に何の意味もないとわかっていたけれど、そう思えば思うほど、止め処なかった。

 
 私の知っている蟹沢さんの輪郭は余りにも懦弱で曖昧だった。

 あの日、私は大盛りのカツ丼を、彼女は大盛りの唐揚げ定食を食べながら胸襟を開いたというのに、今となってはその思い出だけが私と彼女の関わりの全てだった。

 彼女の美しい死顔が、涙でふやけた瞼の内側に浮かぶ。栗色の髪、赤い髪飾り、白い手、唐揚げに噛み付く小さな口、良く通る声、少女のような微笑み、濡れた瞳。
 
 私は命を失ったその蒼白く硬い肌に、声をかけることもできない。
 





 部外者であるにも拘らず取り乱す私とは裏腹に、当事者である檜佐木くんは奇妙なほど平常に日々を過ごしているように見えた。

 彼の右顔面部の裂傷は額から右目を通り顎まで走る深傷だったものの、命に別状はなかったらしい。とはいえども蟹沢さんは敢え無くなり、もう一人の引率生であった青鹿くんは左顔面部から左腕までにかけて致命傷を負い、今でも意識が戻っていない。様々な虚説や空言が行き交う中で、何事もないように日常に戻ろうとしている彼は、以前よりも厳しい表情をしている事が増えたようだ。

 ある日渡り廊下ですれ違った檜佐木くんは、顔の右側を包帯で覆い一人、俯いて歩いていた。竹刀袋を持っていたから、剣術演習に向かう途中だったのだろう。今までにも増して目を吊り上げて、口を結んで、分かり易く他人の干渉を拒んでいるようだった。
 
 ――ああ見えて、笑ったら可愛いのよ。
 
 彼女が朱を注いだ少女の顔で教えてくれた、檜佐木くんの好きなところ。きっと他にも沢山あったのだろうけれど、もう一つだって聞くことは出来ない。

 すれ違ってから、彼の背中を振り返って見る。肉の少ない骨張った背中を気持ちばかり丸くして歩く様は、やはり以前とは違っていた。何かを背負っているようにも見えたし、何かに怯えているようにも見えた。



 
   
 その日の午後、人気のない道場裏で檜佐木くんを見つけた私は、迷わず彼に駆け寄った。

 檜佐木くんは古い巨木を背もたれにして、腕を組んで昼寝をしていた。教科書などを入れた鞄も竹刀袋も、横に投げ捨てられている。
 木漏れ日が落ちる黒髪は、僅かに紫色の余韻を残している。左頬の特徴的な刺青も首に巻き付く黒いアクセサリーも彼の象徴だったが、こんな近い距離で目にしたのは勿論初めてだったのでつい、まじまじと観察してしまう。黒を多く纏う彼の容姿の中で、顔の半分を占める包帯の存在は異様だった。

「…………何か用か」

 如何にして彼に声をかけようかと考えあぐねる私より先に、檜佐木くんの口が開かれる。どうやら目を閉じていただけで寝ていたわけではなかったらしい。
 その問いにも答えられず立ち尽くしていると、檜佐木くんは眉間に皺を寄せてから器用に左目を開けた。長く伸びた前髪の間を縫って、用がないなら帰れと言わんばかりの訝しげな目が此方を覗いている。紙の上に墨を一滴落としたような小さな黒目は乾き切っていた。

「えっと、あの」

 私は蛇に睨まれた蛙のように、体を硬直させる。

  
 彼女が檜佐木くんを好きだと言ったこと。笑顔が可愛いと言ったこと。檜佐木くんのことを話す蟹沢さんの瞳が濡れていたこと。私にはそれがちっともわからなかったこと。詳しくは後日教えるからお茶に行こうと約束したこと。たったそれだけなのに、私が蟹沢さんの事を好きななったこと。

 言いたいことはたくさんあったのに、考えれば考えるほど今更どれも間違えているような気がして、たった一つの言葉も出てこなかった。後先考えずに声をかけてしまった事が悔やまれる。
 

 檜佐木くんが背中を預けていた巨木から、一羽の鳥が飛び立った。
 私は、最早泣き出しそうな思いで立っていた。
 檜佐木くんは小さく、でも私に聞こえるように舌を鳴らした。

 
 後悔にすっかり力が籠ってしまった喉を押し広げ、私は予定に無かった言葉を吐く。

「右目の調子は、どうですか」

 嗤ってしまう程に上擦った声。檜佐木くんの眉がほんの僅かに揺れた。地雷を踏み抜いたのかもしれないと、思わず半歩後ずさる。
 確かに逆の立場で考えてみれば、何故見ず知らずの他人に目の心配をされなければならないのかと、鬱陶しく思うだろう。いっそこのまま逃げ出してしまおうかとも思ったその時、檜佐木くんは包帯を乱暴にずらしその中身を僅かに、外気に晒した。

 肉だろうか、瘡蓋だろうか。未だ赤黒い塊が残る頬は、幽明の境の形すら知らぬ私にとっては、生々しい死の恐怖そのものだった。だのに、それは私を惹きつけて離さない。
 彼の腰の強そうな黒髪と真っ赤な血肉は――少なくとも邪魔くさい包帯よりも――均衡を保っているように見えたし、彼が見ず知らずの私に身体の内を晒してくれた事実は私の心を大きく揺さぶった。

  
 私の瞳孔が揺れるのを恐怖ゆえと気取ったのか、檜佐木くんは顔を軽く伏せながら、さっさと包帯を直し始める。

「眼球自体は藍染隊長が応急処置をして下さったからな。今まで通りって訳にはいかねぇけど、支障はねぇってよ」

 言いながら長い指が細かく動いて、みるみるうちに裂傷部が隠されていく。

「眼球は治したのに、」

 どうして裂傷は治さなかったんですか。そう最後まで紡ぐより早く、檜佐木くんは自嘲するように鼻を鳴らす。

「残しとかねえと、馬鹿だから忘れちまうんだよ」

 私はそれに納得したふりをして小さく頷いた。
 彼はきっと、全て背負っていくつもりなのだ。あの骨張った背中が潰れてしまうほどの重責と恐怖を、一人で。

 
「……お大事にしてください」

 絞り出したありきたりな言葉は、足元に転がる。檜佐木くんはその中身のない軽石の様な言葉を優しく拾い上げるやさしい人だった。血色の悪い荒れた唇の端をほんの一寸持ち上げて、感情を押し殺す細い瞳で私を見る。その口がありがとうと、微かに動いた。
 蟹沢さんが好きだと言った笑顔はきっとこんな悲しいものではなかっただろう。けれど、私はその強張った微笑を忘れる事は出来なかった。
 

 彼と本当に話したかったことはこんな事ではない。然らばとて、もうこれ以上彼と言葉を交わすことは出来ないと悟った。
 
 



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