(下)


 奥の給湯室へ向かう。

 隊長と副隊長、あと数人の上位席官の為にしか使う事のないのないこの給湯室は、我々平隊員用の給湯室と比べて三分の一程の広さしかない。然し乍ら、品良く装飾を施された食器棚や常備されている軽食の豊富さを見れば、その本質の差は一目瞭然である。
 慣れた調子で棚から取り出した湯呑みは、女の手には余る大きさの、枯れたような色をした一口。はっきりとは判断できないが、なんとなく年季の入った様子がある。檜佐木副隊長は、新しいもの好きの癖に、結構物持ちが良いのだと、予想している。

 同隊に所属しているとはいえ、こんな些事さえもこうして風景の中から摘み上げていかないといけない距離に居るのだ。なんら変わりない。

 コップを置く。湯が沸騰する音がする。瞑想するようにゆっくりと瞼を伏せて、数度深く呼吸をする。先ほどと同じようにゆっくりと瞼を離す。見慣れた給湯室の白壁が私を迎える。そうしている間にも、時計の針と胸の鼓動は止まらない。
 
 戸棚に並べられたさまざまな種類のお茶を無視して、私は袂から小さな小袋を取り出した。尸魂界では見慣れない西洋の文字が書かれた外装を破れば、すぐに強い香りが鼻腔を擽る。甘くほろ苦く、一人では抱えきれないほどに魅惑的な芳香。かつてにこれが、神の食べ物と呼ばれていた事にも頷ける。

 そっと、茶葉が包まれた小袋を、大きな湯呑みの底に落とした。その上で、子供がまじないをかけるような仕草で指先を回す。熱湯を注げば淡い赤褐色が滲む。できるだけゆっくりと、高い位置から湯を回し入れる。自分にだけ聞こえるほどの小さな声で、好きです、と呟いてみようと思っていたけれど、できなかった。
 立ち昇る湯気を浴びながら、此処に至る迄のさまざまなことを後悔した。


   ****


「入りました」
「悪いな、そこ置いといてくれ」
「はい」

 指示の通りに、彼の執務机の端に避けられていた茶卓の上に湯呑みを置いた。
 木製の茶卓と、陶器の湯呑みが、こつんと音を鳴らす。反応は、それとほぼ同時だった。

「ん?」

 檜佐木副隊長は、書類から視線だけを上げて湯呑みを見た。それから何かを問うように僅かに私を見上げて、また湯呑みに視線を戻す。瞬きをして、湯呑みを鼻先に近付ける。そうしている間にも、奥行きのある甘やかな香りはあっという間に執務室いっぱいに広がっていく。
 私は何も言わずに、まるで今生の別れかの様に檜佐木副隊長を見つめていた。彼の小さな黒目がきょろきょろと動く。もう隠れることも逃れることもできない。

「なぁ、これって」
「カカオティーです。自分が、現世で買ってきました」

 戸惑いを孕んだ彼の台詞を、咄嗟に遮る。
 今になって、触れられる事が恐ろしかった。子供染みているけれど、せめて自分で言ってしまえば、これはそういうものではなくて只の奇妙な偶然なんですよ、と嘲って終われるような気がしていた。
 瞳孔が揺れているのが自分でもわかるほどだったけれど、目を逸らす事は難しい。
 檜佐木副隊長は一瞬だけ私の顔を見てから「へぇ」と、存外軽い口振りで言った。目を伏せた彼の表情を水蒸気が霞ませていく。形のないそれは、何の跡も残さず薄れ消えゆく。真冬のしんと静まり返った執務室に、不釣り合いに甘い空気が染みる。

 湯呑みを傾けて控えめに口に含めば、細い喉に突き出た喉仏がゆっくり動く。嚥下する音が遠くで聞こえた。

 檜佐木副隊長はややあってから再び私を見上げた。その瞬間に、頭の中で反響するような軽い耳鳴りがした。自分の身体だけをそこに置いて、心がずうっと遠くへ引っ張られていくような感覚だった。これに傷心だとか哀感だとかの言葉を当て嵌めるのはどうもしっくりこない様な気がしたけれど、大真面目な失恋である事に変わりはなかった。
 彼の乾いたは目さっぱりとしていて、底には言葉を選ぼうとする彼らしい残酷な優しさが見える。唇が薄く開かれて、

「あんまり甘くないんだな」

 と独り言のようにつぶやいた。

 一つ許せば何でも口にしてしまいそうで、私は口をきつく結んだまま、微笑みに似た曖昧な表情で答える他なかった。


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