生熟れ



 ほとほと、好いただの好かれただの、自分には向いていないと感じる。
 そんな沈思黙考の中思わず溢れ落ちた溜息は音もなく、執務室の乾いた空気に混ざり合って消えた。
 
 向かいの執務机に向かう檜佐木副隊長は何をするでもなく、私がこの部屋に入ってからずっと頬杖をついた体勢で私をじっと睨みつけていた。(彼としてはそのつもりなんてないのかもしれないが、あの細く鋭い眼光をもって睨んでいないとは言わせない。)私は、その痛いほどの視線を頭頂部に感じながら、黙々と書類に判を押している。居心地の悪さったらない。
 手にしているのは、何の変哲もない九番隊の角印である。本来は隊長が管理すべきところ、当九番隊では檜佐木副隊長が管理している。管理と言っても、上位席官であれば一声掛けるだけで持ち出しも可能で、――他隊に比べて書類の多い九番隊では、その方が効率的だし都合がいい――ほとんどの場合は皆そうしている。そして私も御多分に洩れず、自分の執務室でのびのびと作業にあたろうかと思ったのだが。
 
「ここで押してけ」
「え?」
「書類多いなら俺も運ぶの手伝う。とにかく今日は持ち出し禁止」
「いや、でも……」
 
 私が食い下がっても、これ以上の会話は無用とでも言うように、檜佐木副隊長は口を閉ざして一瞥した。今までだったら二つ返事で貸出許可してくれていたはずなのに。有無を言わせぬ強い口振りで言われれば従わざるを得ず、結局私はもう四半刻ほど、この場に拘束されている。

 探るように上目で見遣れば、当たり前に視線がぶつかる。慌てて書類に目を落とすと、檜佐木副隊長が大きな大きなため息を吐いたのがわかった。

 彼の乱暴な言いぶりの理由も、不機嫌な理由も知っている。だからこそ、私はそれを甘んじて受け入れる他ない。
 

 ==

 
 全ての書類に目を通して判を押し終える頃には、すっかり日が落ちていた。今からまた席官執務室に戻って、残った仕事をこなしても、定時には出られるだろう。
 檜佐木副隊長は持っていた筆を置いて私を見た。その瞳は、先ほどよりは幾分か、柔らかな光を宿している、ような気がしないでもない。

「もう終わったのか」
「はい」

 判を受け取ろうと差し出された檜佐木副隊長の手をさりげなく避けて、机の上に判を置く。

「……今日は定時で帰れそうか?」
「どうでしょう」
「飯は?」
「適当に済ませます。では」

 無礼でもさっさと頭を下げて仕舞えば、もうこの場を後にできる。三十六計逃げるに如かず、触らぬ神に祟なし。先人はよく言ったものだ。

 ところが、私の思惑はそう簡単には許されない。お疲れ様でした、と言うが早いか踵を返そうとしたところで、ぐんっと強い力で手首を掴まれた。がたっと激しい音が響き渡る。
 椅子を倒すほどの勢いで立ち上がった檜佐木副隊長は、いつにも増して真剣な顔をして、刺すように燃える目でこちらを見ていた。
 
 紫乃、と、薄い唇が微かに、それでも確かに私の名を呼んだ。蛇に睨まれた蛙が如く、体が硬直する。
 
「そんなに避けられたら流石に堪えるぜ」

 怒りとも苛立ちとも違う、それでも昂った感情を抑えきれない。そんな低い声色は、私の胸を酷くざわつかせた。

「……手、離してください」
「やだ。離したらまたどっか行くだろ?」
「そんな、」

 やだ、なんて子供っぽい言葉が、奇妙に胸をたくすぐるのは何故だろう。
 言葉が続かなかったのは、否定できなかったからだ。体は既に、彼から距離を取ろうと重心が傾いている。
 
 恋愛経験のない私にとって、思慕というのは全く難解だった。胸に秘めていた時は何よりも清く美しく、それでいて残酷な冷たさを孕んでいると感じていたのに、恋人同士になってからというものの、融けた鉛のようにドロドロとして重く苦しく、共々を焼け殺さんとする熱を持っている。
 
 見つめ合えば眩しく、触れ合えば熱い。
 それでも求めずにはいられない。
 
「紫乃、こっち向いて」

 言われて、恐る恐る視線を上げれば、切長の双眸に捉えられる。腰の強そうな黒髪が、背後の窓から差す夕日に染まっている。小さな黒目には、顔を真っ赤にして今にも泣き出しそうな顔をした女が映っていた。
 
 檜佐木副隊長の硬い腕はいつの間にか私の腰をしっかりと抱え込んでいて、身動ぎすらもできない。心臓が、別の生き物でも居るかのように煩く鳴っている。息を吸い込む隙間がないくらいに喉が閉まってしまい、平常の呼吸すらも難しい。
 これが俗に言う、ときめきというものなのだろうか? だとしたら、こんなにも痛く苦しいものを、みんな求めているのだろうか?
 
「……もう逃げんなよ。取って食うわけじゃねえって」

 耳元に熱い吐息が触れる。檜佐木副隊長が少し身を屈めて、ややもすれば鼻先がぶつかりそうになる。私は硬い胸板に顔を沈め、その中で独り言のように、ごめんなさい、と溢した。触れ合うかもと思うと、恥ずかしさでどうにかなってしまいそうだった。
 聞こえていないだろうし、聞こえていなくてもいいと思ったけれど、頭上から「謝んなくていいけどよ」と、溜息混じりの声が聞こえた。その優しさにまた、きつく目を閉じる。
 檜佐木副隊長の骨張った手が、優しく頬に触れる。誘われ、おずおずと顔を上げると、視線が甘く絡んだ。彼の双眸が、私の心の奥底までを覗くように真っ直ぐと差し込んでくる。

「せっかく付き合えたっていうのにちょこまか逃げやがって」
「う……。す、すみません」 
「俺がどんだけ、必死に我慢してると思ってんだ?」
「いや、その」
「わかってると思うけどあえて言うぜ。……男だからな、俺」

 瞬間視界が暗がって、それから間も無く小さなリップ音が落ちる。啄むようなキスなのに、それだけで心も体も力が抜けて蕩かされていく。修兵さん。無意味に名を呼ぼうとしたが、叶わなかった。少しカサついた薄い唇。墨と紙の匂いが充満する執務室の中で、それよりも濃い彼の匂い。体温より熱い舌は、きつく閉ざされていた私の唇をそっと開かせて、口内に侵入していく。
  
 湿った唇が離れるとすぐに、私はその場にくずおれた。顎を伝う唾液を乱暴に拭いながら私を見下ろす檜佐木副隊長の目は熱情にギラギラとしていた。
 今までに感じたことのないような、強く昂った瞳の奥の熱に蝕まれるような感覚。
 
「…………今晩、俺の部屋な」
 
 もう絶対逃さねぇから、覚悟しとけよ。
 吐息と変わらないささやきが、私の体全体に電流を走らせた。まだ当分、床から立ち上がることはできない。

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