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 最早今の時刻すらもわからない。


 篁は一人、月明かりに仄かに照らされる石畳を歩いていた。

 全てを受け入れて諦観するには、余りにも長すぎるとしつきだった。
 瀞霊廷は、この数日間の出来事の後始末のために忙しそうに動き回る隊士たちの気配で今だに騒ついていた。至る所で松明の火が揺れ、いくつもの足音が行き交う。深夜だというのにいつまでも寝静まる様子はない。それもそうだろう。此度の戦闘は、失ったものが多すぎたのだから。

 名も知らぬ隊士達は、篁の顔を見てぎょっとした様な表情を浮かべて、わざとらしく深々と会釈する。それにいつも通りに応え通り過ぎれば、相手が振り返る気配がする。今のは、九番隊の。奴は本当に『こちら側』なのか。そう言わんばかりの、疑惑と好奇の目。

 逃げ隠れるように、人の気配の少ない方へ歩を進めた。時折思い立ったように立ち止まり、ぼうっと薄月を眺める。もう何分も何時間も、そうしている気がする。ふと足元に痛痒さを感じ目をやれば、裾から露出している足首に細かい擦り傷が出来ていた。指先も泥に薄汚れている。そうか、人目を避けて草むらを抜けたりしたから。こうして初めて、哀れな自分に気付く。そろそろ自室に戻らなければならないかとも思うけれど、どうしてか足が向かない。そうしてそのままふらりと、また歩き出す。眠いような眠くないような、それでも確かに酷い疲労を感じる頭で、これまでの日々を想いながら。
 
 彼の方と過ごした時間も彼の方の教えも、全て偽りだったのだろうか。陶器の様に美しく清いものだと思っていた彼の瞳は、底が見えぬほどに濁っていたのだろうか。だとすれば、彼の人から学んだ私の正義も全て紛い物なのだろうか。いつ、彼の人が異心を挟むようになったのだろうか。どうしてあの人の変化に気付けなかったのだろうか。浮かんでくるのは、今となっては知りようのないことばかりだった。

 何かに導かれるように、一歩一歩踏みしめて歩く。何も知らずに青々と葉を茂らす木々。すっかり手入れをさぼり、自然に身を任せるだけの中庭。石畳がずれていてつまづき易い歩道。遠くに見える稽古場の瓦屋根。全て、いつもあの方の半歩後ろから見ていた景色だ。
 はた、と顔を上げれば、目の前には見慣れた門構え。いつの間にか九番隊の隊舎にまで来てしまっていたらしい。

 木の葉の影から、灯火が見える。どうやら先客がいる様だった。

 執務室の前の外廊下には、寝巻き姿の檜佐木が一人で胡座をかいて座っていた。手元の盆には徳利が数本置かれ、檜佐木がいま手にしているものとは別に、何も注がれていない猪口が一つ置かれている。
 
「檜佐木、副隊長……」
「なんとなく、お前も此処に来るんじゃねぇかと思ってたんだ。飲むだろ?」

 顔を上げた檜佐木は、飲みかけの猪口を持ち上げて柔らかく微笑んだ。篁は少し戸惑いを浮かべたが、断ったところで行く当てもないかと思い、促されれるままに檜佐木の隣に腰を下ろす。その流れで背後を確認すると、執務室には外側から物々しい鍵がかけられていた。

 ーー捜査が入るのか。すっかり変わり果てた扉から、思わず目を背ける。あの扉の向こうには、あの方との思い出が多すぎる。それを全て、土足で踏みにじられるのだ。

 篁が執務室を睨み付けている間に、檜佐木は空の猪口に酒を注いでいた。底に蛇の目が描かれた、陶器製の至って平均的な猪口だ。

「当分は俺らも大人しくしてなきゃなんねぇな……。ほら」

 篁は、差し出された猪口を受け取る。

 これは、弔い酒だ。猪口を口元にあて、そのまま一息で呑み下す。味など分りもしないが、ただアルコールの熱が喉を焼いた。 
 
 厚ぼったい海のような夜空が何処までも続いている。もやもやとした月は然程明るくもなく、ただそこにいつも通り座っている。視線を下げれば点在する灯籠や篝火がまだらに人の香りを漂わせるものの、二人はその谷底にいる。わたしたちは其処から見上げることしかできない。くろぐろとした天を。ひっそりと逃げようにも、月影は呪縛の如く離れない。たとえ夜が明けても、月はずうっと寡黙に、私たちを見下ろしている。

 檜佐木は俯いて酒を舐めながら、篁は所在なさげに月を眺めながら、ただ同じ時間だけが過ぎていく。

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